熊田兄弟の退陣と武田長兵衛商店の救援(1931年・メディパルHDの決断)

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論点自主再建か債権者に負債を仰ぐか
メディパルHD:業績の推移
売上高(億円)
創業家を経営から外し、負債20万円の引き受けを仰いだ再建

何をなぜ決めたか:創業家を経営から外し、負債20万円の引き受けを仰いだ再建

概要

1931年3月、末弟熊田庸三氏が退陣し、1898年の創業から三星堂を担った熊田佐一郎氏ら兄弟は一切の経営面から去った。新しい体制は代表取締役に三宅健太郎氏、取締役に久保甚太郎氏と川口精一氏、監査役に立田信郎氏を選び、資本金を30万円から12万円へ減額し、従業員代表を経営へ参加させて発足した。熊田庸三氏の退陣当時に三星堂が背負っていた買掛金と借金は合わせて20万円にのぼり、これを引き継いだままでは再建の見込みが立たなかった。

背景

1920年3月の株式大暴落に始まる戦後不況のさなか、熊田佐一郎氏が出資して経営に参加していた同族のガラス会社が整理状態に追い込まれ、その金策が重荷となった。三星堂が完全に行き詰まって整理に入ったのは1922年6月で、同族が営むガラス工業会社の倒産が相次いだ後だった。

株式会社三星堂の設立は翌1923年5月で、資本金は20万円とされた。ただし現金で払い込まれたのは8,500円にとどまり、差額の19万1,500円は熊田佐一郎氏が持つ店舗のすべてと営業権を金額に換えて埋めている。仕入先は買掛金を半分にする支援に応じたが、その代償として信用を失った。銀行が融資に応じないため、市中の金融業者から高い利息で借りる場面が多くなった。道修町の問屋も品物を回さなくなり、『現金をもってきなはれ』と断られるのはまだましな方で、現金を持って行っても取り合わない店すらあった。

内容

ソーダーファンテンの開設や優先株の募集で資本金を30万円まで積み上げても内情は変わらず、配当は第6期以降に無配へ転落した。1926年5月に熊田佐一郎氏が経営の第一線へ復帰して初代社長となるが、鈴木商店の倒産に至る金融恐慌のなかで業績の挽回は望めず、1928年3月に社長を辞任する。1931年3月に敷いた新しい体制も、手元資金が尽き、売込み競争が激しくなるなかでは成果を出せなかった。幹部は夜通し話し合ったすえ、大口の債権者に苦境と再建の計画を包み隠さず打ち明けることにした。三宅健太郎氏と久保甚太郎氏が交渉にあたって5代目武田長兵衛氏を動かし、20万円の負債はすべて武田長兵衛商店が引き受けて、長い期間の分割払いという優遇も約束された。

なお、1949年に三宅健太郎氏が二代目社長となるまでの21年間は社長が空席で、代表取締役専務が最高責任者だった。

含意

新体制は従業員の献身的努力、高利借入金の返済による支出利子の低減、業務組織の変革による能率増進、営業費と人件費の低下、無謀な販売競争を避けた回収、仕入と販売と在庫品の統制という6項目を経営方針に掲げた。株主に対する減資のわびとして全従業員の給与を1割削減し、古参社員を整理して小店員を増やす一方、発足から間もなく4分の復配にこぎつける。

売上は1932年に72万7千円、1933年に74万円、1935年には卸部80万円と小売7万円の計87万円へ伸び、同年12月には手狭になった卸部営業所を栄町から葺合区北本町三丁目へ移した。1935年に興信所が行なった信用調査には『当社現在の特色は武田長兵衞商店が総株数の六割以上を占め、かつ商品の四割は武長商店にて仕入れ、なお武長は三星堂に対し熊田氏営業中の滞り金十四万四千余円を九万七千円に切捨て、現在額は五万二千七百三十余円を有する不離密接の因縁関係あり』とある。武田長兵衛商店への負債は1938年に予定より早く返済し、1941年には6万円を増資して資本金18万円とし、増資株の一部は従業員へ無償で割り当てられた。

いつ何が起きたか16件
考察:20万円を引き受けた者が、6割の株を保有するということ
考察

考察:20万円を引き受けた者が、6割の株を保有するということ

1922年の整理で三星堂が失ったのは信用であって、帳簿上の資本ではなかった。株式会社の資本金20万円のうち現金は8,500円しか入らず、残りは熊田佐一郎氏の店舗と営業権を換算して埋めている。増資は優先株で重ね、配当は無理算段で第5期まで続けたのちに止まった。そうして積み上げた30万円を1931年に12万円へ落とした減資は、9年かけて実体のない資本を認めて消す手続きにあたる。創業家の退場もその処理の一部であった。熊田佐一郎氏は1926年に社長として戻り、1928年に辞めている。1931年3月に熊田庸三氏が退いたとき、代表を務められる熊田佐一郎氏はもう残っていない。三矢の訓にちなんで父が贈った屋号の店から、三兄弟がそろって消えた。

武田長兵衛商店が20万円を引き受けた見返りは、1935年の信用調査に数字で残っている。総株数の6割以上、仕入の4割。三星堂は債務の重さを消す代わりに、独立した総合問屋としての立ち位置を薄めた。1904年の広島進出で4代目の厚意を受け、1931年に5代目の恩顧で再建へ向かった経緯を社内は語り伝えてきたが、恩情の記憶と資本の支配は同じ出来事の裏表にある。三星堂が1938年に予定より早く返済を終え、1941年の増資で株の一部を従業員へ無償で割り当てたことは、その関係をどう扱おうとしたかを示す。仕入先に頭を下げて生き延びた店が、仕入先の系列に収まりきらずに卸として立ち直るまでに、さらに7年かかっている。

Yutaka Sugiura, 2026年9月
参考文献

参考文献

参考
  • 風雪七十年 : 三星堂社史(三星堂、1968年)

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