スズケン:名古屋の薬種商鈴木謙三商店の創業とスズケンへの改称
1932年〜薬品問屋から独立した鈴木謙三と名古屋近郊の開業医
鈴木謙三氏は13歳から薬品問屋に勤め、小学校を終えたところで学業を離れた。三男に生まれ、父は教育家、兄弟はいずれも大学へ進んでいる。27歳で勤め先の薬品問屋から独立し、1932年11月13日に名古屋市東区下竪杉町で薬種商"鈴木謙三商店"を創業した。扱う品を薬に決めたのは、世の中の役に立ち、しかも使えばなくなる商品でなければ商売が長続きしないと考えたからである。販路では競争の激しい名古屋市内を避け、鈴木氏は近郊の開業医の開拓に力を注いだ。医師と直接取引する形は、その後も同社の販売の基本として残った。
- 野田経済 1968年2月7日号
- [1]鈴木謙三は13歳から働き始め、小学校でやめた
- [2]鈴木謙三は三男で、父は教育家、兄弟はみな大学まで進学した
- [4]鈴木謙三は、世の中のためになり、かつ消耗する商品でないと長続きしないという理由で薬屋になったと述べた
- [6]1968年時点でも得意先の医師と直接取引していた
- 株式会社スズケン 有価証券報告書【沿革】/証券 1995年11月号「新規上場会社紹介 株式会社スズケン」
- [3]1932年11月13日、鈴木謙三が名古屋市東区下竪杉町で薬種商『鈴木謙三商店』を創業。勤めていた薬品問屋から独立したもので、独立時は27歳
- 証券 1995年11月号
- [5]創業期は競争の激しい名古屋市内を避け、近郊の開業医販路の開拓に注力した
戦時下の統制のなかで、鈴木謙三商店は闇取引に加わらなかった。アルコールの闇値が200円に達したときも18円で売り、社員は不便を強いられた。戦災では店に掲げていた額が焼け、戦後に武者小路実篤へ"士魂商才"の書を改めて依頼した。鈴木氏は社員に、嘘をつくな、駆け引きをするなと言い続けた。値段そのものは他社に比べて安いわけではなく普通であり、金を儲けようと思ったことはない——鈴木謙三の商いの姿勢である。名古屋市内を避けた販路の取り方は戦争による打撃を比較的小さく抑え、1968年時点の得意先の医師は全国で約2万6000人に達した。
- 野田経済 1968年2月7日号
- [7]戦時中に闇取引をしなかったことが得意先増加の一因だと鈴木謙三が語った
- [8]アルコールが200円もするときに18円で売っており、第一に困ったのは社員だった
- [9]以前に掲げてあった額が戦災で焼けたため、武者小路実篤に『士魂商才 実篤、鈴木謙三氏の為に』の額を新たに書いてもらった
- [10]鈴木謙三は社員に、嘘は絶対いうな、かけ引をしてはならないと指示していた
- [11]鈴木謙三は自社の商品が安いことはなく普通だと述べ、金をもうけようと思ったことは全然ないと語った
- 証券 1995年11月号
- [12]名古屋市内を避けて近郊開業医を開拓した方針が戦争による影響を比較的少なく抑えた。1968年時点の取引先の医師は全国で約2万6000人
参考文献[1]-[12]
- 野田経済 1968年2月7日号
- [1]鈴木謙三は13歳から働き始め、小学校でやめた
- [2]鈴木謙三は三男で、父は教育家、兄弟はみな大学まで進学した
- [4]鈴木謙三は、世の中のためになり、かつ消耗する商品でないと長続きしないという理由で薬屋になったと述べた
- [6]1968年時点でも得意先の医師と直接取引していた
- [7]戦時中に闇取引をしなかったことが得意先増加の一因だと鈴木謙三が語った
- [8]アルコールが200円もするときに18円で売っており、第一に困ったのは社員だった
- [9]以前に掲げてあった額が戦災で焼けたため、武者小路実篤に『士魂商才 実篤、鈴木謙三氏の為に』の額を新たに書いてもらった
- [10]鈴木謙三は社員に、嘘は絶対いうな、かけ引をしてはならないと指示していた
- [11]鈴木謙三は自社の商品が安いことはなく普通だと述べ、金をもうけようと思ったことは全然ないと語った
- 株式会社スズケン 有価証券報告書【沿革】/証券 1995年11月号「新規上場会社紹介 株式会社スズケン」
- [3]1932年11月13日、鈴木謙三が名古屋市東区下竪杉町で薬種商『鈴木謙三商店』を創業。勤めていた薬品問屋から独立したもので、独立時は27歳
- 証券 1995年11月号
- [5]創業期は競争の激しい名古屋市内を避け、近郊の開業医販路の開拓に注力した
