1912年9月、横田商会・吉沢商店・福宝堂・エム・パテーの映画4[1]商社が合同し、資本金1000万円の日本活動写真株式会社が創立された。財界世話役の郷誠之助氏を創立委員長に立て、既設4商社の施設と権利の一切を買収合併で継承し、映画(活動写真)の製作・配給・興行の統一を狙う日本初の本格的な映画トラストとして出発した。同年に『忠臣蔵』を公開し、1913年には東京・向島に東京撮影所、1918年には京都に大将軍撮影所を構えた。[2]しかし設立直後から不況で事業は振るわず、1914年には資本金を250万円へ減資している。[3]
第一次大戦後の好況で業績は持ち直し、1920年4月に資本金を600万円へ増資[4]、群小会社を制して映画業界の主導的地位を固めた。1923年9月の関東大震災で向島の東京撮影所は大将軍撮影所へ合流し、1928年4[5]月には京都・太秦に太秦撮影所を開設している。1930年に初のフィルム式トーキー『ふるさと』を公開したものの[6]昭和恐慌期に経営は再び傾き、1930年代前半の日活は、いつ倒産してもおかしくないと業界内で囁かれる倒産危機のさなかにあった。映画館で弁士が語る無声映画の興行形態が、トーキーという技術転換に直面した時期でもあった。
倒産危機の日活で経営権と株式を握り、再建へ乗り出したのが、後に四半世紀にわたり社長を務める堀久作氏である。[7]堀氏は高利債の低利債への乗り換えを最優先課題と定め、映画産業への融資に銀行界が及び腰のなか、千葉銀行から支援を取り付けた。[8]さらに弁士を残すべきだとする役員会の反対を押し切って全作品のトーキー化を決断し、1933年11月にウェスターン・トーキーを採用した。1934年3月には東京・調布の多摩川に鉄筋コンクリート造のトーキー撮影所を新設した。堀氏は撮影所新設時の周囲の反応を後年こう振り返っている。
再建後の1935年11月には資本金200万円の日本興行を吸収合併して資本金800万円となり[9]、京都と多摩川の東西両撮影所から人気映画を送り出した。だが1941年末、戦時統制が転機となる。映画統制策に基づく企業整備により、製作機構は新設の大日本映画製作(後の大映)へ、配給機構は社団法人映画配給社へそれぞれ吸収統合され[10]、日活はもっぱら興行会社として存続した。1943年3月には大日本映画製作への現物出資のため多摩川・京都の両撮影所を閉鎖し[11]、創業以来の製作機能を手放した。この空白が戦後14年間の製作休止につながった。
終戦の1945年11月、社名を日活株式会社[12]に変更して事業再建に着手し、同年12月には堀久作氏が社長に就任した。直営館の大部分を米国映画の専門劇場へ転換する判断が当たり、洋画ファンの増加とともに興行成績は急回復する。1946年に博多日活を買収したのを皮切りに、1947年には京都に7劇場を持つ京都土地興業や明石日活など5社を吸収合併[13]、1948年には梅田キャピトルの買収で大阪へ進出し、1950年7月の立川日活・帝都座の合併まで直営劇場網の全国展開を進めた。1949年5月には東京証券取引所へ株式を上場し[14]、増資による資金調達の道も確保している。
並行して映画以外の収益源づくりも進んだ。1947年に東京・日比谷の米軍資材置き場跡地を買収して日活国際会館の建設を決断し、1950年2月には日本スポーツを吸収合併してスポーツ施設経営へ進出。1953年8月に日活国際会館を吸収合併すると、室数188のホテルと5000坪の賃貸面積を抱える[15]ホテル・不動産会社としての顔も持つに至った。資本面でも上場後は増資と合併を重ね、1953年12月に資本金は15億円へ達した。[16]製作機能を持たない興行会社が、劇場網と不動産という2つの資産で映画製作再開の体力を蓄えた時期にあたる。
1953年9月、調布・多摩川畔に6億円を投じる撮影所建設へ着手し、1954年3月の一部竣工と同時に14年ぶりの映画製作再開[17]を果たした。『東洋一』と称された大撮影所は設備拡張により月8〜9本の製作能力を備え、1955年1月には自社作品による全プログラム配給を開始する。全国の直営館の上映を自社作品へ戻し、配給契約館は1955年7月時点で1500館に達した。[18]配給は週2本の封切体制を整え、沖縄・台湾・東南アジアや南米への配給網の拡充も進めている。戦時統制で奪われた製作・配給・興行の一貫経営をここで取り戻し、営業収入は1955年7月期に22億6000万円を記録した。
