東宝1,200名の人員整理と撮影所の一時閉鎖
組合が製作現場を握るなか、渡辺鉄蔵社長はなぜ流血の警告を受けても整理を撤回しなかったか
- 概要
- 1948年4月、東宝は1,200名に及ぶ人員の整理と撮影所の一時閉鎖を発表した。六代目社長の渡辺鉄蔵氏はこれを「起死回生のために止むを得ず行った大手術」と公表した。発表は第三次東宝争議の引き金となり、同年8月には撮影所へ武装警官と米軍が出動する事態にまで至った。
- 背景
- 1945年12月に撮影所で生まれた東宝従業員組合は日本映画演劇労働組合の中枢へ発展し、1946年3月には短期間の経営管理、同年10月からは三ヵ月に及ぶ大罷業が続いた。在籍者は6,400名規模に膨れ、1948年1月までに資本金4,000万円の倍額にあたる赤字が積み上がっていた。
- 内容
- 会社は共産党員を含む1,200名を整理の対象とし、あわせて撮影所を一時閉鎖する方針を示した。組合側の俳優・浅田健三氏は流血と殺害の事態を挙げて渡辺社長に翻意を迫ったが、整理は撤回されなかった。争議は同年10月、日映演幹部の退社によって収束した。
- 含意
- 在籍者は1949年2月に4,069名、1952年2月には1,940名まで減った。自主製作を手放した東宝は配給作品を新東宝への委託に頼り、その新東宝が自主配給へ転じたことで配給業務は打撃を受けた。1950年に就いた小林富佐雄社長の興行重点主義は、後の不動産活用へ続く出発点となった。
現場を取り戻して、作る力を失う
この整理を過剰人員の削減という言葉で括ると、芯を外す。東宝が取り戻そうとしたのは人件費ではなく、撮影所の主導権であった。1946年3月の経営管理から三ヵ月の大罷業まで、映画を撮る現場を動かしていたのは組合の側であり、公職追放で現業役員13名が抜けた経営には、それを押し返す手が残っていなかった。1,200名の整理と撮影所の閉鎖を同時に出したのは、人を減らす手続きというより、現場を一度空にして握り直す手であったとみられる。
もっとも、握り直した現場で東宝が映画を撮れるようになったわけではない。1949年3月から配給作品はすべて新東宝への委託となり、その新東宝が自主配給へ転じた1950年3月には配給業務まで打撃を受けた。渡辺鉄蔵社長自身も1949年9月に辞任している。経営が空白のまま赤字だけが積む会社で現場を回してきた組合の側にも、理はあった。争議に勝った会社が作る力を失い、興行と劇場へ軸を移していった経緯は、力で決着させた判断の代価がどこに出るかを示している。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
撮影所を握った組合と、三年続いた対立
終戦の年の暮れ、東宝の撮影所に東宝従業員組合が生まれた。組合は短い期間で日本映画演劇労働組合の中枢へ育ち、1946年3月には一時的に経営管理を敢行、同年10月からは三ヵ月にわたる大罷業に入った。映画を撮る現場の主導権が、会社ではなく組合の側に移っていた時期であった。会社側はこの三年間を、後年みずから共産党との悪戦苦闘の歴史と記している[1]。
対立は組合と会社のあいだだけで進んだのではなく、撮影所の内側にも走った。1946年秋の罷業をめぐって、大河内伝次郎氏・長谷川一夫氏ら「十人の旗の会」が指導方針を批判する声明を出し、これを機に四百余名が組合を脱退して別組合をつくった。翌1947年3月、この人々を集めた新東宝映画製作所が発足する。製作の担い手は、整理の発表を待たずにすでに二つに割れていた[2]。
膨れた在籍者と、資本金の倍額に及ぶ赤字
抱える人の数は戦中の水準のまま残っていた。東宝の在籍者は終戦直後に6,000名を超え、1948年初頭には6,406名に達している。しかも経営の側は手薄であった。1947年に文化関係の公職追放が起こり、田辺加多丸氏を残して現業役員13名が復帰を期して辞任したと、当時相談役として関わった山本為三郎氏は書き残している。現場を統べる役員が抜けた状態が続いていた[3][4]。
収支はその間に崩れていた。1948年1月までに、当時の資本金4,000万円の倍額に及ぶ赤字が積み上がっている。1948年1月期は収入総額8.82億円に対し当期損失0.24億円、翌1949年1月期も収入総額17.06億円に対し当期損失0.39億円と、赤字は二期続いた。作品を撮れない撮影所を抱えたまま人件費だけが出ていく構造が、財務の面から経営を追い詰めていた[5][6]。
