古河電工古河電工創業——足尾銅山の電気銅から横浜の電線工場へ

電灯・通信網の拡大で銅線需要が高まるなか、足尾銅山を握る古河市兵衛 氏は銅の加工先をどう社内に取り込んだか

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時期 1896年6月
意思決定者 古河市兵衛 氏(古河鉱業創業者)ほか、雨宮敬次郎 氏 共同出資した横浜の実業家
論点 銅加工部門への進出(電気銅の加工先を社内に確保する垂直統合)
概要
1896年6月、足尾銅山を握る古河市兵衛 氏は、雨宮敬次郎 氏ら横浜の実業家と資本金30万円の横浜電線製造株式会社を横浜市花咲町に設立し、銅の加工部門へ進出した。同年9月には本所横川に古河鉱業直営の電線製造所も開き、電気銅から銅線・電線までを社内で手がける垂直統合を形にした。この横浜電線製造が、有価証券報告書の沿革に古河電工の創業のはじまりとして記録されている。
背景
古河市兵衛 氏は1874年の小野組破綻で独立し、渋沢栄一 氏の個人保証で草倉銅山を引き継いで1875年に古河鉱山を発足させ、1884年に足尾銅山を5万円で買収した。足尾は鷹の巣坑・横間歩大直利の大鉱脈発見で日本最大の銅山へ成長し、最盛期には年産銅5,000トン超で国内産銅の40%以上を占めた。電灯と通信網の拡大で銅線需要が高まるなか、電気銅の加工先を社内に取り込む垂直統合が次の経営課題となっていた。
内容
横浜電線製造は東京電燈ほかの電灯事業者と逓信省の電信・電話網を主な販売先とし、電力・通信インフラの拡張が創業まもない電線事業に需要の裏づけを与えた。一方で足尾銅山の量産は渡良瀬川流域に鉱毒被害をもたらし、1891年に田中正造 氏が衆議院へ質問書を提出、1900年の川俣事件で社会問題となった。古河家は1893年の大煙突以降、予防工事と補償の対応に追われながら電線事業を育てていった。
含意
1903年に市兵衛 氏が没し、養子の古河虎之助 氏が家督を継いだ。1905年に古河鉱業が横浜電線製造の経営権を取得し、第一次世界大戦期の銅線価格高騰を経て、1920年4月に古河鉱業から日光電気精銅所と電線製造部門を分離、横浜電線製造と統合して資本金2,000万円の古河電気工業株式会社が発足した。電気銅から電線までを一貫して担う体制が整い、1949年5月の東京証券取引所上場で公開企業として再出発した。
筆者の見解

鉱山王の垂直統合が残したもの

この創業が示すのは、鉱山で得た資本を川下の加工業へ振り向けた垂直統合の判断である。足尾銅山の電気銅という自社資源に確実な出口を用意するため、古河市兵衛 氏は電線製造という加工部門を社内に抱え込んだ。完成品の華やかさではなく、電気を運ぶ線材という産業の土台を担う領域を選んだ点に、鉱山業から一歩を進めた事業家の計算が読み取れる。銅の採掘・製錬・加工を一つの系列で結ぶ構えが、後の非鉄金属メーカーへの道筋を用意したとみられる。

もう一つ見えてくるのは、基幹資産だった足尾銅山が、同時に深刻な公害の源にもなった二面性である。国内最大の銅山がもたらした収益が電線事業への進出を支えた一方、渡良瀬川流域の鉱毒被害は数十年に及ぶ補償と対策の負担を古河家に残した。事業の拡大と社会的な費用が同じ鉱山から生まれた経緯は、近代日本の資源開発が抱えた矛盾を映している。鉱山王の垂直統合は、電線という新事業と鉱毒という重い課題を、ともに古河のその後へ引き渡していった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

小野組破綻からの独立と鉱山業への再出発

古河市兵衛 氏は1832年に京都で盛岡藩士の家に生まれ、豪商小野組に番頭として勤めて生糸貿易と鉱山経営の実務を担った。1872年には小野組の鉱山部門責任者として新潟県の草倉銅山を経営し、銅山経営の知見を蓄えていた。1874年11月に小野組が政府への担保不足で破綻すると、43歳の市兵衛 氏は独立して自らの事業を起こす道を選んだ。第一国立銀行頭取の渋沢栄一 氏が個人保証に立ち、旧小野組所有の草倉銅山の経営を引き継ぐ形で、1875年に古河鉱山が発足した[1]

市兵衛 氏は1877年に草倉銅山の本格操業に踏み切り、1881年には秋田県の院内銀山と阿仁銅山の払い下げを受けて経営の規模を広げた。1884年には栃木県の足尾銅山を旧オランダ商人ジョン・パブストから5万円で買収し、鉱山事業の主軸に据えた[2]。足尾は江戸期に幕府直轄の銅山として栄えたものの、明治初年には産銅量が落ちて休山に近い状態にあり、買収額は比較的低廉に収まった。市兵衛 氏は採鉱・選鉱・製錬の各工程に当時の最新技術を導入し、量産体制の構築へ動いた。