- [12]名古屋市内を避けて近郊開業医を開拓した方針が戦争による影響を比較的少なく抑えた。1968年時点の取引先の医師は全国で約2万6000人
1946年〜鈴謙洋行の設立と個人商店からの営業権譲受
鈴木氏は1946年8月10日、静岡県浜名郡に鈴謙洋行を設立し、初代社長に就任した。医薬品の卸売りを目的とする法人であり、株式は同族が握って資本金を増やさない経営を長く続けた。1947年11月には商号を個人商店と同じ鈴木謙三商店に変更した。翌1948年4月、個人商店"鈴木謙三商店"の営業権を譲り受け、創業から16年続いた個人経営に区切りをつけた。同年10月には本社を静岡から名古屋市東区東片端町へ移し、商いの拠点を創業の地へ戻した。東片端町の住所は、1995年に株式を上場した時点でも本店所在地として記載されている。
- 株式会社スズケン 有価証券報告書【沿革】
- [13]1946年8月10日、静岡県浜名郡に鈴謙洋行を設立。鈴木謙三が1946年8月に初代社長へ就任
- [15]1947年11月、商号を鈴木謙三商店に変更
- [16]1948年4月、個人商店『鈴木謙三商店』の営業権を譲受
- [17]1948年10月、本社を名古屋市東区東片端町に移転。それ以前の本社は1946年8月設立地の静岡県浜名郡
- 証券 1995年11月号
- [14]昭和21年、鈴木謙三氏が中心となり静岡県浜名郡において医薬品の卸売りを目的として設立された。1968年時点でも同族会社で、資本金は3,750万円にとどまっていた
- [18]1995年9月の上場時の本店所在地は愛知県名古屋市東区東片端町8番地
鈴木社長は商法の要点を、まず与えることと取引先を大切にすることに置き、購買担当には仕入先を買いたたくなと指示した。利益の取り方も、得意先に儲けてもらい社員に給料を払ったうえで残りを受け取る順序だった。設備の持ち方にも同じ考えを通し、卸は商品を仕入れる以上は借家で商売をしないとして、土地を取得して自社で建物を建てた。ビルを借りて営業所を開設することは避け、建てる際には必要な面積の3倍の土地を買い、3分の1に建物を置いて残りを寝かせている。1968年9月の仮決算では、短期借入金4億3000万円に対して預金は15億7000万円あった。銀行から金を借りる際も、担保を差し入れずに済ませた。
- 野田経済 1968年2月7日号
- [19]鈴木謙三はスズケン商法を『まず与えよ。大切にせよ』とまとめ、購買担当にも買いたたくなと指示していた
- [20]鈴木謙三は、まず得意先に儲けていただき、社員に給料を出して残ったらいただくと述べた
- [21]卸は品物を仕入れるため借りた家では商売をせず、土地を買い家を建てて商売する方針だった
- [22]ビルを借りて営業することは絶対にせず、建物をつくるときは土地を3倍ほど買い、3分の1に家を建てて残る3分の2はしまっておいた
- [23]1968年9月の仮決算のバランスシートで、短期の借入金は4億3,000万円、預金は15億7,000万円
- [24]銀行で金を借りるとしても担保を入れることはしなかった
与える相手は得意先と仕入先だけではなかった。鈴木社長は稟議書に目を通さず、適当に処置するよう記したゴム印を押して返し、支店の開設地にも一度も足を運んでいない。1960年代初めには必要な人数の3倍を採用し、1人当たりの販売高は落ち、経費も3倍かかった。採用の目安は薬科大学に入学できる学力に置き、入社後は製薬会社の社員や専門の教員を講師にして薬の知識を学ばせ、海外にも派遣した。賞与は6月に3カ月分、12月に3カ月分、臨時に4カ月分の計10カ月分を支給し、定年で辞めさせた社員はいなかった。
- 野田経済 1968年2月7日号
- [25]鈴木謙三は取引先と仕入先に加え、社員の処遇と権限委譲でも与える側に立った
- [26]鈴木謙三は稟議書を全然見ず『適当に処置してください』というゴム印を押して返し、支店をつくるときも一度も現地へ行ったことがなかった
- [27]1968年の7年ほど前に必要人員の3倍を採用し、1人当たりの販売高は落ち、経費も3倍かかった
- [28]社員募集は薬科大学に入学できるレベルを目標とし、入社後は製薬会社の人や専門の先生を講師に勉強させ、海外にも勉強に出していた
- [29]賞与は6月に3カ月分、12月に3カ月分、臨時に4カ月分の計10カ月分。定年でやめてもらった人はいなかった
参考文献[13]-[29]
- 株式会社スズケン 有価証券報告書【沿革】
