鈴木謙三氏は13歳から薬品問屋に勤め、小学校を終えたところで学業を離れた[1]。三男に生まれ、父は教育家、兄弟はいずれも大学へ進んでいる[2]。27歳で勤め先の薬品問屋から独立し、1932年11月13日に名古屋市東区下竪杉町で薬種商『鈴木謙三商店』を創業した[3]。扱う品を薬に決めたのは、世の中の役に立ち、しかも使えばなくなる商品でなければ商売が長続きしないと考えたからである[4]。販路では競争の激しい名古屋市内を避け、鈴木氏は近郊の開業医の開拓に力を注いだ[5]。医師と直接取引する形は、その後も同社の販売の基本として残った[6]。
戦時下の統制のなかで、鈴木謙三商店は闇取引に加わらなかった[7]。アルコールの闇値が200円に達したときも18円で売り、社員は不便を強いられた[8]。戦災では店に掲げていた額が焼け、戦後に武者小路実篤へ『士魂商才』の書を改めて依頼した[9]。鈴木氏は社員に、嘘をつくな、駆け引きをするなと言い続けた[10]。値段そのものは他社に比べて安いわけではなく、鈴木氏は金を儲けようと思ったことはないと述べている[11]。名古屋市内を避けた販路の取り方は戦争による打撃を比較的小さく抑え、1968年時点の得意先の医師は全国で約2万6000人に達した[12]。
鈴木氏は1946年8月10日、静岡県浜名郡に鈴謙洋行を設立し、初代社長に就任した[13]。医薬品の卸売りを目的とする法人であり、株式は同族が握って資本金を増やさない経営を長く続けた[14]。1947年11月には商号を個人商店と同じ鈴木謙三商店に変更した[15]。翌1948年4月、個人商店『鈴木謙三商店』の営業権を譲り受け、創業から16年続いた個人経営に区切りをつけた[16]。同年10月には本社を静岡から名古屋市東区東片端町へ移し、商いの拠点を創業の地へ戻した[17]。東片端町の住所は、1995年に株式を上場した時点でも本店所在地として記載されている[18]。
鈴木社長は商法の要点を、まず与えることと取引先を大切にすることに置き、購買担当には仕入先を買いたたくなと指示した[19]。利益の取り方も、得意先に儲けてもらい社員に給料を払ったうえで残りを受け取る順序だった[20]。設備の持ち方にも同じ考えを通し、卸は商品を仕入れる以上は借家で商売をしないとして、土地を買って自社で建物を建てた[21]。ビルを借りて営業所を置くことは避け、建てる際には必要な面積の3倍の土地を買い、3分の1に建物を置いて残りを寝かせている[22]。1968年9月の仮決算では、短期借入金4億3000万円に対して預金は15億7000万円あった[23]。銀行から金を借りる際も、担保を差し入れずに済ませた[24]。
与える相手は得意先と仕入先だけではなかった[25]。鈴木社長は稟議書に目を通さず、適当に処置するよう記したゴム印を押して返し、支店の開設地にも一度も足を運んでいない[26]。1960年代初めには必要な人数の3倍を採用し、1人当たりの販売高は落ち、経費も3倍かかった[27]。採用の目安は薬科大学に入学できる学力に置き、入社後は製薬会社の社員や専門の教員を講師にして薬の知識を学ばせ、海外にも派遣した[28]。賞与は6月に3カ月分、12月に3カ月分、臨時に4カ月分の計10カ月分を支給し、定年で辞めさせた社員はいなかった[29]。
鈴謙洋行は名古屋を出て、1959年5月に東京都世田谷区へ東京支店を開いた[30]。同じ年には山梨県にも営業拠点を置き、名古屋を軸にした商圏を関東へ広げている[31]。1960年には薬局・薬店向けの薬粧事業を始めた[32]。1961年に国民皆保険制度が導入されたことにより、医療用医薬品の需要は急速に増大した[33]。1962年5月には金沢支店を設け、あわせて小林薬品の営業権を譲り受けて石川県の得意先を引き継いだ[34]。1964年10月、商号をスズケンに変更した[35]。社章は鈴の字の中に謙の字を収めた形で、若い社員のいたずら書きを鈴木社長がそのまま採った[36]。
