1910年3月、藤倉電線護謨合名会社から電線部門を分離して藤倉電線株式会社が設立された。資本金50万円、本店は東京千駄ヶ谷に置かれた[1]。[2]母体の藤倉電線護謨は1885年創業の電線・ゴム混合事業体で、電線の分離独立によって電線専業メーカーとしてのフジクラが発足した。戦前の国内電線市場は、住友電線製造所(現・住友電工)、古河電工と並ぶ電線御三家の三社体制に収斂し、[3]フジクラは財閥の後ろ盾を持たない独立系として財閥系2社と直接競う構図に置かれた。早くから海外技術の吸収につとめたフジクラは、1935年に独自設計の藤倉型周波同軸ケーブルを開発し[4]、米・英・独・仏など7カ国で特許を取得するなど、戦前から技術の優位性で2社と伍した。以後のフジクラの経営は、独立系として生き残るには技術で差をつけるしかないという価値観に貫かれ、その方針は光ファイバや光コネクタへ事業が移っても一貫して受け継がれた。
1923年に本社・工場を江東区木場の現在地に移転、[5]1949年5月に東京証券取引所へ株式を上場した。[6]戦後のインフラ復興期には電力ケーブル・通信ケーブル・巻線などの需要を取り込み、1954年に沼津工場、[7]1961年の東証一部指定、[8]1965年に佐倉工場、[9]1970年に鈴鹿工場と、[10]国内量産拠点を東日本から東海にかけて並べた。あわせて1956年に原料供給を担う大阪工場を開設し、1959年10月には三井金属鉱業と提携[11]した沼津熔銅の操業を始めて銅地金供給の内製化も進めた。1960〜70年代のフジクラは、財閥の後ろ盾を持たない独立系電線メーカーとして、量産規模で住友・古河に追随する立場にあったが、電力9社の送電網整備と電電公社の通信網整備という戦後の2大インフラ投資を受け止めることで電線御三家の一角を堅持し、戦後復興期の技術投資の原資を稼ぎ出した時期である。
1970年代、国内電電公社(現NTT)の通信インフラ投資と歩調を合わせ、フジクラも光ファイバ・光ケーブル技術の開発に入った。光ファイバ分野は住友電工・古河電工・フジクラの3社が並んで取り組む構図となり、[12]フジクラは融着接続機(ファイバ同士を高温で溶かして接続する装置)など、光通信の現場で必要となる周辺機器の分野で独自のポジションを築いた。電線専業では量産規模の経済で財閥系にやや分が悪くなる中で、周辺機器と実装技術を自前で押さえることでケーブル単体の価格競争から一段離れた場所に事業を置こうとする方針がなった時期でもあり、後年の『技術のフジクラ』というブランドの原点がここに形成された。
この時期の経営資源配分が、のちに光ケーブルと融着接続機を『技術のフジクラ』の看板商品に育てる土台となった。1970年代の電線業界は、通信インフラの光化・エレクトロニクス化が始まった時期で、電線専業では規模の経済で財閥系に分が悪くなっていた頃でもあり、フジクラにとっても電線以外の事業柱をどう育てるかが経営課題となっていた局面である。電力ケーブルやワイヤハーネスといった戦後の量産事業の成熟に備えて、光デバイス・コネクタ・電子材料・実装装置といった技術領域に早めに足場を張ろうとする戦略が、1970年代の研究開発投資と人材育成にはっきりとあらわれ、後の事業構造の多極化と光ファイバ事業急成長の原点となっていった時期である。
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|---|---|---|---|---|
| 1910〜1979年独立系電線メーカーとして江東区木場に根を張った時代 | 藤倉電線護謨合名からの電線部門の分離独立と株式会社化 1910年3月18日、藤倉電線護謨合名会社が電線とゴム引防水布の二事業を分け、電線部門を資本金50万円の藤倉電線株式会社として独立させた経営判断。創業者藤倉善八氏の死後に事業を継いだ松本留吉氏のもとで、合名会社に残るゴム引防水布事業と別会社に分かれ、双方が別の工場を構えた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 本社・工場を江東区木場に移転 | ★ | |||