- [13]1946年8月10日、静岡県浜名郡に鈴謙洋行を設立。鈴木謙三が1946年8月に初代社長へ就任
- [15]1947年11月、商号を鈴木謙三商店に変更
- [16]1948年4月、個人商店『鈴木謙三商店』の営業権を譲受
- [17]1948年10月、本社を名古屋市東区東片端町に移転。それ以前の本社は1946年8月設立地の静岡県浜名郡
- 証券 1995年11月号
- [14]昭和21年、鈴木謙三氏が中心となり静岡県浜名郡において医薬品の卸売りを目的として設立された。1968年時点でも同族会社で、資本金は3,750万円にとどまっていた
- [18]1995年9月の上場時の本店所在地は愛知県名古屋市東区東片端町8番地
- 野田経済 1968年2月7日号
- [19]鈴木謙三はスズケン商法を『まず与えよ。大切にせよ』とまとめ、購買担当にも買いたたくなと指示していた
- [20]鈴木謙三は、まず得意先に儲けていただき、社員に給料を出して残ったらいただくと述べた
- [21]卸は品物を仕入れるため借りた家では商売をせず、土地を買い家を建てて商売する方針だった
- [22]ビルを借りて営業することは絶対にせず、建物をつくるときは土地を3倍ほど買い、3分の1に家を建てて残る3分の2はしまっておいた
- [23]1968年9月の仮決算のバランスシートで、短期の借入金は4億3,000万円、預金は15億7,000万円
- [24]銀行で金を借りるとしても担保を入れることはしなかった
- [25]鈴木謙三は取引先と仕入先に加え、社員の処遇と権限委譲でも与える側に立った
- [26]鈴木謙三は稟議書を全然見ず『適当に処置してください』というゴム印を押して返し、支店をつくるときも一度も現地へ行ったことがなかった
- [27]1968年の7年ほど前に必要人員の3倍を採用し、1人当たりの販売高は落ち、経費も3倍かかった
- [28]社員募集は薬科大学に入学できるレベルを目標とし、入社後は製薬会社の人や専門の先生を講師に勉強させ、海外にも勉強に出していた
- [29]賞与は6月に3カ月分、12月に3カ月分、臨時に4カ月分の計10カ月分。定年でやめてもらった人はいなかった
1959年〜東京・金沢への支店開設と商号スズケンへの変更
鈴謙洋行は名古屋を出て、1959年5月に東京都世田谷区へ東京支店を開設した。同じ年には山梨県にも営業拠点を開設し、名古屋を軸にした商圏を関東へ広げている。1960年には薬局・薬店向けの薬粧事業を始めた。1961年に国民皆保険制度が導入されたことにより、医療用医薬品の需要は急速に増大した。1962年5月には金沢支店を開設し、あわせて小林薬品の営業権を譲り受けて石川県の得意先を引き継いだ。1964年10月、商号をスズケンに変更した。社章は鈴の字の中に謙の字を収めた形で、若い社員のいたずら書きを鈴木社長がそのまま採った。
- 株式会社スズケン 有価証券報告書【沿革】
- [30]1959年5月、東京都世田谷区に東京支店を開設
- [34]1962年5月、金沢支店を開設し小林薬品の営業権を譲受
- [35]1964年10月、商号をスズケンに変更
- 証券 1995年11月号
- [31]昭和34年に東京都および山梨県に営業拠点を設置した
- [32]昭和35年に薬粧事業を開始した。薬粧部は薬局・薬店向けの部門
- [33]昭和36年の国民皆保険制度の導入により医療用医薬品の需要は急速に増大した
- 野田経済 1968年2月7日号
- [36]社章は鈴の中に謙の字が入った形で、若い社員のいたずら書きを鈴木謙三が採用したもの
1968年初めのスズケンは、武田を除く国内製薬会社のほぼ全ての薬を扱い、年商は170億円に達した。資本金3750万円、支店と出張所は全国40余カ所、従業員は1500人である。1967年3月期の売上高は132億円で、配当は10割だった。営業の範囲は東の東京から西の三重・福井までで、鈴木社長は市場になお余裕があるとみていた。傍系には1953年1月に設立した三和化学研究所があり、製薬はそこで手がけて自社で販売させた。三和化学研究所の営業所は北海道から九州まで17カ所に置かれ、スズケン本体の営業網とは重複しなかった。
- 野田経済 1968年2月7日号
- [37]1968年時点のスズケンは武田を除いた国内全製薬会社の薬品を一手に扱い、年商は170億円
- [38]資本金3,750万円、支店・出張所は全国40余カ所、従業員は当社のみで約1,500人
- [39]昭和42年3月期の売上高は132億円、配当は10割
