九州電力電気事業再編成令による九州一円の発送配電一貫会社としての設立
国家管理の電力をどう民営へ戻すか——九州の発電・送電・配電を1社に束ねた1951年5月1日
- 概要
- 1951年5月1日、電気事業再編成令にもとづき日本発送電と九州配電が解体され、九州一円を供給区域とする発送配電一貫の民営会社として九州電力が資本金7億6,000万円で発足した経営判断。
- 背景
- 戦時期の電力国家管理では、発電・送電を日本発送電が、配電を地域ごとの配電会社が担い、責任が分かれていた。占領下の政府と電気事業再編成審議会は、地域ごとに発電から配電までを1社に束ねる案を採った。
- 内容
- 九州配電と日本発送電から発電設備・送電網・営業所を一括継承し、九州7県を供給区域とする民営会社として出発した。1951年9月に福岡証券取引所、1953年2月に東京・大阪両証券取引所市場第一部へ上場し、電源投資の資金を自力で調達する体制を整えた。
- 含意
- 総括原価方式と地域独占のもとで投資回収の見通しを確保する枠組みは、上椎葉・苅田・大村といった大型電源の建設を短期間で可能にした。この一貫体制は2020年4月の法的分離まで69年続いた。
設立の設計図が決めた、その後70年の可動域
1951年の設立は、経営者が事業機会を見つけて会社を起こしたたぐいの創業ではない。占領下の政令が全国9地域の区割りを決め、既存の設備をその区割りに沿って割り付けた結果として、九州電力という法人が生まれた。それでも、これを制度に従っただけの手続きとみるのは狭い。発電・送電・配電をどこで切り、どこで束ねるかという設計は、投資の意思決定を誰が担うかを決める設計でもあった。九州電力は、九州7県の需要をひとまとまりの計画対象として引き受ける会社として出発している。
その設計は、その後の経営の可動域をおおむね決めた。上椎葉のアーチダムも、石炭火力の連なりも、離島の24時間化も、区域全体の需要と料金を一つの計画表に載せられたからこそ手がついた事業であった。同じ設計は、原子力への集中や、原発が止まったときの収支の振れ幅も同時に用意している。設立時に定めた供給区域の輪郭は、2020年4月1日に送配電が切り離されたあとも、発電と小売の事業範囲としてほぼそのまま残った。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
電力の国家管理と、その解体を決めた占領下の政令
戦時期の日本の電力は、発電と送電を国策会社の日本発送電株式会社が一元的に握り、配電は地域ごとの配電会社が担う二層の体制に置かれていた。九州では九州配電株式会社が配電と営業を受け持ち、発電所と送電線は日本発送電の所有であった。設備の建設責任と需要家に電気を届ける責任が別の法人に分かれていたため、戦後の復興需要に合わせて電源を積み増そうとしても、投資の判断と回収の主体が一致しない状態が残っていた[1]。
占領下の政府は、この国家管理を解いて民営へ戻す作業に着手した。1950年11月、電気事業再編成令と公益事業令がポツダム政令として公布され、同年12月の施行によって国家管理の根拠であった電力管理法は廃止された。電気事業の新しい行政機関として公益事業委員会が置かれ、再編の具体案は電気事業再編成審議会が詰めた。審議会の委員長を務めた松永安左エ門氏は、地域ごとに発電から配電までを1社に束ねる案を押し通し、この案がそのまま9社の枠組みとなった[2]。
石炭と鉄鋼が牽引した戦後九州の電力需要
再編の受け皿となる九州は、石炭採掘と鉄鋼・化学を主軸とする工業地帯であった。八幡製鐵所や三井三池といった大口需要家が集まり、電力需要は復興の進行に合わせて短い期間で増えた。九州電力の創立時の年間販売電力量は41億kWhで、これが1960年度には89億kWhと2.2倍に達している。10年間の年平均伸び率は9%にのぼり、産業の近代化によって電力需要の伸びが電灯需要の伸びを上回った[3]。
需要の伸びに設備が追いつかない状態は、料金の水準にも表れた。九州電力は発足の年に38.7%、翌1952年に36.9%、1954年に3.0%と、短い間隔で料金の値上げを重ねている。電源を建設しなければ需要に応えられず、建設のためには料金収入と外部資金の両方が要る。国家管理の解体は、その資金繰りの責任を国から地域の民営会社へ移す作業でもあった[4]。