| 石橋五郎 | 東京証券取引所に上場 | ★ | ||
| 石橋五郎 | 沼津工場を新設 | ★ | ||
| 兵藤嘉門 | 東京証券取引所一部に指定 | ★ | ||
| 栗山久治 | 佐倉工場を新設 | ★ | ||
| 栗山久治 | 鈴鹿工場を新設 | ★ | ||
| 1980〜2012年電線からフジクラへ ── グローバル化と電力事業撤退 | 河村勝夫 | 光ファイバの独自技術への投資と、融着接続機の自社開発 1973年のCVD法による光ファイバ母材の検討開始から、1975年の日本電信電話公社・古河電気工業・住友電気工業との光ファイバ共同研究協定、1980年のシングルモード用融着接続機の開発までを通じて、藤倉電線が光ファイバとその接続装置へ研究資源を集中させた経営判断。研究員を増やし、通信事業部の研究開発費を光へ寄せた。 詳細を読む | ★★★ | |
| 加賀谷誠一 | Fujikura (Thailand) Ltd.を設立 | ★ | ||
| 加賀谷誠一 | DDK (Thailand) Ltd.を設立、コネクタ製造 | ★ | ||
| 加賀谷誠一 | Fujikura Europe Ltd.を設立 | ★ | ||
| 加賀谷誠一 | 本社ビル竣工 | ★ | ||
| 加賀谷誠一 | Fujikura Hong Kong Ltd.を設立 | ★ | ||
| 加賀谷誠一 | 商号を藤倉電線からフジクラに変更 | ★ | ||
| 田中重信 | 地域統括会社を設立 | ★ | ||
| 辻川昭 | 旧深川工場跡地再開発、オフィス棟オープン | ★ | ||
| 辻川昭 | 電力ケーブル事業の古河電工との合弁ビスキャスへの切り出しと、15年後の国内事業の振り分け 2001年に古河電気工業と折半出資でビスキャスを設立し、2005年1月に電力事業全般を営業譲渡して製造販売・研究開発まで移した経営判断。国内の電力用電線市場が伸びを欠くなかで、祖業の一角である電力ケーブルを競合との共同運営へ切り出した。15年後の2016年10月には国内事業を両社に振り分け、フジクラは配電線・架空送電線事業を引き取った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 辻川昭 | 三菱電線工業と建設・電販合弁フジクラ・ダイヤケーブルを設立 | ★ | ||
| 辻川昭 | America Fujikura Ltd.・AFL Telecommunications LLCを設立 | ★★ | ||
| 大橋一彦 | リーマンショックで売上が減少 | ★★ | ||
| 長浜洋一 | 純損失に転落 | ★★ | ||
| 2013〜2022年カンパニー制導入と385億円の純損失からのV字回復 | 長浜洋一 | 社内カンパニー制を導入 | ★ | |
| 伊藤雅彦 | 三菱電線との産業用電線事業をフジクラ・ダイヤケーブルに統合 | ★ | ||
| 伊藤雅彦 | 伊藤雅彦氏が社長に就任 | ★ | ||
| 伊藤雅彦 | 純利益が大幅減少、特別損失が増加 | ★ | ||
| 伊藤雅彦 | 純損失385億円に転落、リストラ特別損失計上 | ★★ | ||
| 伊藤雅彦 | カンパニー制を廃止 | ★ | ||
| 岡田直樹 | AI・データセンターへの集中と電線大手の再定義 2020年前後の構造改革で不採算事業を整理したフジクラが、生成AI・データセンター需要を追い風に光ファイバと光接続製品へ資源を集中させ、薄利の電線大手から高収益の光通信メーカーへ事業構成を組み替えた経営判断。岡田直樹社長のもと、2026年3月期には売上高1兆1,430億円・純利益1,571億円と5期連続で最高益を更新した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 岡田直樹 | 導体事業を分社化 | ★★★ | ||
| 岡田直樹 | 売上9,793億円・営業利益1,355億円・純利益911億円の過去最高 | ★ |
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事実根拠:出所(フジクラ)