- [40]1968年時点の営業範囲は東京から三重・福井までで、鈴木謙三は市場にまだ余裕があると述べた
- [42]1968年時点で三和化学研究所の営業所は北海道から九州まで全国17カ所。三和化学研究所とスズケンは営業網が重複していない
- 野田経済 1976年9月22日号
- [41]三和化学研究所の会社設立は昭和28年1月。製薬は三和化学研究所が担い、自社で販売していた
医師からの相談が傍系会社を生んだ。セールスマンは薬の商談の場で、病院や医院の建物と設備について相談を受けた。当初は専門業者へ取り次いでいたものの、完成後の苦情は自社に返ってきた。そこで専門の設計士と技術者を集めてスズケン建設を興し、ローンの手続きから病院・医院・薬局の設計施工までを自社で請け負う形に改めた。病院を建てれば医療機械や什器、薬用石鹸や日用品が要るため、これらを扱うスズケン物産やスズケン美化学も同じ経緯で設けている。1968年時点のスズケン事業団は、こうして生まれた会社を含めて十数社を数えた。
- 野田経済 1968年2月7日号
- [43]取引先の医師は忙しく、建物や設備についてスズケンのセールスマンが相談を受けていた
- [44]当初は専業者に紹介していたが思うようにいかず、完成後に苦情を受ける場合があった
- [47]1968年時点でスズケンは三和化学研究所・スズケン物産・スズケン建設・スズケン美化学ほか十数社のスズケン事業団を形成していた
- 野田経済 1976年9月22日号
- [45]他人まかせにせず自社で責任の持てるものを建築しようと専門の設計士・技術者を集めて建設会社を設立し、ローンなど手続きの一切から病院・医院・薬局・住宅の建築までを行った
- [46]病院を建築すると医療機械設備・備品・什器・薬用石鹸・化粧品・日用品が必要となるため、スズケン物産・スズケン美化学などが設立された
参考文献[30]-[47]
- 株式会社スズケン 有価証券報告書【沿革】
- [30]1959年5月、東京都世田谷区に東京支店を開設
- [34]1962年5月、金沢支店を開設し小林薬品の営業権を譲受
- [35]1964年10月、商号をスズケンに変更
- 証券 1995年11月号
- [31]昭和34年に東京都および山梨県に営業拠点を設置した
- [32]昭和35年に薬粧事業を開始した。薬粧部は薬局・薬店向けの部門
- [33]昭和36年の国民皆保険制度の導入により医療用医薬品の需要は急速に増大した
- 野田経済 1968年2月7日号
- [36]社章は鈴の中に謙の字が入った形で、若い社員のいたずら書きを鈴木謙三が採用したもの
- [37]1968年時点のスズケンは武田を除いた国内全製薬会社の薬品を一手に扱い、年商は170億円
- [38]資本金3,750万円、支店・出張所は全国40余カ所、従業員は当社のみで約1,500人
- [39]昭和42年3月期の売上高は132億円、配当は10割
- [40]1968年時点の営業範囲は東京から三重・福井までで、鈴木謙三は市場にまだ余裕があると述べた
- [42]1968年時点で三和化学研究所の営業所は北海道から九州まで全国17カ所。三和化学研究所とスズケンは営業網が重複していない
- [43]取引先の医師は忙しく、建物や設備についてスズケンのセールスマンが相談を受けていた
- [44]当初は専業者に紹介していたが思うようにいかず、完成後に苦情を受ける場合があった
- [47]1968年時点でスズケンは三和化学研究所・スズケン物産・スズケン建設・スズケン美化学ほか十数社のスズケン事業団を形成していた
- 野田経済 1976年9月22日号
- [41]三和化学研究所の会社設立は昭和28年1月。製薬は三和化学研究所が担い、自社で販売していた
- [45]他人まかせにせず自社で責任の持てるものを建築しようと専門の設計士・技術者を集めて建設会社を設立し、ローンなど手続きの一切から病院・医院・薬局・住宅の建築までを行った
- [46]病院を建築すると医療機械設備・備品・什器・薬用石鹸・化粧品・日用品が必要となるため、スズケン物産・スズケン美化学などが設立された
出典・参考
5件
- 株式会社スズケン 有価証券報告書【沿革】/証券 1995年11月号「新規上場会社紹介 株式会社スズケン」
- 株式会社スズケン 有価証券報告書【沿革】
- 証券 1995年11月号
- 野田経済 1968年2月7日号
- 野田経済 1976年9月22日号