スズケン の歴史

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創業 1932年
創業者 鈴木謙三
創業地 愛知県名古屋市東区
創業
1932年11月13日、鈴木謙三氏が名古屋市東区下竪杉町で薬種商の鈴木謙三商店を創業した。13歳から薬品問屋に勤め、27歳で独立している。世の中の役に立ち、しかも使えばなくなる商品でなければ商売が長続きしないと考えて薬を選び、競争の激しい名古屋市内を避けて近郊の開業医を一軒ずつ開拓した。医師と直接取引する形は、その後も販売の基本として残っている。1946年8月に資本金18万円で株式会社鈴謙洋行を設立し、1947年11月に鈴木謙三商店へ改称、1948年4月には個人商店の営業権を譲り受けた。同年10月に本社を名古屋市東区へ移し、1964年10月に社名をスズケンへ改めている。
決断
卸でありながら、作る側と運ぶ側を自社へ取り込んできた。1969年8月に愛知ミドリ十字の全株式を取得して医療機器の製造へ入り、1990年9月には医薬品メーカーの三和化学研究所の株式の過半数を取得した。仕入先を自社に抱える構図で、2026年3月期のヘルスケア製品開発事業は売上119億円・利益8億円と小さいが、利益率は卸売の1.3%に対し7.0%である。2008年10月には調剤薬局のファーコスを子会社化して川下へも入り、2009年9月には運送会社の中央運輸を株式交換で完全子会社化して配送を外へ出さずに持った。薄い利ざやの卸を続けるために、その前後の工程を利益の出る事業として抱え込んだ。
現況
売上の94%は、利益率1.3%の医薬品卸売である。2026年3月期の連結売上高は2兆4,866億円、営業利益364億円、親会社株主に帰属する当期純利益381億円。医薬品卸売事業が2兆3,494億円を売り上げてセグメント利益315億円を計上し、売上の94%・利益の87%を占める。残りは地域医療介護支援939億円・利益15億円、医療関連サービス等246億円・13億円、ヘルスケア製品開発119億円・8億円、スペシャリティ医薬品流通受託68億円・12億円である。売上高営業利益率1.5%の商いでは、1品を運ぶ費用の差がそのまま損益に出る。2024年4月に首都圏物流センターを埼玉県草加市へ開いたのも、量を集めて配送の単価を下げるためである。
競合
医薬品卸4社のうち、持株会社になっていないのはスズケンだけである。2009年、メディパルホールディングス会社分割でグループ内の卸6社を一つへまとめた。アルフレッサと東邦も持株会社の下へ卸の事業会社を並べた。スズケンは1994年1月の加藤薬品・神弘薬品を皮切りに、1998年4月の秋山愛生舘、2002年10月のオオモリ薬品などを本体へ吸収合併し、株式交換で完全子会社にしたサンキ・アスティス・翔薬とあわせて全47都道府県へ拠点を広げた。持株会社は買った会社を並べたまま動かせるが、合併は営業と物流を一本にしないと成立しない。この選択が、卸売の7,834名を一つの人事と一つの配送網の下に置く現在の形を作った。
長期業績の推移 1995〜2026年
スズケン:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 名古屋の薬種商から日本一の薬品総合商社へ、スズケンの36年 (1932年〜)

創業ストーリー(1)

薬品問屋から独立した鈴木謙三と名古屋近郊の開業医

鈴木謙三氏は13歳から薬品問屋に勤め、小学校を終えたところで学業を離れた[1]。三男に生まれ、父は教育家、兄弟はいずれも大学へ進んでいる[2]。27歳で勤め先の薬品問屋から独立し、1932年11月13日に名古屋市東区下竪杉町で薬種商『鈴木謙三商店』を創業した[3]。扱う品を薬に決めたのは、世の中の役に立ち、しかも使えばなくなる商品でなければ商売が長続きしないと考えたからである[4]。販路では競争の激しい名古屋市内を避け、鈴木氏は近郊の開業医の開拓に力を注いだ[5]。医師と直接取引する形は、その後も同社の販売の基本として残った[6]

  • 野田経済 1968年2月7日号
    • [1]鈴木謙三は13歳から働き始め、小学校でやめた
    • [2]鈴木謙三は三男で、父は教育家、兄弟はみな大学まで進学した
    • [4]鈴木謙三は、世の中のためになり、かつ消耗する商品でないと長続きしないという理由で薬屋になったと述べた
    • [6]1968年時点でも得意先の医師と直接取引していた
  • 株式会社スズケン 有価証券報告書【沿革】/証券 1995年11月号「新規上場会社紹介 株式会社スズケン」
    • [3]1932年11月13日、鈴木謙三が名古屋市東区下竪杉町で薬種商『鈴木謙三商店』を創業。勤めていた薬品問屋から独立したもので、独立時は27歳
  • 証券 1995年11月号
    • [5]創業期は競争の激しい名古屋市内を避け、近郊の開業医販路の開拓に注力した

戦時下の統制のなかで、鈴木謙三商店は闇取引に加わらなかった[7]。アルコールの闇値が200円に達したときも18円で売り、社員は不便を強いられた[8]。戦災では店に掲げていた額が焼け、戦後に武者小路実篤へ『士魂商才』の書を改めて依頼した[9]。鈴木氏は社員に、嘘をつくな、駆け引きをするなと言い続けた[10]。値段そのものは他社に比べて安いわけではなく、鈴木氏は金を儲けようと思ったことはないと述べている[11]。名古屋市内を避けた販路の取り方は戦争による打撃を比較的小さく抑え、1968年時点の得意先の医師は全国で約2万6000人に達した[12]