1956年に公開した石原慎太郎氏原作『太陽の季節』が[19]、太陽族映画として社会的賛否を巻き起こしながら大ヒットし、石原裕次郎氏がスクリーンに登場した。『狂った果実』『嵐を呼ぶ男』とヒットが続き、1959年の『渡り鳥』シリーズ、1960年の『ダイヤモンド・ライン』結成へとスター中心の量産体制が確立する。製作再開からわずか数年で『現代劇の日活』の地位を築き、1959年1月期には1割3分の復配を実現、以後1962年1月期まで配当を続けた。[20]戦前からの時代劇路線を持つ松竹・東映に対し、現代劇とアクションという独自路線が当たった結果だった。
映画館の観客動員は1950年代末をピークに減少へ転じたが、堀社長は強気を崩さなかった。1959年の登別を皮切りに天城・小倉とホテルを相次いで建設し[21]、1961年6月には株主割当増資と公募で資本金を50億円へ引き上げる。[22]増資は未収入金や売掛金がいずれ回収できるとの見通しを前提としており、映画斜陽化の進行とは逆向きの膨張政策と後に批判された。堀社長は1951年の渡米で、テレビに観客を奪われた米国映画界の惨状を自ら見聞きした経験を持ちながら[23]、帰国後の日本では映画斜陽論を一貫して否定し、映画とテレビの共存を説き続けた。1960年の経済誌での発言には、その論理が凝縮されている。
拡大の裏で財務は悪化していた。1967年の経済誌は、復配の裏に多額の回収不能の未収入金が隠れていたと指摘し、ホテル建設と株式投資への資金投下が14億8700万円に上る赤字につながったと報じている。[24]1962年1月期を最後に配当は途絶え、1964年には丸の内日活の売却で保有不動産の切り売りが始まった。1967年1月には株主総会を前に撮影所幹部の総入れ替えと5部長の自宅待機が断行され、江守清樹郎専務以下の辞任が取り沙汰される内紛へ発展する[25]。売上の8割超を占める映画部門を江守専務に委ね、堀社長は俳優と配役の確認にとどまっていた経営の実態も、このとき表面化した。
1965年前後には松竹が製作本数の4割削減と京都撮影所の閉鎖を打ち出すなど業界全体が縮小へ向かい、日活も不要なロケを減らしてセット撮影で間に合わせる経費節約を進めていた。1968年には会津若松・千葉市原に日活ボーリング・センターを開館するなどレジャー多角化を続けたが[26]、赤字の補填は追いつかず、1970年、日比谷の日活国際会館を三菱地所へ売却するに至る。[27]売却益は赤字の穴埋めに充当され、戦後多角化の象徴だった一等地の資産を手放して映画で生き残る道を選んだ。1947年の土地取得から23年で手放したこの売却を、当時の経済誌は『日活本丸の落城』(週刊東洋経済 1970/05/02)と呼び、映画産業全体の前途を暗示する出来事として総括している。
銀行や周囲の支援者が日活を見放していく過程は、当時の誌面に率直に記録されている。1973年の週刊東洋経済は『倒産は時間の問題といわれながら生きながらえる不思議な日活』[引用元](週刊東洋経済 1973/09/08)と書き[28]、娘婿のために銀行への口添えや土地・建物の買い取り依頼に奔走してきたという新日鐵相談役の藤井氏も、映画への執着を『もう一種の特異体質になっている』[引用元](週刊東洋経済 1973/09/08)と突き放した。[29]1964年の丸の内日活売却時から経営転換を促す忠告は繰り返されていたが、堀社長も労働組合も映画製作の継続にこだわり、転換の機会は失われ続けた。
1971年6月、堀久作氏は『日活も本社ビルや撮影所など不動産を売却して高利の債務を消してきた。だが、消すそばからまた赤字ができる状態だ』[引用元](読売新聞 1971/06/03)と語り社長を退任、1974年に74歳で逝去した。[30]終戦直後の就任から四半世紀、製作再開と裕次郎ブーム、多角化破綻による転落の両方を司った堀体制は、ここで区切りを迎えた。同じ1971年には大映が経営破綻し、松竹・東宝・東映も製作部門の縮小を断行しており[31]、映画各社が生き残りの道を分かつ転換点が同時に訪れていた。堀氏が1951年に米国で目撃したテレビに[32]観客を奪われた劇場の光景は、20年遅れで日本の現実となっていた。