決断
九州7県を1社に束ねた1951年5月1日
1951年5月1日、日本発送電の解体と同時に、北海道から九州までの9地域で発送配電一貫の電力会社が一斉に発足した。九州電力株式会社は資本金7億6,000万円で設立され、九州配電から配電網と営業所を、日本発送電から発電設備と送電線を一括して継承した。発電・送電・配電・小売を1社が通しで持つ垂直統合の会社が、九州一円を供給区域として動き出した。設備を建てる主体と、電気を売って代金を回収する主体が、これで初めて一致した[5]。
母体となった事業者の系譜は、九州の電気事業の草創期までさかのぼる。のちに社長となる永倉三郎氏は、父の勤め先であった九州電灯鉄道と東邦電力を「いずれも九州電力の前身」と紹介されており、1934年に東邦電力へ入社したのち、配電統合によって九州配電へ移り、1951年に九州電力の管財課長となっている。戦前の民営事業者から戦時の統制会社を経て新会社へ、という人の流れが、そのまま設立時の組織の中身を形づくった[6]。
地域独占と資本市場、二つの資金の入口
供給区域内で発電から小売までを一体で運営する仕組みは、料金規制と引き換えに投資回収の見通しを確保する制度設計であった。総括原価方式のもとでは、必要経費と適正利潤を料金へ転嫁できる。数百億円から数千億円の規模になる電源開発の投資は、この予見性があってはじめて手をつけられた。その裏側で、需要家が事業者を選ぶ余地は制度として閉ざされた[7]。
もう一つの入口は資本市場であった。九州電力は発足から4カ月後の1951年9月に福岡証券取引所へ上場し、1953年2月には東京・大阪両証券取引所の市場第一部へ上場している。料金収入と株式・社債による調達を両輪として、国庫に頼らずに電源を積み増す枠組みが、設立から2年ほどで一通り整った[8]。
結果
10年で積み上げた電源と、消えた未点灯
一貫体制のもとで、九州電力は電源の建設を続けた。1955年には日本で最初のアーチ式ダムによる上椎葉発電所(9万kW)が運転を開始し、1956年に苅田発電所1号機(石炭、7.5万kW)、1957年に大村発電所1号機(石炭、6.6万kW)、1960年に港発電所1号機(石炭、15.6万kW)が相次いで動き出した。1957年には初の超高圧送電線として中央幹線が22万Vに昇圧され、同じ年に火力の発電量が水力の発電量を上回っている。建設の実務を自前で抱えるため、1954年5月には九州火力建設株式会社(のちの西日本プラント工業)を設立した[9][10]。
供給の質にも一貫体制の効果が表れた。22万ボルト送電線の整備で九州の北部と南部が連系され、離島の供給時間は5時間から24時間へ延びた。地域によって分かれていた周波数は1960年に60Hzへ統一されている。1970年には未点灯家屋が全面的に解消された。発電から配電までを1社で計画できる体制は、採算だけでは説明しにくい離島や辺地の供給を、供給区域全体の負担で成り立たせる仕組みでもあった[11][12]。
69年続いた一貫体制と、その終わり
発足時の枠組みは、その後の合併によって供給区域の内側でさらに固められた。1972年4月に西日本共同火力株式会社、1973年3月に大島電力株式会社をそれぞれ合併し、区域内の発電と供給は九州電力へ集約された。地域独占で得た料金収入を電源投資に回し、その投資が需要の拡大に応えてさらに収入を増やす循環が、9電力体制の最初の20年を支えた[13]。
一貫体制が解かれたのは2020年4月1日であった。電力システム改革の第3段階として、九州電力は一般送配電事業を九州電力送配電株式会社へ承継させ、本体は発電と小売を担う会社となった。1951年5月1日に発電・送電・配電を1社へ束ねた設計は、69年後に送配電を切り出す形へ組み替えられた。九州電力は託送料金で運営する規制事業と、燃料費と小売競争に左右される競争事業とに分かれた[14]。
- 九州電力 有価証券報告書【沿革】
- 資源エネルギー庁 エネルギー白書2018(第1部第1章第3節)
- 九州電力「1950年代のあゆみ」
- 九州電力 沿革
- 日経ビジネス 1974年10月28日号「ねばりと待ちの姿勢が身上」(新社長登場・永倉三郎氏 九州電力)