  • 野田経済 1968年2月7日号
    • [7]戦時中に闇取引をしなかったことが得意先増加の一因だと鈴木謙三が語った
    • [8]アルコールが200円もするときに18円で売っており、第一に困ったのは社員だった
    • [9]以前に掲げてあった額が戦災で焼けたため、武者小路実篤に『士魂商才 実篤、鈴木謙三氏の為に』の額を新たに書いてもらった
    • [10]鈴木謙三は社員に、嘘は絶対いうな、かけ引をしてはならないと指示していた
    • [11]鈴木謙三は自社の商品が安いことはなく普通だと述べ、金をもうけようと思ったことは全然ないと語った
  • 証券 1995年11月号
    • [12]名古屋市内を避けて近郊開業医を開拓した方針が戦争による影響を比較的少なく抑えた。1968年時点の取引先の医師は全国で約2万6000人
  • 野田経済 1968年2月7日号
    • [1]鈴木謙三は13歳から働き始め、小学校でやめた
    • [2]鈴木謙三は三男で、父は教育家、兄弟はみな大学まで進学した
    • [4]鈴木謙三は、世の中のためになり、かつ消耗する商品でないと長続きしないという理由で薬屋になったと述べた
    • [6]1968年時点でも得意先の医師と直接取引していた
    • [7]戦時中に闇取引をしなかったことが得意先増加の一因だと鈴木謙三が語った
    • [8]アルコールが200円もするときに18円で売っており、第一に困ったのは社員だった
    • [9]以前に掲げてあった額が戦災で焼けたため、武者小路実篤に『士魂商才 実篤、鈴木謙三氏の為に』の額を新たに書いてもらった
    • [10]鈴木謙三は社員に、嘘は絶対いうな、かけ引をしてはならないと指示していた
    • [11]鈴木謙三は自社の商品が安いことはなく普通だと述べ、金をもうけようと思ったことは全然ないと語った
  • 株式会社スズケン 有価証券報告書【沿革】/証券 1995年11月号「新規上場会社紹介 株式会社スズケン」
    • [3]1932年11月13日、鈴木謙三が名古屋市東区下竪杉町で薬種商『鈴木謙三商店』を創業。勤めていた薬品問屋から独立したもので、独立時は27歳
  • 証券 1995年11月号
    • [5]創業期は競争の激しい名古屋市内を避け、近郊の開業医販路の開拓に注力した
    • [12]名古屋市内を避けて近郊開業医を開拓した方針が戦争による影響を比較的少なく抑えた。1968年時点の取引先の医師は全国で約2万6000人
創業ストーリー(2)

鈴謙洋行の設立と個人商店からの営業権譲受

鈴木氏は1946年8月10日、静岡県浜名郡に鈴謙洋行を設立し、初代社長に就任した[13]。医薬品の卸売りを目的とする法人であり、株式は同族が握って資本金を増やさない経営を長く続けた[14]。1947年11月には商号を個人商店と同じ鈴木謙三商店に変更した[15]。翌1948年4月、個人商店『鈴木謙三商店』の営業権を譲り受け、創業から16年続いた個人経営に区切りをつけた[16]。同年10月には本社を静岡から名古屋市東区東片端町へ移し、商いの拠点を創業の地へ戻した[17]。東片端町の住所は、1995年に株式を上場した時点でも本店所在地として記載されている[18]

  • 株式会社スズケン 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1946年8月10日、静岡県浜名郡に鈴謙洋行を設立。鈴木謙三が1946年8月に初代社長へ就任
    • [15]1947年11月、商号を鈴木謙三商店に変更
    • [16]1948年4月、個人商店『鈴木謙三商店』の営業権を譲受
    • [17]1948年10月、本社を名古屋市東区東片端町に移転。それ以前の本社は1946年8月設立地の静岡県浜名郡
  • 証券 1995年11月号
    • [14]昭和21年、鈴木謙三氏が中心となり静岡県浜名郡において医薬品の卸売りを目的として設立された。1968年時点でも同族会社で、資本金は3,750万円にとどまっていた
    • [18]1995年9月の上場時の本店所在地は愛知県名古屋市東区東片端町8番地

鈴木社長は商法の要点を、まず与えることと取引先を大切にすることに置き、購買担当には仕入先を買いたたくなと指示した[19]。利益の取り方も、得意先に儲けてもらい社員に給料を払ったうえで残りを受け取る順序だった[20]。設備の持ち方にも同じ考えを通し、卸は商品を仕入れる以上は借家で商売をしないとして、土地を買って自社で建物を建てた[21]。ビルを借りて営業所を置くことは避け、建てる際には必要な面積の3倍の土地を買い、3分の1に建物を置いて残りを寝かせている[22]。1968年9月の仮決算では、短期借入金4億3000万円に対して預金は15億7000万円あった[23]。銀行から金を借りる際も、担保を差し入れずに済ませた[24]

  • 野田経済 1968年2月7日号
    • [19]鈴木謙三はスズケン商法を『まず与えよ。大切にせよ』とまとめ、購買担当にも買いたたくなと指示していた
    • [20]鈴木謙三は、まず得意先に儲けていただき、社員に給料を出して残ったらいただくと述べた
    • [21]卸は品物を仕入れるため借りた家では商売をせず、土地を買い家を建てて商売する方針だった
    • [22]ビルを借りて営業することは絶対にせず、建物をつくるときは土地を3倍ほど買い、3分の1に家を建てて残る3分の2はしまっておいた
    • [23]1968年9月の仮決算のバランスシートで、短期の借入金は4億3,000万円、預金は15億7,000万円
    • [24]銀行で金を借りるとしても担保を入れることはしなかった

