この整理を過剰人員の削減という言葉で括ると、芯を外す。東宝が取り戻そうとしたのは人件費ではなく、撮影所の主導権であった。1946年3月の経営管理から三ヵ月の大罷業まで、映画を撮る現場を動かしていたのは組合の側であり、公職追放で現業役員13名が抜けた経営には、それを押し返す手が残っていなかった。1,200名の整理と撮影所の閉鎖を同時に出したのは、人を減らす手続きというより、現場を一度空にして握り直す手であったと推察される。
もっとも、握り直した現場で東宝が映画を撮れるようになったわけではない。1949年3月から配給作品はすべて新東宝への委託となり、その新東宝が自主配給へ転じた1950年3月には配給業務まで打撃を受けた。渡辺鉄蔵社長自身も1949年9月に辞任している。経営が空白のまま赤字だけが積む会社で現場を回してきた組合の側にも、理はあった。争議に勝った会社が作る力を失い、興行と劇場へ軸を移していった経緯は、力で決着させた判断の代価がどこに出るかを示している。