東映アニメーション短編の外注先だった日動映画を買収し、長編漫画映画の専属スタジオへ改組

委託を重ねるか、製作会社ごと抱えるか——東映が選んだアニメーション製作の内製化

時期 1956年7月
意思決定者(推定) 大川博 東映社長
論点 アニメーション製作の内製化と長編路線
概要
1956年7月、東映が日動映画株式会社を買収し、商号を東映動画株式会社へ改めた経営判断。本社を東京都中央区京橋、製作所を東京都新宿区原町に置き、劇場用長編アニメーションを継続して製作するスタジオへ組み替えた。
背景
日動映画は短編の受注製作で経営が安定せず、委託元であった東宝教育映画部の解散もあって新たな出資者を必要としていた。東映は1954年に二本立て興行と教育映画の自主製作を始め、児童向けのプログラムと新しい映像市場を求めていた。
内容
買収前の1955年に「漫画映画自主製作研究委員会」を設け、教育映画部長の赤川孝一氏が日動映画の役員であった藪下泰司氏らと渡米して製作会社を視察した。買収後の1957年1月には製作所を練馬区東大泉へ移し、多層式撮影台などの設備を入れた。
含意
設立時に23名だったスタッフは1959年に284名へ増え、工房的なスタジオは工程ごとの分業組織へ変わった。1958年10月に長編第一作「白蛇伝」が完成する一方、賃金と労働条件をめぐる対立が生じ、1961年に労働組合が結成された。
筆者の見解

人と技能を買うということ

この買収で東映が手に入れたのは、23名のアニメーターと、彼らが短編で積んできた製作の経験である。設備も配給網も資金も東映の側にあり、日動映画が持っていたのは人と技能だけであった。それでも東映は、委託を重ねる関係を続けずに会社ごと買う道を選んでいる。長編アニメーションのように、一作へ人手と時間を注ぎ込まなければ完成しない商品では、作品ごとに条件を交渉する相手方に製作能力を預けたままでは、費用も工期も読みにくい。製作の能力を自社の内側へ移したことが、年に1本の長編を10年近く出し続ける前提になったとみることができる。

ただし、内側に置いた製作能力は、そのまま管理の対象にもなった。20名あまりの工房であれば個々の信頼で回っていた作業が、284名の分業組織では給与体系と勤務評価の問題に変わる。労働組合の結成も、若手アニメーターの流出も、買収がもたらした規模の拡大と切り離せない。人の技能を買う取引は、その人たちの働き方まで引き受ける取引でもあった。東映動画が「東洋のディズニー」を掲げた10年の内側では、ディズニーに倣った表現と、それを支える労働の条件とが、同時に問題になっていた。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

短編を作り続けられなかった日動映画

東映が買収した日動映画は、戦後の日本でアニメーション作家が集まった数少ないスタジオの系譜にあった。1945年10月に設立された新日本動画社には、のちに東映動画スタジオの次長となる山本善次郎氏や、ベテラン作家であった政岡憲三氏が加わっている。両氏は間もなく分離独立し、1948年に日本動画社を設立した。東宝教育映画部から製作の委託を受けて作品を発表したものの、経営は早い時期から苦しかった。1949年の『キネマ旬報』には、一部の債権者が製作機材を担保として社外へ持ち去り、その後の製作に支障が出たという記録が残っている[1][2]

委託元の側も安定していなかった。東宝教育映画部は1948年の第三次東宝争議を経て東宝教育映画株式会社として分離独立し、東宝図解映画社と改称したのち解散する。そのスタッフの一部が日本動画社へ流れ込み、1952年に日動映画株式会社が成立した。仕事を出していた相手が消え、人材だけが残る逆転が起きている。当時のアニメーションは30分以内の作品が大半で、単独の興行に向かない短編の製作は難しかった。事業を続けるには、新たな出資者を見つけるほかなかった[3]

二本立て興行と教育映画を抱えた東映

買い手の東映は、1951年に東横映画と太泉映画を吸収合併して発足し、初代社長に大川博氏が就いた邦画会社である。1954年からは劇場での二本立て上映を興行の形態に採り入れた。他社作品との併映を避けて自社作品からの収入を安定させ、そこへ児童向けのプログラムを組み込んで家族連れを呼び込む狙いがあった。二本立ての一方に置く児童向けの作品を継続して供給できるかどうかが、興行の設計そのものに関わっていた[4][5]