与える相手は得意先と仕入先だけではなかった[25]。鈴木社長は稟議書に目を通さず、適当に処置するよう記したゴム印を押して返し、支店の開設地にも一度も足を運んでいない[26]。1960年代初めには必要な人数の3倍を採用し、1人当たりの販売高は落ち、経費も3倍かかった[27]。採用の目安は薬科大学に入学できる学力に置き、入社後は製薬会社の社員や専門の教員を講師にして薬の知識を学ばせ、海外にも派遣した[28]。賞与は6月に3カ月分、12月に3カ月分、臨時に4カ月分の計10カ月分を支給し、定年で辞めさせた社員はいなかった[29]

  • 野田経済 1968年2月7日号
    • [25]鈴木謙三は取引先と仕入先に加え、社員の処遇と権限委譲でも与える側に立った
    • [26]鈴木謙三は稟議書を全然見ず『適当に処置してください』というゴム印を押して返し、支店をつくるときも一度も現地へ行ったことがなかった
    • [27]1968年の7年ほど前に必要人員の3倍を採用し、1人当たりの販売高は落ち、経費も3倍かかった
    • [28]社員募集は薬科大学に入学できるレベルを目標とし、入社後は製薬会社の人や専門の先生を講師に勉強させ、海外にも勉強に出していた
    • [29]賞与は6月に3カ月分、12月に3カ月分、臨時に4カ月分の計10カ月分。定年でやめてもらった人はいなかった
  • 株式会社スズケン 有価証券報告書【沿革】
    • [13]1946年8月10日、静岡県浜名郡に鈴謙洋行を設立。鈴木謙三が1946年8月に初代社長へ就任
    • [15]1947年11月、商号を鈴木謙三商店に変更
    • [16]1948年4月、個人商店『鈴木謙三商店』の営業権を譲受
    • [17]1948年10月、本社を名古屋市東区東片端町に移転。それ以前の本社は1946年8月設立地の静岡県浜名郡
  • 証券 1995年11月号
    • [14]昭和21年、鈴木謙三氏が中心となり静岡県浜名郡において医薬品の卸売りを目的として設立された。1968年時点でも同族会社で、資本金は3,750万円にとどまっていた
    • [18]1995年9月の上場時の本店所在地は愛知県名古屋市東区東片端町8番地
  • 野田経済 1968年2月7日号
    • [19]鈴木謙三はスズケン商法を『まず与えよ。大切にせよ』とまとめ、購買担当にも買いたたくなと指示していた
    • [20]鈴木謙三は、まず得意先に儲けていただき、社員に給料を出して残ったらいただくと述べた
    • [21]卸は品物を仕入れるため借りた家では商売をせず、土地を買い家を建てて商売する方針だった
    • [22]ビルを借りて営業することは絶対にせず、建物をつくるときは土地を3倍ほど買い、3分の1に家を建てて残る3分の2はしまっておいた
    • [23]1968年9月の仮決算のバランスシートで、短期の借入金は4億3,000万円、預金は15億7,000万円
    • [24]銀行で金を借りるとしても担保を入れることはしなかった
    • [25]鈴木謙三は取引先と仕入先に加え、社員の処遇と権限委譲でも与える側に立った
    • [26]鈴木謙三は稟議書を全然見ず『適当に処置してください』というゴム印を押して返し、支店をつくるときも一度も現地へ行ったことがなかった
    • [27]1968年の7年ほど前に必要人員の3倍を採用し、1人当たりの販売高は落ち、経費も3倍かかった
    • [28]社員募集は薬科大学に入学できるレベルを目標とし、入社後は製薬会社の人や専門の先生を講師に勉強させ、海外にも勉強に出していた
    • [29]賞与は6月に3カ月分、12月に3カ月分、臨時に4カ月分の計10カ月分。定年でやめてもらった人はいなかった
創業ストーリー(3)

東京・金沢への支店開設と商号スズケンへの変更

鈴謙洋行は名古屋を出て、1959年5月に東京都世田谷区へ東京支店を開いた[30]。同じ年には山梨県にも営業拠点を置き、名古屋を軸にした商圏を関東へ広げている[31]。1960年には薬局・薬店向けの薬粧事業を始めた[32]。1961年に国民皆保険制度が導入されたことにより、医療用医薬品の需要は急速に増大した[33]。1962年5月には金沢支店を設け、あわせて小林薬品の営業権を譲り受けて石川県の得意先を引き継いだ[34]。1964年10月、商号をスズケンに変更した[35]。社章は鈴の字の中に謙の字を収めた形で、若い社員のいたずら書きを鈴木社長がそのまま採った[36]

  • 株式会社スズケン 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1959年5月、東京都世田谷区に東京支店を開設
    • [34]1962年5月、金沢支店を開設し小林薬品の営業権を譲受
    • [35]1964年10月、商号をスズケンに変更
  • 証券 1995年11月号
    • [31]昭和34年に東京都および山梨県に営業拠点を設置した
    • [32]昭和35年に薬粧事業を開始した。薬粧部は薬局・薬店向けの部門
    • [33]昭和36年の国民皆保険制度の導入により医療用医薬品の需要は急速に増大した
  • 野田経済 1968年2月7日号
    • [36]社章は鈴の中に謙の字が入った形で、若い社員のいたずら書きを鈴木謙三が採用したもの

