東宝不動産活用委員会の設置と、劇場を「不動産」として運用する体制への移行

映画が斜陽へ向かうなか、清水雅社長はなぜ興行会社を家賃で回る会社へ組み替えたか

時期 1958年5月
意思決定者(推定) 清水雅 社長
論点 興行から不動産へ収益の柱を移す構造転換
概要
1958年5月1日、東宝は本社に不動産活用委員会を設置した。劇場の内部・屋上・壁面から遊休の空間までを収益源として洗い直し、総合ビルの建設と関係会社の整備を進める常設機関で、清水雅社長の構想によるものであった。映画の斜陽が語られる時期に、興行会社の収益基盤を家賃収入へと組み替えていく出発点の判断であった。
背景
テレビの普及で映画観客が減り始め、他の映画各社が製作費の競争へ向かうなか、東宝は創業者・小林一三氏が阪急電鉄・阪急百貨店で組み上げた不動産一体運用の遺産を受け継いでいた。直営館は優良で家賃を生む資産でもあり、その価値をどう伸ばすかが経営の焦点になっていた。
内容
馬淵威雄専務を委員長に、劇場の空間を再開発して喫茶店・売店・駐車場などの事業場を造成する一方、他企業のオフィスを主テナントとする本格的な総合ビルの建設に着手した。1963年の東宝仙台ビルを皮切りに、有楽・梅田・国際ビルヂングと続き、売店・興行・娯楽の関係会社群を相次いで設立した。
含意
家賃収入が興行の変動を吸収する二階建ての収益構造が固まり、1962年には半期利益を家賃だけでまかなえるとまで評された。1987年の東宝日比谷ビルへ続く再開発の連なりを生み、今日も不動産事業が連結営業利益の二割前後を安定して稼ぐ土台となっている。
筆者の見解

持っている資産を測り直すという経営

この判断を単なる多角化と呼ぶと、芯を取り逃す。東宝がしたのは新しい事業への進出ではなく、すでに手にしていた劇場という資産を、上映のための建物から賃貸の床へと読み替えることであった。清水雅社長は階段も壁も空間も最大限に活用するという一点を方針に据え、不動産活用委員会という常設機関でそれを制度化した。斜陽が語られるなかで守りに入らず、手持ちの資産の値打ちを測り直した点に、この転換の性格がうかがえる。

もっとも、これを先見の明と讃えるのは、後の映画不況を知っているからにすぎない。当時の東宝は優良な直営館と、阪急沿線モデルという継ぐべき型を初めから持っていた。清水式高度利用法は無から生んだ発想ではなく、小林一三氏が残した資産と型を引き伸ばした継承だとみられる。それでも、創業者の資産観を制度に落とし込み、松岡功社長を経て今日の不動産事業まで三十年、六十年と絶やさなかったこと――続ける判断を重ねられたことにこそ、この会社の強さがあるといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

映画の斜陽と、優良な直営館という資産

1950年代の後半は、テレビの普及によって映画の観客動員が頭打ちへ向かう転機であった。松竹・大映・日活・東映が製作費と専属スターの競争へ資源を注ぐなかで、東宝の直営館は数こそ松竹と競り合う水準だったが、館の粒がそろい、一館あたりの収益力で勝っていた。この優良な劇場網を、映画の興行成績とは別の軸でどう伸ばすかが、斜陽論のなかで経営の課題として立ち上がっていた[1]

小林一三氏はこの時期すでに、東宝を興行会社としてより不動産会社として見ていた。全国の映画館を含む所有財産の帳簿価額は50億円ほどでも、日劇一館の売却価値だけで100万ドルは下らないと語り、資産の含み益こそ会社の芯だと捉えていた。劇場を上映の場としてだけでなく、都心の一等地に立つ不動産として運用する発想は、創業者の資産観のなかにすでにあった[2]

阪急沿線モデルという型

東宝の不動産志向は、清水雅社長個人の着想である前に、創業者から受け継いだ経営の型であった。小林一三氏は阪急電鉄で沿線に住宅地を開発し、ターミナルに百貨店を置き、宝塚に劇場を構えて、鉄道・不動産・興行を一体で回す仕組みを組み上げていた。その門下で育った清水社長は、劇場経営を百貨店や不動産の合理的経営という面から捉え直し、東宝の資産にこの型を移植しようとしていた[3]