決断
1948年4月、整理と撮影所閉鎖の発表
1948年4月、東宝は1,200名に及ぶ整理と、撮影所の一時的な閉鎖を発表した。社内の体制がようやく整ったとみた経営の判断であった。渡辺鉄蔵社長はこれを「東宝として起死回生のために止むを得ず行った大手術である」と説明し、あわせて「一部の非協力者、反抗分子を退職させた」と述べている。人を減らすだけでなく、撮影所そのものを止める点に、この決定の性格が表れていた[7][8]。
発表は社会の関心を集めた。読売新聞は「東宝、首切りを断行」の見出しを立て、今回のような大量首切りは戦後に労働組合が発足して以来ほとんど前例がなく、舞台が映画界であるだけに社会の関心も大きいと報じている。整理の対象には撮影所の共産党員が含まれ、名の知られた俳優が争議の前面に立つことになる。俳優や監督の顔と名前が世間に通っていたことが、一企業の人員整理を全国の関心事へ押し上げていた[9]。
流血の警告と、撤回されなかった整理
撤回を求める圧力は、正面から渡辺社長に向けられた。組合員であった俳優の浅田健三氏は「これを本気でしようとすれば、撮影所内は大混乱になるばかりでなしに、全国の産別が立って社長を攻撃する。そして流血事件が起こるばかりでなしに、殺害事件が起こるだろう、それでもやるか[10]」と社長に迫ったと、渡辺氏自身が後年の回想で記している。それでも整理は撤回されなかった。
当時の報道は、この整理を人員の過不足という次元では捉えていなかった。1948年4月20日付の読売新聞は「東宝の首切り事件は共産党員を情報機関から追放するための一つの動きである」とし、極右を追放してきたのと同じように極左も追放するのが当然であって、東宝のやり方は正しいと論じた。冷戦の初期という時代の空気のなかで、一企業の労務問題が思想の問題として読まれていた[11]。
結果
頂点に達した争議と、半減した在籍者
発表を機に再び大罷業が起こり、争議は同年8月に頂点へ達した。撮影所には武装警官が入り、米軍までが出動する事態となった。収束したのは10月で、日本映画演劇労働組合の幹部が退社したことで幕が引かれた。発表から決着までに半年を要している。撮影所を止め、警察力と占領軍の力を借りて決着させた点で、労使の交渉というより力による決着に近い終わり方であった[12]。
人の数はこの一年で大きく落ちた。1948年初頭に6,406名であった在籍者は、1949年2月に4,069名まで減り、その後も戻らなかった。1950年2月は3,624名、1951年2月には2,398名、1952年2月には1,940名の底をつけている。四年で三分の一以下という縮小であった。戦中から終戦直後にかけて抱えた雇用の規模へ、東宝が再び戻ることはなかった[13]。
製作の外部化から、興行重点主義へ
撮影所を止めた代償は、翌年から表に出た。1949年3月以降、東宝は配給する作品をすべて新東宝へ委託して製作させる体制に移る。だが新東宝は完全独立の方針を掲げており、委託契約は円満には運ばなかった。争議の場となった撮影所は自主製作の場へ戻らず、東宝は自社で作品を撮らない映画会社となった。自主製作を手放したまま赤字は積み増され、六代目社長の渡辺鉄蔵氏は1949年9月に辞任、前会長の米本卯吉氏が後を継いだ[14]。
1950年3月、新東宝が作品の自主配給を始めたことで、東宝の配給業務は壊滅的な打撃を受けた。同年9月に社長へ就いた小林富佐雄氏は、興行を柱に据える再建方針を掲げ、高利の債務と赤字部門の整理に着手する。製作の規模を絞り、劇場と興行を軸に会社を立て直す型がここで定まった。八年後に清水雅社長が不動産活用委員会を設ける下地は、この時期に敷かれたとみることができる[15][16]。
- 読売新聞 1948年4月17日「東宝、首切りを断行」
- 読売新聞 1948年4月20日「東宝問題」
- 経済時代 1958年12月号「東宝争議の真相はこうだった・渡辺鉄蔵」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「興行娯楽・東宝」「興行娯楽・新東宝」
- 私の履歴書 経済人2「山本為三郎」(日本経済新聞社, 1980)
- 東宝 東宝五十年史(東宝, 1982)