1968年初めのスズケンは、武田を除く国内製薬会社のほぼ全ての薬を扱い、年商は170億円に達した[37]。資本金3750万円、支店と出張所は全国40余カ所、従業員は1500人である[38]。1967年3月期の売上高は132億円で、配当は10割だった[39]。営業の範囲は東の東京から西の三重・福井までで、鈴木社長は市場になお余裕があるとみていた[40]。傍系には1953年1月に設立した三和化学研究所があり、製薬はそこで手がけて自社で販売させた[41]。三和化学研究所の営業所は北海道から九州まで17カ所に置かれ、スズケン本体の営業網とは重複しなかった[42]

  • 野田経済 1968年2月7日号
    • [37]1968年時点のスズケンは武田を除いた国内全製薬会社の薬品を一手に扱い、年商は170億円
    • [38]資本金3,750万円、支店・出張所は全国40余カ所、従業員は当社のみで約1,500人
    • [39]昭和42年3月期の売上高は132億円、配当は10割
    • [40]1968年時点の営業範囲は東京から三重・福井までで、鈴木謙三は市場にまだ余裕があると述べた
    • [42]1968年時点で三和化学研究所の営業所は北海道から九州まで全国17カ所。三和化学研究所とスズケンは営業網が重複していない
  • 野田経済 1976年9月22日号
    • [41]三和化学研究所の会社設立は昭和28年1月。製薬は三和化学研究所が担い、自社で販売していた

医師からの相談が傍系会社を生んだ。セールスマンは薬の商談の場で、病院や医院の建物と設備について相談を受けた[43]。当初は専門業者へ取り次いでいたものの、完成後の苦情は自社に返ってきた[44]。そこで専門の設計士と技術者を集めてスズケン建設を興し、ローンの手続きから病院・医院・薬局の設計施工までを自社で請け負う形に改めた[45]。病院を建てれば医療機械や什器、薬用石鹸や日用品が要るため、これらを扱うスズケン物産やスズケン美化学も同じ経緯で設けている[46]。1968年時点のスズケン事業団は、こうして生まれた会社を含めて十数社を数えた[47]

  • 野田経済 1968年2月7日号
    • [43]取引先の医師は忙しく、建物や設備についてスズケンのセールスマンが相談を受けていた
    • [44]当初は専業者に紹介していたが思うようにいかず、完成後に苦情を受ける場合があった
    • [47]1968年時点でスズケンは三和化学研究所・スズケン物産・スズケン建設・スズケン美化学ほか十数社のスズケン事業団を形成していた
  • 野田経済 1976年9月22日号
    • [45]他人まかせにせず自社で責任の持てるものを建築しようと専門の設計士・技術者を集めて建設会社を設立し、ローンなど手続きの一切から病院・医院・薬局・住宅の建築までを行った
    • [46]病院を建築すると医療機械設備・備品・什器・薬用石鹸・化粧品・日用品が必要となるため、スズケン物産・スズケン美化学などが設立された
  • 株式会社スズケン 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1959年5月、東京都世田谷区に東京支店を開設
    • [34]1962年5月、金沢支店を開設し小林薬品の営業権を譲受
    • [35]1964年10月、商号をスズケンに変更
  • 証券 1995年11月号
    • [31]昭和34年に東京都および山梨県に営業拠点を設置した
    • [32]昭和35年に薬粧事業を開始した。薬粧部は薬局・薬店向けの部門
    • [33]昭和36年の国民皆保険制度の導入により医療用医薬品の需要は急速に増大した
  • 野田経済 1968年2月7日号
    • [36]社章は鈴の中に謙の字が入った形で、若い社員のいたずら書きを鈴木謙三が採用したもの
    • [37]1968年時点のスズケンは武田を除いた国内全製薬会社の薬品を一手に扱い、年商は170億円
    • [38]資本金3,750万円、支店・出張所は全国40余カ所、従業員は当社のみで約1,500人
    • [39]昭和42年3月期の売上高は132億円、配当は10割
    • [40]1968年時点の営業範囲は東京から三重・福井までで、鈴木謙三は市場にまだ余裕があると述べた
    • [42]1968年時点で三和化学研究所の営業所は北海道から九州まで全国17カ所。三和化学研究所とスズケンは営業網が重複していない
    • [43]取引先の医師は忙しく、建物や設備についてスズケンのセールスマンが相談を受けていた
    • [44]当初は専業者に紹介していたが思うようにいかず、完成後に苦情を受ける場合があった
    • [47]1968年時点でスズケンは三和化学研究所・スズケン物産・スズケン建設・スズケン美化学ほか十数社のスズケン事業団を形成していた
  • 野田経済 1976年9月22日号
    • [41]三和化学研究所の会社設立は昭和28年1月。製薬は三和化学研究所が担い、自社で販売していた
    • [45]他人まかせにせず自社で責任の持てるものを建築しようと専門の設計士・技術者を集めて建設会社を設立し、ローンなど手続きの一切から病院・医院・薬局・住宅の建築までを行った
    • [46]病院を建築すると医療機械設備・備品・什器・薬用石鹸・化粧品・日用品が必要となるため、スズケン物産・スズケン美化学などが設立された
創業ストーリー(4)

