メディパルホールディングス三星堂・クラヤ薬品・東京医薬品の三社合併と本店の東京移転

薬価差が消えていく卸業界で、神戸創業の地域卸はどこに活路を求めたか

時期 2000年4月
意思決定者(推定) 山田隆史(三星堂社長)・熊倉貞武(クラヤ薬品社長)・和田進 東京医薬品社長
論点 卸再編下の規模と収益性
概要
2000年4月1日、神戸創業の三星堂が東京のクラヤ薬品・東京医薬品と合併し、株式会社クラヤ三星堂として発足した。本店を東京都中央区へ移し、売上高で医療用医薬品卸の首位に立った経営判断。
背景
2年に1度の薬価改定で薬価差は1993年の19.6%から1999年に9%前後まで縮み、卸の社数は1987年の434社から1997年に277社へ減った。1997年7月にスズケンと秋山愛生舘が上場企業同士で初の合併を発表し、広域卸への集約が加速した。
内容
3社の社長は「合併する3社のいずれでもない全く新しい会社」を前提に設計を進め、14の専門部会で統合案を詰めた。営業拠点は24カ所を統廃合して171カ所、物流センターは11施設から7施設へ集約し、仕入機能は医療用・一般用とも全国で一本化した。
含意
合併初年度の2001年3月期の売上高は1兆730億円に達した一方、営業利益は19億円、経常利益は54億円にとどまった。規模の確保と利幅の確保が別問題であることが、発足直後の数字に表れた。
筆者の見解

足し算ではなく引き算の合併

この合併の特徴は、対等を建前としながら、実務では「3社のいずれでもない会社」という前提を先に置いた点にある。206回の部会と245回の会議という数字は、統合の速さではなく、統合の手間を惜しまなかったことを示している。薬価差が19.6%から9%へ縮む過程で、卸に残された利益の源は仕入と物流の重複を削ることへ移っていた。3社が最初に手をつけたのが営業拠点24カ所と物流センター4施設の削減だったことは、この合併が販売網の足し算ではなく費用の引き算を目的としていたことをよく表している。

もっとも、引き算だけでは利幅は戻らなかった。売上高1兆730億円に対する営業利益19億円という2001年3月期の数字は、規模が価格交渉力へそのまま変わらない業界の性格を映している。2004年に渡辺秀一社長が「単なる薬の配送屋でなく」と語ったとき、合併から4年が過ぎていた。神戸創業の卸が東京へ本店を移して手にしたのは首位の座であり、利幅ではなかった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

薬価差の縮小と卸の淘汰

1990年代の医薬品卸は、2年に1度の薬価改定のたびに利幅を削られていた。クラヤ薬品の熊倉貞武社長は1999年11月の講演で、薬価差が1993年当時の19.6%から9%前後まで縮んだと説明した。同社の売上総利益率も1995年の11.7%から1999年9月中間期には9.8%へ下がっていた。卸の社数は1987年の434社から1997年には277社へ減り、経営が悪化した地域卸が広域卸の傘下に入る動きが続いた[1][2]

1997年7月24日、全国首位のスズケンが北海道の秋山愛生舘との合併を発表した。上場企業同士の合併は業界で初めてで、三星堂の山田隆史社長はこれを「医薬品卸業界もいよいよボーダーレスの時代になった」と受け止めた。クラヤ薬品の熊倉貞武社長は同じ時期に、全国展開して残るのは「クラヤ、スズケン、東邦薬品、福神とあと一社」と語り、生き残る広域卸を5社程度とみていた。三星堂は武田薬品工業と関係の深いバレオ・サンエス・アステムと組み、物流システムの共同構築に着手した[3]

合併3社それぞれの事情

三星堂は1898年に神戸で創業し、近畿と北陸を地盤としていた。1999年9月中間期の売上高は1,340億58百万円で前年同期比2.5%増えた一方、営業利益は4億97百万円で84.5%減、経常利益は10億63百万円で70.1%減となった。販売価格の低下で売上総利益率は10.42%へ1.61ポイント下がった。近畿では大阪市場を中心に医療機関の購買力が強まり、市場全体が3.6%伸びるなかで三星堂の伸びは2.7%にとどまってシェアを落とした[4]

クラヤ薬品は東京を地盤に、調剤薬局向けの取引を伸ばしていた。1999年9月中間期の売上高は2,617億77百万円で前年同期比9.8%増、調剤薬局向けが売上の27.6%を占めた。従業員は1997年10月の3,824人から3,461人へ減り、管理部門を1,440人から1,169人へ絞ったことで1人当たり売上高は1.2億円から1.5億円へ上がった。同年9月に浦安の新東京物流センターを開き、11月には東京八重洲へ本社を移した。東京医薬品は和田進社長の下で首都圏に基盤を持ち、練馬と神奈川に物流センターを構えていた[5][6]

