徳盛会の距離制限は、開業したばかりの三星堂を問屋との取引から締め出す仕打ちであった。ところが熊田佐一郎氏はこれに抗議も対抗もせず、2年目に店を東へ動かしている。組合に頭を下げて入会が許され、店は約70坪と10倍になった。この移転を失敗とみるかどうかで、創業の読み方が変わる。争えば競争優位に立てたとしても、優位に立った相手は元町通に並ぶ薬店であり、卸に回ったときの得意先そのものである。小売の店頭で同業と客を奪い合う位置から半歩退き、彼らへ薬を流す側に立つ。距離制限に押し出された移転が、結果として業態の選択になっただろう。
もっとも、卸へ回れたのは温情の産物ではない。1899年のペストで消毒薬が5倍に暴騰したとき、開業間もない熊田佐一郎氏には応じるだけの準備がなく、相場は目の前を通り過ぎた。その悔いが1904年、日露戦争の開戦と同時に広島へ人を出す速さになっている。県立神戸病院の入札を取れたのも薬学校の同窓が病院薬局にいたからで、資力のない店を支えたのは学校と組合という人の縁であった。欠品を出さないという開店初日の矜持が「衛生百貨店」の看板を経て総合問屋の品揃えに育つまで、17年かかっている。