1968年初めのスズケンは、武田を除く国内製薬会社のほぼ全ての薬を扱い、年商は170億円に達した[37]。資本金3750万円、支店と出張所は全国40余カ所、従業員は1500人である[38]。1967年3月期の売上高は132億円で、配当は10割だった[39]。営業の範囲は東の東京から西の三重・福井までで、鈴木社長は市場になお余裕があるとみていた[40]。傍系には1953年1月に設立した三和化学研究所があり、製薬はそこで手がけて自社で販売させた[41]。三和化学研究所の営業所は北海道から九州まで17カ所に置かれ、スズケン本体の営業網とは重複しなかった[42]。
医師からの相談が傍系会社を生んだ。セールスマンは薬の商談の場で、病院や医院の建物と設備について相談を受けた[43]。当初は専門業者へ取り次いでいたものの、完成後の苦情は自社に返ってきた[44]。そこで専門の設計士と技術者を集めてスズケン建設を興し、ローンの手続きから病院・医院・薬局の設計施工までを自社で請け負う形に改めた[45]。病院を建てれば医療機械や什器、薬用石鹸や日用品が要るため、これらを扱うスズケン物産やスズケン美化学も同じ経緯で設けている[46]。1968年時点のスズケン事業団は、こうして生まれた会社を含めて十数社を数えた[47]。
スズケンは1965年に医療用医薬品の売上高で業界第1位に立った[48]。1961年の国民皆保険を境に製薬メーカーによる卸の系列化が進んだなかで、同社は特定メーカーの系列に入らなかった[49]。仕入れ先を一社に縛られない立場は、他府県へ商圏を広げるときにメーカーの制約を受けにくい。その独立を保ったまま、同社は1969年8月に愛知ミドリ十字の全株式を取得した[50]。1972年7月にはスズケン沖縄の株式過半数を取得[51]。スズケン沖縄は医薬品と医療機器を扱い、1976年時点でスズケン・グループ11社の一角を占めている[52]。
1973年5月の時点で、スズケンは全国128カ所に営業所を持ち、1972年度の売上高462億円、社員数2350人を数えた[53]。毎年30%前後の増収により、過去6年間で売上高は5倍、社員数は2倍以上に増えている[54]。関係会社は12社にのぼり、医院の建設から自然食品まで医療と健康に関わる仕事を並べた[55]。営業所は年3〜4カ所の速さで増やしたが、土地も建物も自己資金で買い、店舗を借りたことは一度もなかった[56]。その資金の出どころを、取締役総務部長の田中泰三氏はメーカーに担保を取られなかったことに求めている[57]。
創業者の鈴木謙三社長は1973年に67歳を迎え、1971年末に出家して法名秀議を名乗った[58]。書類に『適当に処置して下さい』というゴム印を押し続けた結果、決裁は各担当部課長へ移り、社長が判を押すことは月に一度もなくなった[59]。1976年9月の誌面には、スズケンの社長として鈴木信次氏の名が記されている[60]。同年の従業員は約2800人、新入社員は毎年200余名を数え、入社3年組・5年組といった単位で30人程度に分けた研修会を岐阜県白鳥町の山中で5〜6日間開いた[61]。研修は禅で始まり、業界の制度問題や自社の経営課題を討議に載せた[62]。
1976年のスズケン・グループは、医薬品の総合商社スズケンを筆頭に11社で構成された[63]。別会社の第一号は自動車の整備だった。セールスマンは一人一台の自動車を持って得意先を定期的に訪問し、受注と配送を同時に行っており、グループ全体の保有台数は2300台余りに達していた[64]。台数が増えれば整備費がふくらむ。この費用を社外へ流出させないために整備の別会社を設け、得意先の自動車整備も引き受けさせた。さらに自動車販売を兼ねてグループと得意先の車両調達をまかない、各種保険の代理業まで加えて収益を安定させたのがスズケン整備である[65]。