1969年の愛知ミドリ十字全株式取得と沖縄への出資

スズケンは1965年に医療用医薬品の売上高で業界第1位に立った[48]。1961年の国民皆保険を境に製薬メーカーによる卸の系列化が進んだなかで、同社は特定メーカーの系列に入らなかった[49]。仕入れ先を一社に縛られない立場は、他府県へ商圏を広げるときにメーカーの制約を受けにくい。その独立を保ったまま、同社は1969年8月に愛知ミドリ十字の全株式を取得した[50]。1972年7月にはスズケン沖縄の株式過半数を取得[51]。スズケン沖縄は医薬品と医療機器を扱い、1976年時点でスズケン・グループ11社の一角を占めている[52]

  • 証券アナリストジャーナル 1994年9月号(別所芳樹)
    • [48]昭和40年に医療用医薬品の売上高において業界第1位になった
    • [49]昭和36年の国民皆保険以降メーカーの系列化が進んだが、当社は系列には入らなかった
  • 株式会社スズケン 有価証券報告書【沿革】
    • [50]1969年8月、愛知ミドリ十字の全株式を取得
    • [51]1972年7月、スズケン沖縄の株式過半数を取得
  • 野田経済 1976年9月22日号
    • [52]医薬品、医療機器などを取扱う「㈱スズケン沖縄」を含む11社でスズケン・グループが構成されている

1973年5月の時点で、スズケンは全国128カ所に営業所を持ち、1972年度の売上高462億円、社員数2350人を数えた[53]。毎年30%前後の増収により、過去6年間で売上高は5倍、社員数は2倍以上に増えている[54]。関係会社は12社にのぼり、医院の建設から自然食品まで医療と健康に関わる仕事を並べた[55]。営業所は年3〜4カ所の速さで増やしたが、土地も建物も自己資金で買い、店舗を借りたことは一度もなかった[56]。その資金の出どころを、取締役総務部長の田中泰三氏はメーカーに担保を取られなかったことに求めている[57]

  • 日経ビジネス 1973年5月14日号
    • [53]全国128カ所に営業所を持ち、47年度の売り上げ462億円、社員数2350人
    • [54]毎年30%前後の売り上げ増によって過去6年間の成長率は5倍、社員数は2倍以上
    • [55]スズケングループとして12の関係会社を持ち「医院の建設から自然食品まで」医療・健康に関することはなんでも手がける
    • [56]年間3〜4カ所の急テンポで営業所を増やしているが、一度も店舗を借りたことはない。土地、建物も全部自己資金で買い、借金はいっさいしない
    • [57]取締役総務部長の田中泰三氏が、メーカーに対する買掛金に担保を取られなかったため、もうけを店舗などの先行投資に回せたと説明している

創業者の鈴木謙三社長は1973年に67歳を迎え、1971年末に出家して法名秀議を名乗った[58]。書類に『適当に処置して下さい』というゴム印を押し続けた結果、決裁は各担当部課長へ移り、社長が判を押すことは月に一度もなくなった[59]。1976年9月の誌面には、スズケンの社長として鈴木信次氏の名が記されている[60]。同年の従業員は約2800人、新入社員は毎年200余名を数え、入社3年組・5年組といった単位で30人程度に分けた研修会を岐阜県白鳥町の山中で5〜6日間開いた[61]。研修は禅で始まり、業界の制度問題や自社の経営課題を討議に載せた[62]

  • 日経ビジネス 1973年5月14日号
    • [58]鈴木社長は現在67歳。一昨年末に出家して法名秀議を名乗っている
    • [59]「適当に処置して下さい」というゴム印を押していたら書類が社長まで上がってこなくなり、各担当部課長に一切の権限がまかされ、社長が判を押すことは月に1度もない
  • 野田経済 1976年9月22日号
    • [60]誌面に「スズケン社長鈴木信次氏」と記載
    • [61]従業員数は約2,800人、新入社員は毎年200余名。3年入社組、5年入社組という構成で1組を30人程度にグループ化し、岐阜県白鳥町の山奥で5〜6日間の研修会を行う
    • [62]禅で始まるこの研修会は、GPSP、GSPあるいは業界問題、自社の経営問題その他をディスカッションを通じて取り上げる
  • 証券アナリストジャーナル 1994年9月号(別所芳樹)
    • [48]昭和40年に医療用医薬品の売上高において業界第1位になった
    • [49]昭和36年の国民皆保険以降メーカーの系列化が進んだが、当社は系列には入らなかった
  • 株式会社スズケン 有価証券報告書【沿革】
    • [50]1969年8月、愛知ミドリ十字の全株式を取得
    • [51]1972年7月、スズケン沖縄の株式過半数を取得
  • 野田経済 1976年9月22日号
    • [52]医薬品、医療機器などを取扱う「㈱スズケン沖縄」を含む11社でスズケン・グループが構成されている
    • [60]誌面に「スズケン社長鈴木信次氏」と記載
    • [61]従業員数は約2,800人、新入社員は毎年200余名。3年入社組、5年入社組という構成で1組を30人程度にグループ化し、岐阜県白鳥町の山奥で5〜6日間の研修会を行う
    • [62]禅で始まるこの研修会は、GPSP、GSPあるいは業界問題、自社の経営問題その他をディスカッションを通じて取り上げる
  • 日経ビジネス 1973年5月14日号
    • [53]全国128カ所に営業所を持ち、47年度の売り上げ462億円、社員数2350人
    • [54]毎年30%前後の売り上げ増によって過去6年間の成長率は5倍、社員数は2倍以上
    • [55]スズケングループとして12の関係会社を持ち「医院の建設から自然食品まで」医療・健康に関することはなんでも手がける
    • [56]年間3〜4カ所の急テンポで営業所を増やしているが、一度も店舗を借りたことはない。土地、建物も全部自己資金で買い、借金はいっさいしない
    • [57]取締役総務部長の田中泰三氏が、メーカーに対する買掛金に担保を取られなかったため、もうけを店舗などの先行投資に回せたと説明している
    • [58]鈴木社長は現在67歳。一昨年末に出家して法名秀議を名乗っている
    • [59]「適当に処置して下さい」というゴム印を押していたら書類が社長まで上がってこなくなり、各担当部課長に一切の権限がまかされ、社長が判を押すことは月に1度もない
創業ストーリー(5)