決断

「3社のいずれでもない会社」という前提

2000年4月1日、三星堂・クラヤ薬品・東京医薬品の3社は合併し、株式会社クラヤ三星堂として発足した。本店は東京都中央区に置かれ、1898年に神戸で創業した卸の本社機能が東京へ移った。3社の社長は合併準備にあたり、新会社を「合併する3社のいずれでもない全く新しい会社」と定め、新会社にとって何が最善かだけを判断の基準に据えた。山田隆史社長は全従業員に「まず和して、しかる後に大事をなす」という言葉を伝え、一体化を数値目標より先に置いた[7][8]

準備の実務は14の専門部会に割り振られた。三星堂側の集計では、営業・物流・管理の全般にわたって合計206回・延べ2,200人以上の検討が重ねられ、部会で結論の出ない事項だけが3社長による合併推進委員長会へ上がった。クラヤ薬品の熊倉貞武社長は1999年4月から10月までに会議245回・参加2,650名・1,560時間を費やしたと述べ、3社長が相互に相手の主要事業所を訪ねて幹部と議論したと説明した。議論があっても結論は必ず一本にし、各社長が社員に違う内容を伝えることはしないという運用を敷いた[9][10]

拠点・物流・仕入の一本化

統合の中身は重複の削減であった。営業拠点は発足までに24カ所を統廃合して171カ所とし、物流センターなどを加えると31カ所を整理した。3社で11あった物流センターは7施設に集約し、医療用医薬品は西日本を三星堂の兵庫・大阪の両センターへ、東日本をクラヤ薬品の新東京・大宮と東京医薬品の神奈川の3センターへ寄せた。営業組織は医療用医薬品を東日本・西日本の2本部制、一般用医薬品を薬粧営業本部へ一本化し、仕入機能は医療用・一般用ともに全国で一つにまとめた[11]

人員は合併発表時に6,500人としていたところを6,300人へ見直した。山田隆史社長は省力化をコスト削減のための手段と説明し、人件費の削減だけを目的とする人員整理は行わず、人材の発掘と育成を重くみる考えを示した。熊倉貞武社長は合併によって228人が新戦力として生まれると述べ、東海・北海道・北関東・新潟・富山・滋賀・岡山・広島を戦略地域に挙げた。販管費比率は7%を目標に置き、重複拠点の統廃合と間接人員比率の縮小で達成する計画とした。合併に伴う費用は初年度に35億82百万円を見込んだ[12][13]

結果

売上高1兆円と、営業利益19億円

3社の2000年3月期の単体売上高は合算で約8,920億円、医療用医薬品の全国シェアは約15%で、首都圏と関西圏ではともに約30%に達した。得意先は約7万1,000軒、取引先メーカーは1,500社を超え、子会社を含めて28都道府県で営業した。売上高では業界首位となり、山田隆史社長が掲げた「日本一の医薬品卸企業」は規模の面では発足時点で実現した。中期経営計画は3年後の2003年3月期に連結売上高1兆2,000億円・経常利益230億円・ROE9%を目標として置いた[14]

合併初年度の2001年3月期、クラヤ三星堂の売上高は1兆730億円に達した。一方で営業利益は19億円、経常利益は54億円にとどまり、売上高に対する営業利益率は0.2%を下回った。薬価改定と医療機関の値下げ要求は合併後も続き、2004年11月には医薬品卸の大手3社がそろって業績予想を下方修正した。傘下クラヤ三星堂の渡辺秀一社長は当時、「これからは単なる薬の配送屋でなく、粗利のとれる、トータルヘルスケア企業に脱皮していかなければならない」と述べている[15][16]

連続買収と持株会社化へ

合併で得た全国網は、その後の買収の土台となった。2003年3月に潮田三国堂薬品、9月に井筒薬品と平成薬品を完全子会社化し、同年12月12日には広島のエバルス・福岡のアトルとの経営統合を発表した。3社の売上合計は2004年3月期予想で1兆6300億円に達し、従業員1人当たりの生産性を1億6000万円から2億円へ引き上げる計画を掲げた。同年12月には大阪証券取引所市場第一部の上場を廃止し、東京証券取引所へ一本化した[17][18]

2004年4月、エバルスとアトルを株式交換で完全子会社化してメディセオグループが発足し、5月には中川誠光堂が加わった。同年10月、会社分割で医療用医薬品等卸売事業の営業をクラヤ三星堂へ承継させ、商号を株式会社メディセオホールディングスへ改めて事業持株会社へ移った。2000年の合併で一つにまとめた営業・物流・仕入の機能は、買収した地域卸を並べて管理する持株会社の下へ置き直された。持株会社の商号から三星堂もクラヤも消え、その名は医薬品卸事業を継いだ子会社に残った[19]

出典・参考

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