建設会社も同じ道筋で生まれた。医薬品販売の商談中に病院や医院、薬局の増改築や新築の話が出るため特定の建設会社を紹介していたが、完成後に苦情を受けることがあった[66]。同じ苦情を受けるなら他人任せにせず自社で責任の持てるものを建てようと、専門の設計士と技術者を集めて設立したのがスズケン建設である[67]。医薬品の商談が建物の受注へつながる経路を、スズケンは社外に渡さなかった。土木と建築の設計から施工までを定款に置き、ローンなど手続きの一切から病院、医院、薬局、住宅、セカンドハウスの建築までを引き受けている[68]。
病院を建てれば医療機械設備や備品、什器、薬用石鹸、化粧品、チリ紙といった日用品が要る。医家が必要とする商品をすべて調達できる体制へ進むなかで、スズケン物産、日本化工、スズケン美化学、広告と印刷を担うスズケンセンターが設立された[69]。11社は本体の衛星として囲われたわけではなく、それぞれ販売網を持って独立経営を貫き、全社が黒字を計上して配当を出している[70]。資本金は11社合わせて3億2000万円にとどまる一方、年間売上高は約1200億円に達し、資本金は年375回転、月平均で約31回、営業日1日あたり1.25回転した[71]。
医薬品を運ぶだけの会社にとどまらない構えは、機器の側で早くから作られていた。スズケンは1963年に医療機器部門を設置し、その将来性を見込んで十数年をかけて技術者を養成し、保守の体制も整えてきた[72]。技術陣はデジタル自動血圧計KENZ-45やデジタル体温計を開発し、業界へ送り出している[73]。1975年2月、同社は医療機器の製造事業を開始した[74]。1976年には本社の医療機部を軸に各支店へ医療機器の専従社員を置き、社内は医薬品部、薬粧部、国際部、医療機部、畜産部、観光部の6本柱となった[75]。隣に並ぶ薬粧部の取扱高は、医薬品売上げの1割程度にとどまっている[76]。
製造側を担う三和化学研究所は、1976年に愛知県春日井市と熊本県宇土市の二つの工場を構えていた[77]。春日井工場は開発企画室、学術室、製薬薬理研究所、臨床センターからなる研究開発部門と、血圧降下剤、抗動脈硬化剤、潰瘍治療剤、結晶性消炎酵素剤など約200種を作る生産部門で構成されている[78]。営業所は札幌から沖縄まで全国34カ所に及んだ[79]。ただし親会社と営業網は重ならない。スズケンが緊急時に30分、遅くとも1時間以内で得意先へ配送できるよう営業所を細かく置いたのに対し、三和化学研究所は一県一営業所主義で販売した[80]。
1984年7月、スズケンは診断薬分野に参入した[81]。翌1985年には医療機器メーカーのケンツメディコをグループに加えている[82]。医薬品を運ぶ本業の前に製造を、後ろに機器と診断薬を置く形が、この時期に出そろった。同じ1985年、国内の医薬品商社は477社を数え、以後は提携や合併による絞り込みが続いた[83]。経営の顔ぶれも替わり、他社を経て1970年3月にスズケンへ入社した別所芳樹氏は同年8月に取締役、1973年1月に常務取締役、同年12月に専務取締役、1975年4月に代表取締役専務と進み、1983年6月に代表取締役社長へ就いた[84]。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/9987/manifest.json https://the-shashi.com/api/9987/history.json https://the-shashi.com/api/9987/timeline.json https://the-shashi.com/api/9987/executives.json https://the-shashi.com/api/9987/shareholders.json https://the-shashi.com/api/9987/financials.json https://the-shashi.com/api/9987/financials-longterm.json https://the-shashi.com/api/9987/segments.json https://the-shashi.com/api/9987/regions.json https://the-shashi.com/api/9987/workforce.json | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1932〜1968年名古屋の薬種商から日本一の薬品総合商社へ、スズケンの36年 | 鈴木謙三が名古屋市東区で薬種商「鈴木謙三商店」を創業 | ★★ | ||