別会社化で内に抱えた整備・建設・物産の各社

1976年のスズケン・グループは、医薬品の総合商社スズケンを筆頭に11社で構成された[63]。別会社の第一号は自動車の整備だった。セールスマンは一人一台の自動車を持って得意先を定期的に訪問し、受注と配送を同時に行っており、グループ全体の保有台数は2300台余りに達していた[64]。台数が増えれば整備費がふくらむ。この費用を社外へ流出させないために整備の別会社を設け、得意先の自動車整備も引き受けさせた。さらに自動車販売を兼ねてグループと得意先の車両調達をまかない、各種保険の代理業まで加えて収益を安定させたのがスズケン整備である[65]

  • 野田経済 1976年9月22日号
    • [63]スズケン・グループは医薬品の総合商社「㈱スズケン」を筆頭として11社で構成されている
    • [64]セールスマン一人に一台の自動車を与えて営業活動を行ない、グループ会社のものを合わせると自動車台数は2,300台余り。営業所は1時間以内で得意先に配達できる距離に配置し、受注・配送を同時に行なう
    • [65]自動車台数の増加に伴う整備費を社外に流失させないため別会社を設立し、得意先の自動車整備、自動車販売、各種保険代理業を兼営したのが㈱スズケン整備の設立理由

建設会社も同じ道筋で生まれた。医薬品販売の商談中に病院や医院、薬局の増改築や新築の話が出るため特定の建設会社を紹介していたが、完成後に苦情を受けることがあった[66]。同じ苦情を受けるなら他人任せにせず自社で責任の持てるものを建てようと、専門の設計士と技術者を集めて設立したのがスズケン建設である[67]。医薬品の商談が建物の受注へつながる経路を、スズケンは社外に渡さなかった。土木と建築の設計から施工までを定款に置き、ローンなど手続きの一切から病院、医院、薬局、住宅、セカンドハウスの建築までを引き受けている[68]

  • 野田経済 1976年9月22日号
    • [66]医薬品販売の商談中に病院、医院、薬局などの増改築や新築話が出て、特定の建設会社に紹介すると完成後に苦情を受ける場合がある
    • [67]同じ苦情を受けるなら他人まかせにするより自社で責任の持てるものを建築しようと、専門の設計士、技術者を集めて設立したのが建設会社
    • [68]㈱スズケン建設は土木、建築の設計・施工を行ない、ローンなど手続きの一切から病院、医院、薬局、住宅さらにはセカンドハウスの建築などを行なっている

病院を建てれば医療機械設備や備品、什器、薬用石鹸、化粧品、チリ紙といった日用品が要る。医家が必要とする商品をすべて調達できる体制へ進むなかで、スズケン物産、日本化工、スズケン美化学、広告と印刷を担うスズケンセンターが設立された[69]。11社は本体の衛星として囲われたわけではなく、それぞれ販売網を持って独立経営を貫き、全社が黒字を計上して配当を出している[70]。資本金は11社合わせて3億2000万円にとどまる一方、年間売上高は約1200億円に達し、資本金は年375回転、月平均で約31回、営業日1日あたり1.25回転した[71]

  • 野田経済 1976年9月22日号
    • [69]病院などを建築すると医療機械設備、備品、什器、薬用石鹸、化粧品、チリ紙その他日用品が必要となり、医家が必要とする商品を全て調達できる体制へと進めて物産、日本化工、美化学、印刷会社がそれぞれ設立された
    • [70]各社はそれぞれの販売網を持って独立経営路線を貫き、各社が黒字利益を計上、全社が有配会社になっている
    • [71]グループ11社の資本金総額は3億2,000万円、年間売上高は約1,200億円で資本金の回転は375回、月平均では約31回、稼動日数を月間25日とみると1営業日当り1.25回転
  • 野田経済 1976年9月22日号
    • [63]スズケン・グループは医薬品の総合商社「㈱スズケン」を筆頭として11社で構成されている
    • [64]セールスマン一人に一台の自動車を与えて営業活動を行ない、グループ会社のものを合わせると自動車台数は2,300台余り。営業所は1時間以内で得意先に配達できる距離に配置し、受注・配送を同時に行なう
    • [65]自動車台数の増加に伴う整備費を社外に流失させないため別会社を設立し、得意先の自動車整備、自動車販売、各種保険代理業を兼営したのが㈱スズケン整備の設立理由
    • [66]医薬品販売の商談中に病院、医院、薬局などの増改築や新築話が出て、特定の建設会社に紹介すると完成後に苦情を受ける場合がある
    • [67]同じ苦情を受けるなら他人まかせにするより自社で責任の持てるものを建築しようと、専門の設計士、技術者を集めて設立したのが建設会社
    • [68]㈱スズケン建設は土木、建築の設計・施工を行ない、ローンなど手続きの一切から病院、医院、薬局、住宅さらにはセカンドハウスの建築などを行なっている
    • [69]病院などを建築すると医療機械設備、備品、什器、薬用石鹸、化粧品、チリ紙その他日用品が必要となり、医家が必要とする商品を全て調達できる体制へと進めて物産、日本化工、美化学、印刷会社がそれぞれ設立された
    • [70]各社はそれぞれの販売網を持って独立経営路線を貫き、各社が黒字利益を計上、全社が有配会社になっている
    • [71]グループ11社の資本金総額は3億2,000万円、年間売上高は約1,200億円で資本金の回転は375回、月平均では約31回、稼動日数を月間25日とみると1営業日当り1.25回転
創業ストーリー(6)

