メディパルホールディングス三星堂の創業:同業と争わず店を移し、病院と官需の卸へ回った
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- 概要
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1898年10月8日、21歳の薬剤師熊田佐一郎氏が神戸市元町六丁目一一三番屋敷に熊田三星堂薬舗を開いた。間口二間半・建坪およそ7坪、開業資金は父熊田佐平氏が長男の独立のために用意した500円と、後援者2名が500円を限度に随時融通する約束であった。初日の売上は1円90銭5厘、店主と店員をかけもちする一人店からの出発である。
- 背景
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当時の元町通は一丁目の西村蘭更堂から五丁目の横田精々薬館まで薬店が軒を連ね、同業組合の徳盛会は既設店舗から六十間以上離れていなければ加入も問屋との取引も認めない距離制限を敷いていた。三星堂の開店位置は相生町の盛本トンビ薬店に近く、この制限にかかって根強い圧迫を受けた。一方で明治中期から洋薬の輸入が増え、神戸には石炭酸やサリチル酸を扱う商館が並んで薬の集散地となっていた。
- 内容
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熊田佐一郎氏は徳盛会に対抗せず、1900年に東寄りの元町六丁目一三四番屋敷へ移った。新しい店舗は約70坪で開店当時の10倍にあたる。将来有力な得意先となる同業と争うことを避けた移転で、このときすでに薬品卸売業の計画が練られていた。1901年、京都薬学校の同窓で県立神戸病院の薬局勤めとなった山本宥太郎氏の世話で病院の入札に初めて参加したのが卸進出の始まりで、続いて官設鉄道や鐘紡からも大口の注文を受ける。
1904年の日露戦争勃発と同時に広島へ出張所を置いたが、創業7年目の資力では大量の商品を納期どおりに揃えることが難しく、大阪の武田長兵衛商店四代目から 『熊田さんお国のためにしっかりやって下さい、できるだけ援助をしましょう。私の方では国家非常の時に、衛生材料の供給に事欠かさぬよう、ご奉公の考えでいます。商品の手当、準備は十分にやっている。品物はどしどし出しますよ』 と激励されて供給を得た。
距離制限に負けた店が、なぜ卸になれたのか
徳盛会の距離制限は、開業したばかりの三星堂を問屋との取引から締め出す仕打ちであった。ところが熊田佐一郎氏はこれに抗議も対抗もせず、2年目に店を東へ動かしている。組合に頭を下げて入会が許され、店は約70坪と10倍になった。この移転を敗北とみるかどうかで、創業の読み方が変わる。争えば勝てたとしても、勝った相手は元町通に並ぶ薬店であり、卸に回ったときの得意先そのものである。小売の店頭で同業と客を奪い合う位置から半歩退き、彼らへ薬を流す側に立つ。距離制限に押し出された移転が、結果として業態の選択になったとみることができる。
もっとも、卸へ回れたのは温情の産物ではない。1899年のペストで消毒薬が5倍に暴騰したとき、開業間もない熊田佐一郎氏には応じるだけの準備がなく、相場は目の前を通り過ぎた。その悔いが1904年、日露戦争の開戦と同時に広島へ人を出す速さになっている。県立神戸病院の入札を取れたのも薬学校の同窓が病院薬局にいたからで、資力のない店を支えたのは学校と組合という人の縁であった。欠品を出さないという開店初日の矜持が「衛生百貨店」の看板を経て総合問屋の品揃えに育つまで、17年かかっている。
Yutaka Sugiura, 2026年9月
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