同じ1971年、日活は低コストで一定の集客が見込める成人映画路線『日活ロマンポルノ』に転換した。一般映画からの撤退は延命策そのものであり、以後17年間にわたり経営の支柱となる。1972年には日活小倉ホテルを売却してホテル事業から完全撤退し[33]、1975年には日活芸術学院を開校した。それでも業績は1976年1月期に売上51億5400万円・純損失8億6700万円、1978年1月期にも純損失14億5800万円と赤字基調が続き、資産売却で赤字を埋める構図は堀体制の末期から変わらなかった。映画5社の明暗について、東映の岡田茂社長は1976年にこう総括している。[34]
1978年、日活は再建のための資本再構成へ踏み切る。7月に額面50円・総額60億円の第三者割当増資を実施した後、10月には資本金の7割を消却する減資で110億円を33億円へ圧縮し[35]、12月には1株355円・発行総額71億円の時価発行第三者割当で資金を取り込んだ。1961年以来17年ぶりの資本異動は、累積損失の一掃と再建資金の注入を狙う外科手術であり、同年9月19日には社名を株式会社にっかつに変更している。[36]1980年12月にも発行総額51億円の第三者割当を重ね、資本面の応急措置が続いた。
資本再構成後も業績は安定しなかった。1979年1月期に10億2100万円の純利益を計上して一息ついたものの、1981年1月期は純損失21億5500万円、1983年1月期も純損失18億1300万円と、黒字と20億円規模の赤字が交互に現れる不安定な推移が続いた。黒字の年も1982年1月期5億5000万円、1984年1月期2億2800万円、1985年1月期1億1200万円と利幅は薄く、売上高は1984年1月期85億2600万円、1985年1月期83億400万円と80億円台で頭打ちとなった。成人映画の量産と直営館の興行だけでは、撮影所と劇場網の維持費を賄いきれない収益構造が定着していた。
そのなかで伸びたのがビデオ収入である。1984年1月期に19億6900万円・売上構成の23%だったビデオ収入は、[37]1985年1月期には30億2100万円・構成比36%へ1年で1.5倍に膨らみ、構成比31%の劇場収入と23%の映画配給収入を追い抜いて最大の収益源となった。家庭用ビデオの普及はにっかつに新たな販路を与えた一方で、劇場で成人映画を観るという商売の土台そのものを侵食し、アダルトビデオという代替産業を育てた。自社の売上構成の変化が、そのまま主力路線の寿命を告げる予兆でもあった。
1988年、にっかつはロマンポルノ路線に終止符を打ち、『ロッポニカ』ブランドで一般映画への回帰を図った。だが観客は戻らず、ロッポニカは翌1989年に製作終了となる。以後は1989年の通信衛星事業への参入、1990年の東京・本郷の本社社屋完成と『チャンネルNECO』『レインボーチャンネル』の開局など[38]、映像周辺事業に活路を求めた。劇場用映画で失った収益をビデオと衛星放送で補う構想だったが、レンタルビデオ店の棚を埋めるアダルトビデオ専業メーカーとの競争に晒され、新たな収益の柱は育たなかった。
1993年7月1日、にっかつ本体と[39]、にっかつ撮影所・にっかつビデオなど子会社7社は東京地方裁判所へ会社更生法の適用を申請し、9月30日に更生手続開始決定を受けた。株式は上場廃止となり、1949年5月の上場から44年で資本市場を退場している。[40]1912年創立の日本初の映画トラストは、大手映画5社では大映に次ぐ2社目の経営破綻として、81年の歴史にいったん幕を下ろした。その後はナムコの中村雅哉会長兼社長の経営支援を受けて1996[41]年に更生計画認可と日活株式会社への社名復帰を果たし、2001年に更生手続終結。映像製作会社として現在も調布の撮影所とともに存続[42]している。
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|---|---|---|---|---|