医療機部が育てたKENZ-45と診断薬分野への参入

医薬品を運ぶだけの会社にとどまらない構えは、機器の側で早くから作られていた。スズケンは1963年に医療機器部門を設置し、その将来性を見込んで十数年をかけて技術者を養成し、保守の体制も整えてきた[72]。技術陣はデジタル自動血圧計KENZ-45やデジタル体温計を開発し、業界へ送り出している[73]。1975年2月、同社は医療機器の製造事業を開始した[74]。1976年には本社の医療機部を軸に各支店へ医療機器の専従社員を置き、社内は医薬品部、薬粧部、国際部、医療機部、畜産部、観光部の6本柱となった[75]。隣に並ぶ薬粧部の取扱高は、医薬品売上げの1割程度にとどまっている[76]

  • 証券アナリストジャーナル 1994年9月号(別所芳樹)
    • [72]昭和38年に医療機器部門を設置した
  • 野田経済 1976年9月22日号
    • [73]医療機械の将来性に着目し十数年前から技術者の養成に力を入れ、メンテナンスの体制作りにも取り組み、技術陣がKENZ-45(デジタル自動血圧計)、デジタル体温計などを開発して業界へ送り出した
    • [75]社内体制は医薬品部、薬粧部、国際部、医療機部、畜産部、観光部の六本柱で、本社の医療機部を中心に各支店にも医療機関係の専従社員を配置している
    • [76]薬粧部は薬局・薬店向けの部門で、取扱い高は医・薬品売上げの1割程度
  • 株式会社スズケン 有価証券報告書【沿革】
    • [74]1975年2月、医療機器製造事業を開始

製造側を担う三和化学研究所は、1976年に愛知県春日井市と熊本県宇土市の二つの工場を構えていた[77]。春日井工場は開発企画室、学術室、製薬薬理研究所、臨床センターからなる研究開発部門と、血圧降下剤、抗動脈硬化剤、潰瘍治療剤、結晶性消炎酵素剤など約200種を作る生産部門で構成されている[78]。営業所は札幌から沖縄まで全国34カ所に及んだ[79]。ただし親会社と営業網は重ならない。スズケンが緊急時に30分、遅くとも1時間以内で得意先へ配送できるよう営業所を細かく置いたのに対し、三和化学研究所は一県一営業所主義で販売した[80]

  • 野田経済 1976年9月22日号
    • [77]㈱三和化学研究所の工場は愛知県春日井市と熊本県宇土市の二つ
    • [78]春日井工場の研究開発部門は開発企画室、学術室、製薬薬理研究所、臨床センターで構成され、生産部門は血圧降下剤、抗動脈硬化剤、潰瘍治療剤、結晶性消炎酵素剤など約200種の医薬品を製造している
    • [79]三和化学研究所の営業所数は全国に34カ所で、札幌から沖縄、本社所在地の名古屋までを含む
    • [80]親会社のスズケンと営業網が重複しておらず、スズケンが緊急の場合で30分、遅くとも1時間以内で配送できるよう営業所を配置しているのに対し、三和化学は一県一営業所主義で販売している

1984年7月、スズケンは診断薬分野に参入した[81]。翌1985年には医療機器メーカーのケンツメディコをグループに加えている[82]。医薬品を運ぶ本業の前に製造を、後ろに機器と診断薬を置く形が、この時期に出そろった。同じ1985年、国内の医薬品商社は477社を数え、以後は提携や合併による絞り込みが続いた[83]。経営の顔ぶれも替わり、他社を経て1970年3月にスズケンへ入社した別所芳樹氏は同年8月に取締役、1973年1月に常務取締役、同年12月に専務取締役、1975年4月に代表取締役専務と進み、1983年6月に代表取締役社長へ就いた[84]