そもそも東宝の出発点からして、土地を見立てる判断であった。1932年に東京宝塚劇場を興したとき、小林一三氏が選んだ丸の内は、邦楽座と帝国劇場があるだけで興行界から忘れられていた一角であった。そこへ日劇・東宝・日比谷映画・有楽座を建て並べ、浅草や新宿に対抗する娯楽の中心地を出現させた。当時の雑誌はこれを松竹の本丸への奇襲と評している。忘れられた土地を買い、建物を建てて街の人の流れごと変えるという手法は、創業の時点ですでに試されていた[4]

決断

1958年、不動産活用委員会の常設化

1958年5月1日、東宝は本社に不動産活用委員会を設けた。清水雅社長の構想により、不動産の活用とそれに伴う諸事業を拡充するための開発研究・実行企画を立案する常設機関で、馬淵威雄専務を委員長に、関係役員と部長を構成メンバーとして発足した。従来から個別に行ってきた劇場内の売店や食堂の運営を、会社の方針として一段引き上げ、遊休空間の再開発を組織的に進める体制がここで整った[5]

委員会の方針は、劇場の内部にとどまらず、屋上・壁面・周辺の空間まで残さず生かすことにあった。日本劇場の屋上に掲げた東芝のネオン広告をはじめ、退蔵されていた空間を発見して喫茶店・スタンド・売店・駐車場を次々に配し、あるいは第三者へ賃貸して収益をあげた。劇場という建物を、上映という一つの用途に閉じ込めず、複数の収益源が重なる不動産として使い切る発想が、ここで方法として確立した[6]

「清水式高度利用法」と総合ビルへの展開

この運用は当時「清水式高度利用法」と呼ばれた。利用価値のある建物なら階段も壁も空間も最大限に使い切るという徹底ぶりで、遊休スペースの収益化にとどまらず、他企業のオフィスを主テナントに据えた本格的な総合ビルの建設へと進んだ。数館の劇場と貸店舗で構成する従来のビルとは異なり、劇場や事業場を内包しつつオフィス賃貸を柱とする建物へ、東宝の不動産は質を変えていった[7][8]

総合ビルの第一号は、1963年3月に竣工した東宝仙台ビルであった。地上八階・地下二階に食堂街・貸事務所・劇場を積み重ね、以後、東宝有楽ビル、東宝梅田ビル、そして三菱地所との区分所有で建てた国際ビルヂング・帝国劇場へと続いた。並行して東宝売店・名宝事業・東宝娯楽センターなどの関係会社を相次いで設け、賃貸と各種事業を担わせて、不動産を軸とする事業群を面として広げていった[9][10]

結果

家賃が興行を支える二階建ての構造

1960年代に入ると、この転換は数字に表れた。映画界が斜陽に沈むなか東宝だけが余裕のある経営を続けた理由を、当時のダイヤモンドは家賃収入主体の収益構造に見た。月あたり1億円近い不動産収入の大半が利益となり、半期の計上利益5〜6億円を家賃だけでまかなえる、映画や劇場がどうあろうとびくともしない、と評された。興行の当たり外れに左右されない土台が、不動産の側にできあがっていた[11]

1970年代には、東宝はいっそう不動産へ傾いた。所有するビルは全国で13に達し、映画会社のビルでありながら映画館は二階までに抑え、総面積の七、八割を名店街や食堂、ボウリングなどのテナントに割り当てた。土地建物の賃貸収入は全収入の一割を超え、当時の報道は「"脱映画"へまっしぐら」と見出しを打った。劇場を建てる目的そのものが、映画を映すためから床を貸すためへと移っていた[12]

日比谷再開発から今日のディベロッパー的収益へ

委員会の設置から30年を経ても、この方法は受け継がれていた。1987年、松岡功社長は旧日比谷映画劇場・有楽座の跡地に東宝日比谷ビルを建て、旧日劇跡の有楽町マリオンに続く大規模再開発を進めた。劇場のビルは吹き抜けを多くとって容積率を使い切っていない、これを効率のよいビルに建てかえていく――その語り口は、空間を余さず使うという清水式高度利用法の思想を、そのまま引き写したものであった[13]

この体質は今日まで続いている。松岡功社長へのインタビューでは、聞き手が「映画会社の社長というより、不動産会社の経営者にインタビューしているかのような錯覚に陥る」と述べ、当時の売上659億円・利益33億円の安定は一等地の不動産収入が大きく寄与した結果だと囲みは記した。2025年2月期の連結でも、不動産事業は営業利益168億円と全社の二割前後を安定して稼ぎ、興行の変動を吸収する土台であり続けている[14][15]

出典・参考

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