| 1912〜1953年日本初の映画トラスト創立から戦時統制を経た興行・不動産での再建まで | 横田商会・吉沢商店・福宝堂・エム・パテーの4社合同により日本活動写真を創立 | ★★ | ||
| 経営不振により資本金を250万円に減資 | ★ | |||
| 関東大震災により向島の東京撮影所が大将軍撮影所に合流 | ★ | |||
| 初のフィルム式トーキー『ふるさと』を公開 | ★ | |||
| 多摩川(東京・調布)に鉄筋コンクリート造のトーキー撮影所を新設 | ★ | |||
| 戦時統制により製作部門を大日本映画製作(後の大映)へ配給部門を映画配給社へ移譲 | ★★ | |||
| 社名を日活に変更し事業再建に着手 | ★ | |||
| 堀久作 | 堀久作氏が社長に就任 | ★ | ||
| 堀久作 | 東京・日比谷の米軍資材置き場跡地を買収し日活国際会館の建設を決断 | ★★ | ||
| 堀久作 | 東京証券取引所に株式を上場 | ★ | ||
| 堀久作 | 日活国際会館を吸収合併しホテル・不動産事業を本格化 | ★ | ||
| 1954〜1970年撮影所再建による製作再開から裕次郎ブームと多角化破綻への転落 | 堀久作 | 調布・多摩川畔の日活撮影所が一部竣工し14年ぶりに映画製作を再開 | ★★ | |
| 堀久作 | 自社作品による全プログラム配給を開始 | ★ | ||
| 堀久作 | 石原慎太郎原作『太陽の季節』を公開し石原裕次郎がデビュー | ★ | ||
| 堀久作 | 1959年1月期に1割3分を復配 | ★ | ||
| 堀久作 | 主演スターを軸とする「ダイヤモンド・ライン」「パール・ライン」を結成 | ★ | ||
| 堀久作 | 堀久作社長の映画斜陽論否定とホテル・不動産・株式への多角化拡大 映画斜陽論を否定した堀社長が、裕次郎ブームで得た体力を映画製作の再開とホテル・不動産・株式へ投じ続け、業績転落後は資産の切り売りで損益を繕った拡大路線 詳細を読む | ★★★ | ||
| 堀久作 | 1962年1月期を最後に配当が途絶 | ★ | ||
| 堀久作 | 丸の内日活を売却 | ★ | ||
| 堀久作 | 株主総会を前に撮影所幹部を総入れ替え | ★ | ||
| 堀久作 | 会津若松・千葉市原に「日活ボーリング・センター」を開館 | ★ | ||
| 堀久作 | 日活国際会館を三菱地所へ売却 | ★ | ||
| 1971〜1993年ロマンポルノによる延命とビデオの奔流に呑まれた倒産 | 堀久作 | 「日活ロマンポルノ」第1作を公開 | ★★ | |
| 日活小倉ホテルを売却しホテル事業から完全撤退 | ★ | |||
| 第三者割当増資と減資による資本再構成を実施 | ★★ | |||
| 社名をにっかつに変更 | ★ | |||
| ビデオ収入が売上構成の36%に達し配給・劇場収入を上回る | ★ | |||
| ロマンポルノ路線に終止符を打ち「ロッポニカ」ブランドで一般映画へ路線転換 | ★★ | |||
| 日活撮影所内に通信衛星事業用地球局を開設し通信事業に参入 | ★ | |||
| 本社社屋が完成 | ★ | |||
| 「チャンネルNECO」「レインボーチャンネル」を開局 | ★ | |||
| ゴルフ場3カ所への80億円投資の行き詰まりと、会社更生法の適用申請 1993年7月1日、にっかつが東京地裁に会社更生法の適用を申請し、事実上倒産した。ロマンポルノの衰退後に次代の柱として据えた通信衛星とゴルフ場のうち、3カ所へ総額約80億円を投じたゴルフ場開発が行き詰まり、資金繰りが破綻した。若松正雄社長は申請と同時に社長を辞した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 更生計画認可が決定し社名を日活に復帰 | ★ | |||
| ナムコから資本を受け入れ同社の子会社に | ★★ | |||
| 東京地裁で更生手続終結が決定 | ★ | |||
| インデックスの子会社に | ★ | |||
| 株式異動により日本テレビ放送網が筆頭株主に | ★ |
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事実根拠:出所(日活)