  • 株式会社スズケン 有価証券報告書【沿革】
    • [81]1984年7月、診断薬分野に参入
  • 証券アナリストジャーナル 1994年9月号(別所芳樹)
    • [82]昭和60年に医療機器メーカーのケンツメディコ㈱を当社グループに加えた
    • [83]昭和60年に477社あった医薬品商社の企業数が平成5年には327社まで減った
  • 株式会社スズケン 有価証券報告書【役員の状況】
    • [84]別所芳樹は1970年3月入社、1970年8月取締役、1973年1月常務取締役、1973年12月専務取締役、1975年4月代表取締役専務、1983年6月代表取締役社長就任
  • 証券アナリストジャーナル 1994年9月号(別所芳樹)
    • [72]昭和38年に医療機器部門を設置した
    • [82]昭和60年に医療機器メーカーのケンツメディコ㈱を当社グループに加えた
    • [83]昭和60年に477社あった医薬品商社の企業数が平成5年には327社まで減った
  • 野田経済 1976年9月22日号
    • [73]医療機械の将来性に着目し十数年前から技術者の養成に力を入れ、メンテナンスの体制作りにも取り組み、技術陣がKENZ-45(デジタル自動血圧計)、デジタル体温計などを開発して業界へ送り出した
    • [75]社内体制は医薬品部、薬粧部、国際部、医療機部、畜産部、観光部の六本柱で、本社の医療機部を中心に各支店にも医療機関係の専従社員を配置している
    • [76]薬粧部は薬局・薬店向けの部門で、取扱い高は医・薬品売上げの1割程度
    • [77]㈱三和化学研究所の工場は愛知県春日井市と熊本県宇土市の二つ
    • [78]春日井工場の研究開発部門は開発企画室、学術室、製薬薬理研究所、臨床センターで構成され、生産部門は血圧降下剤、抗動脈硬化剤、潰瘍治療剤、結晶性消炎酵素剤など約200種の医薬品を製造している
    • [79]三和化学研究所の営業所数は全国に34カ所で、札幌から沖縄、本社所在地の名古屋までを含む
    • [80]親会社のスズケンと営業網が重複しておらず、スズケンが緊急の場合で30分、遅くとも1時間以内で配送できるよう営業所を配置しているのに対し、三和化学は一県一営業所主義で販売している
  • 株式会社スズケン 有価証券報告書【沿革】
    • [74]1975年2月、医療機器製造事業を開始
    • [81]1984年7月、診断薬分野に参入
  • 株式会社スズケン 有価証券報告書【役員の状況】
    • [84]別所芳樹は1970年3月入社、1970年8月取締役、1973年1月常務取締役、1973年12月専務取締役、1975年4月代表取締役専務、1983年6月代表取締役社長就任

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沿革年表 1932〜2023年

スズケンの沿革1932〜2023年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1932〜1968年名古屋の薬種商から日本一の薬品総合商社へ、スズケンの36年鈴木謙三が名古屋市東区で薬種商「鈴木謙三商店」を創業★★
鈴木謙三鈴謙洋行を静岡県浜名郡に設立★★
鈴木謙三商号を鈴木謙三商店に変更
鈴木謙三個人商店「鈴木謙三商店」の営業権を譲受
鈴木謙三本社を名古屋市東区東片端町に移転★★
鈴木謙三東京都世田谷区に東京支店を開設
鈴木謙三金沢支店を開設し小林薬品の営業権を譲受
鈴木謙三商号をスズケンに変更★★
1969〜1989年愛知ミドリ十字の全株式取得から医療機器製造へ鈴木謙三愛知ミドリ十字の全株式を取得
鈴木謙三スズケン沖縄の株式過半数を取得
鈴木信次医療機器製造事業を開始★★
別所芳樹診断薬分野に参入
1990〜2006年三和化学研究所の子会社化と全47都道府県への拠点網別所芳樹三和化学研究所の株式過半数を取得★★★
別所芳樹加藤薬品および神弘薬品と合併★★
別所芳樹日本証券業協会に株式を店頭登録
別所芳樹東京証券取引所および名古屋証券取引所の市場第二部に上場
別所芳樹熊谷薬品の全株式を取得
別所芳樹ドーエーメディックスと合併
別所芳樹東京証券取引所および名古屋証券取引所の市場第一部に指定
別所芳樹愛知県江南市に江南物流センターを開設
別所芳樹秋山愛生舘と合併★★★
別所芳樹札幌証券取引所に上場
別所芳樹ナカノ薬品の株式過半数を取得
別所芳樹オオモリ薬品と合併
別所芳樹安藤薬業公司と合併
別所芳樹株式交換によりサンキを完全子会社化★★★
別所芳樹株式交換によりアスティスを完全子会社化
別所芳樹株式交換により沖縄薬品を完全子会社化
別所芳樹メーカー物流受託事業を開始★★
別所芳樹全47都道府県に営業拠点を設置★★
別所芳樹株式交換により翔薬を完全子会社化
2007〜2025年健康創造を掲げ、ファーコスから介護まで広げた領域太田裕史中国上海市に合弁会社の上海鈴謙滬中医薬有限公司を設立
太田裕史調剤薬局のファーコスの株式過半数を取得★★
太田裕史株式交換により中央運輸を完全子会社化
太田裕史介護事業のエスケアメイトを設立
太田裕史スペシャリティ医薬品領域の総合支援事業を開始★★
宮田浩美EPSホールディングスと資本業務提携
宮田浩美EPファーマラインの株式を取得
浅野茂東京証券取引所プライム市場および名古屋証券取引所プレミア市場に移行
浅野茂ファーマライズホールディングスの株式を取得★★
出典・参考 8件
出典・参考
  • 株式会社スズケン 有価証券報告書【沿革】/証券 1995年11月号「新規上場会社紹介 株式会社スズケン」
  • 株式会社スズケン 有価証券報告書【沿革】
  • 株式会社スズケン 有価証券報告書【役員の状況】
  • 日経ビジネス 1973年5月14日号
  • 証券アナリストジャーナル 1994年9月号(別所芳樹)
  • 証券 1995年11月号
  • 野田経済 1968年2月7日号
  • 野田経済 1976年9月22日号

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