| 鈴木謙三 | 鈴謙洋行を静岡県浜名郡に設立 | ★★ | ||
| 鈴木謙三 | 商号を鈴木謙三商店に変更 | ★ | ||
| 鈴木謙三 | 個人商店「鈴木謙三商店」の営業権を譲受 | ★ | ||
| 鈴木謙三 | 本社を名古屋市東区東片端町に移転 | ★★ | ||
| 鈴木謙三 | 東京都世田谷区に東京支店を開設 | ★ | ||
| 鈴木謙三 | 金沢支店を開設し小林薬品の営業権を譲受 | ★ | ||
| 鈴木謙三 | 商号をスズケンに変更 | ★★ | ||
| 1969〜1989年愛知ミドリ十字の全株式取得から医療機器製造へ | 鈴木謙三 | 愛知ミドリ十字の全株式を取得 | ★ | |
| 鈴木謙三 | スズケン沖縄の株式過半数を取得 | ★ | ||
| 鈴木信次 | 医療機器製造事業を開始 | ★★ | ||
| 別所芳樹 | 診断薬分野に参入 | ★ | ||
| 1990〜2006年三和化学研究所の子会社化と全47都道府県への拠点網 | 別所芳樹 | 三和化学研究所の株式過半数を取得 | ★★★ | |
| 別所芳樹 | 加藤薬品および神弘薬品と合併 | ★★ | ||
| 別所芳樹 | 日本証券業協会に株式を店頭登録 | ★ | ||
| 別所芳樹 | 東京証券取引所および名古屋証券取引所の市場第二部に上場 | ★ | ||
| 別所芳樹 | 熊谷薬品の全株式を取得 | ★ | ||
| 別所芳樹 | ドーエーメディックスと合併 | ★ | ||
| 別所芳樹 | 東京証券取引所および名古屋証券取引所の市場第一部に指定 | ★ | ||
| 別所芳樹 | 愛知県江南市に江南物流センターを開設 | ★ | ||
| 別所芳樹 | 秋山愛生舘と合併 | ★★★ | ||
| 別所芳樹 | 札幌証券取引所に上場 | ★ | ||
| 別所芳樹 | ナカノ薬品の株式過半数を取得 | ★ | ||
| 別所芳樹 | オオモリ薬品と合併 | ★ | ||
| 別所芳樹 | 安藤薬業公司と合併 | ★ | ||
| 別所芳樹 | 株式交換によりサンキを完全子会社化 | ★★★ | ||
| 別所芳樹 | 株式交換によりアスティスを完全子会社化 | ★ | ||
| 別所芳樹 | 株式交換により沖縄薬品を完全子会社化 | ★ | ||
| 別所芳樹 | メーカー物流受託事業を開始 | ★★ | ||
| 別所芳樹 | 全47都道府県に営業拠点を設置 | ★★ | ||
| 別所芳樹 | 株式交換により翔薬を完全子会社化 | ★ | ||
| 2007〜2025年健康創造を掲げ、ファーコスから介護まで広げた領域 | 太田裕史 | 中国上海市に合弁会社の上海鈴謙滬中医薬有限公司を設立 | ★ | |
| 太田裕史 | 調剤薬局のファーコスの株式過半数を取得 | ★★ | ||
| 太田裕史 | 株式交換により中央運輸を完全子会社化 | ★ | ||
| 太田裕史 | 介護事業のエスケアメイトを設立 | ★ | ||
| 太田裕史 | スペシャリティ医薬品領域の総合支援事業を開始 | ★★ | ||
| 宮田浩美 | EPSホールディングスと資本業務提携 | ★ | ||
| 宮田浩美 | EPファーマラインの株式を取得 | ★ | ||
| 浅野茂 | 東京証券取引所プライム市場および名古屋証券取引所プレミア市場に移行 | ★ | ||
| 浅野茂 | ファーマライズホールディングスの株式を取得 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(スズケン)