同じ1954年、東映は教育映画の自主製作を始めた。翌年には16ミリ映画部を教育映画部と改め、短編アニメーション映画『うかれバイオリン』の製作を日動映画へ委託する。教育映画部長の赤川孝一氏は、日動映画の役員であった藪下泰司氏らとともに渡米し、アメリカの製作プロダクションを視察した。1955年には「漫画映画自主製作研究委員会」が設けられ、自主製作へ向けた準備が進む。『東映十年史』は、東映がアニメーション製作に着目した理由を、教育映画・テレビ番組・コマーシャルフィルムという新たな国内映像市場の獲得と、海外市場への進出から説明している[6][7]

決断

外注先を買うという決着

1956年7月、東映は日動映画株式会社を買収し、商号を東映動画株式会社へ改めた。本社は東京都中央区京橋、製作所は東京都新宿区原町に置かれた。作品ごとに委託と受託を繰り返すのではなく、製作会社そのものを傘下に収め、劇場用長編アニメーションを継続して作る組織へ組み替える選択であった。日動映画の側から見れば、短編の受注を細々と重ねる経営から、大資本のもとで製作に専念する立場への移行にあたる[8][9]

大川博社長は、この会社を「東洋のディズニー」にすると宣言し、ディズニーの制作工程と技術を採り入れた。もっとも発足当時のスタッフは23名にすぎない。世界を見渡しても、長編アニメーションを継続して商業製作しているスタジオはディズニーだけであった。手本が事実上一社しかない事業に、邦画会社が23名の小さなスタジオを買って乗り出したことになる[10][11]

なぜ長編でなければならなかったか

短編ではなく長編を選んだ理由は、東映がすでに固めていた配給・興行の仕組みにあった。二本立て興行のプログラムへ独自の枠として組み込むなら、作品には最低でも60分を超える長さが求められる。長編アニメーションという形式は、既存の映画会社の中でアニメーション製作を産業として成立させようとしたことから導き出された。表現の手法も、東映はディズニーの長編に倣い、動きを省略しないフル・アニメーションを採った[12]

長編を作るには設備が要る。1957年1月、製作所は東京都練馬区東大泉のスタジオへ移った。東映は、立体感のある演出を可能にする多層式撮影台(マルチプレーン・カメラ)を据えるなど、本格的な設備投資を行っている。日動時代を知るアニメーターの森康二氏は、新しいスタジオについて「まるで ヴェルサイユ宮殿のように 輝いて見えました」と回想した。動画机と暖房のある部屋、水洗のトイレが、当時の製作現場では珍しかった[13][14]

結果

『白蛇伝』と、3年で10倍になった人員

長編第一作『白蛇伝』の企画は、買収と同じ1956年に始まっている。作画作業に入ったのは1957年12月25日で、完成は1958年10月であった。企画は当初、興行のリスクを分散するため香港の映画会社との合作が予定されていた。当時の新聞記事によれば、これは「第三回東南アジア映画祭に出席した大川東映社長が決めてきたもの」で、「東映側が製作費の三分の二を負担する条件」であったという。買収から2年余りで、東映は自前の長編を1本仕上げた[15][16][17]

劇場用長編を年に1本という速度は、短い間隔でプログラムを入れ替える東映の興行とは釣り合わない。コマーシャルフィルムの需要も増えており、増産のための増員が繰り返された。『東映十年史』によれば、発足時に23名だったスタッフは翌1957年末に109名、1959年には大学・高校の新卒者を大量に採用して284名に達する。3年足らずで10倍を超えている[18][19]

工房が工場になる

増員はスタジオの性格を変えた。日動時代の小規模な工房は、多数のスタッフを抱える「夢の工場」へ拡大し、パートごとの分業体制が固まる。製作スタッフ間の交流は薄れた。臨時採用者と定期採用者のあいだの給与や昇給額の格差、勤務評価の基準の不明確さも不満として積み上がる。1959年には賃金体系と過重労働の改善を求めてスタジオのスタッフが労働組合の結成を図ったものの、このときは承認されず解散させられた[20][21]

中心にいたメンバーは活動を続け、1961年に東映動画労働組合が正式に結成される。初代委員長には、東映動画の設立後に入社したアニメーターの永沢詢氏が就いた。一方で、杉井儀三郎氏らのように東映動画を離れ、手塚治虫氏が発足させた虫プロダクションへ移るアニメーターも現れた。1963年11月、東映動画は初のテレビシリーズアニメ『狼少年ケン』の放映を始める。買収から7年で、この会社は劇場用長編とテレビアニメの双方を抱える製作会社になった[22][23]

出典・参考

免責事項およびポリシー