足尾銅山の量産と銅加工市場の勃興

買収直後の1885年に新坑「鷹の巣坑」が、翌1886年には「横間歩大直利」と呼ばれる大鉱脈が相次いで発見され、足尾は日本最大の銅山へ転じた。最盛期の1890年代後半には年産銅が5,000トンを超え、国内産銅の40%以上を占める量産体制が築かれた[3]。市兵衛 氏は米国製の削岩機やベッセマー転炉、電気精錬法を相次いで採り入れ、採掘から製錬までの近代化を進めた。鉱山収益が古河家の資本蓄積を支える一方、産出された電気銅の販売先を確保することが次の経営課題として浮かび上がった。

銅の加工市場も同じ時期に立ち上がりつつあった。1887年に東京電燈が白熱電灯の供給を始め、1890年には東京〜横浜間で電話が開通するなど、電力と通信のインフラ整備が銅線需要を押し上げていた[4]。古河家は足尾の電気銅を国内外の電線メーカーや伸銅業者へ販売していたが、加工先を社外に委ねる限り、加工段階の利益は他社の手に残った。市兵衛 氏にとって、銅の採掘から加工までを一体で手がける垂直統合をどう組むかが、鉱山業の次の一手として重みを増していた。

決断

銅加工への垂直統合——横浜電線製造の設立

1896年6月、市兵衛 氏は雨宮敬次郎 氏ら横浜の実業家と共同で、資本金30万円の横浜電線製造株式会社を神奈川県横浜市花咲町に設立した[5]。足尾銅山の電気銅を自社の加工部門で銅線・電線へと仕上げ、量産して販売する構えであった。同年9月には東京府本所区横川に古河鉱業会社直営の電線製造所も開設し、横浜と東京の二拠点で銅加工事業を始めた[6]。鉱業で蓄えた資本を加工業へ振り向ける、垂直統合の一手を打った創業であった。

横浜電線製造の主な販売先は、東京電燈をはじめとする電灯事業者と、逓信省が管轄する電信・電話網であった。電灯の普及と通信網の拡張が銅線の消費を押し上げ、創業まもない電線事業に需要の裏づけを与えた。この横浜電線製造は後年に古河系へ取り込まれ、有価証券報告書の沿革に古河電工の創業のはじまりとして記録されている[7]。鉱山王として知られた市兵衛 氏の事業は、銅の塊を売る段階から、電気を運ぶ線材を供給する段階へと踏み込んだ。

結果

足尾鉱毒事件と予防工事の負担

足尾銅山の量産は、渡良瀬川流域に深刻な公害をもたらした。1890年8月の大洪水を契機に、栃木・群馬両県の下流農民が銅山の鉱毒による農作物被害を県庁へ請願した。1891年12月には衆議院議員の田中正造 氏が「足尾銅山鉱毒の儀につき質問書」を衆議院に提出し、被害の調査と防止策を政府へ求めた[8]。製錬工程から出る亜硫酸ガスと鉱毒水が農地を侵し、古河家は創業と並行して鉱毒への対応を迫られた。

古河側は1893年に大煙突を、1894年に脱硫塔を設け、1897年5月には政府の鉱毒予防命令を受けて第二次予防工事に着手した[9]。1900年2月の川俣事件では下流農民の請願団と警官隊が衝突し、鉱毒問題が社会全体の関心を集めた。市兵衛 氏は1903年に71歳で没するまで予防工事と補償の対応に追われ、1907年には政府が下流の谷中村を渡良瀬遊水地として強制廃村する事態に至った。鉱毒対応の費用と社会的な負担は、以後数十年にわたる古河家の経営課題となった。

古河電気工業の独立と戦後の再出発

1903年に市兵衛 氏が71歳で没した後、養子の古河虎之助 氏が古河家を継ぎ、古河鉱業の経営を主導した。1905年には古河鉱業合名会社が横浜電線製造の経営権を取得し、銅加工部門を実質的に古河系の事業として運営する体制を整えた[10]。第一次世界大戦期には軍需と電力需要で銅線価格が高騰し、古河の電線部門は収益を伸ばした。鉱業と加工業を古河財閥のなかで並べて育てる構図が、この時期に固まっていった。

1920年4月、古河虎之助 氏の判断で、古河鉱業から日光電気精銅所と電線製造部門を分離し、横浜電線製造と統合する形で資本金2,000万円の古河電気工業株式会社が発足した[11]。これにより、電気銅の生産から電線の製造までを一貫して手がける体制が整った。以後、1921年12月の九州電線製造買収、1938年11月の大阪伸銅所新設と拠点を広げ、戦後の1949年5月には東京証券取引所に株式を上場して、公開企業として復興期の資金調達の基盤を築いた[12]

出典・参考
  • 有価証券報告書(沿革)
  • 古河電気工業50年史(1953)
  • 古河電気工業100年史(1991)
  • 古河市兵衛翁伝(1926)
  • 衆議院議事録 1891/12

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