大丸人員整理によらない事業の存廃決定と、非百貨店部門の分離独立
人を切るか、事業を切るか——戦後の過剰人員をめぐる北沢敬二郎氏の処理
- 概要
- 1950年4月に大丸の社長へ就いた北沢敬二郎氏が、終戦後に膨らんだ人員を人員整理で処理せず、戦後に手を広げた業態の違う事業の存廃を一つずつ決め、残す事業はそれぞれ別の独立会社として切り出した経営判断。北沢氏は後年これを「人の整理より会社の整理を優先した」と記している。
- 背景
- 戦時中に中国から東南アジアへ広げた支店網を終戦で失い、外地勤務者の帰国と応召者の復員で中堅層が過大になった。里見純吉社長は人員整理を避け、水産物や青果物の荷受機関のような不慣れな分野にまで手をつけて全員を抱えたため、欠損が出て経理状態が悪化していた。
- 内容
- 社長就任後、業態の違う多数の事業について存廃を決定し、残した事業はそれぞれ独立の傍系会社に改めた。1947年から食糧集荷にあたってきた水産部・青果部と、家具製作所の後身である木材工業部を分離し、京阪神三店舗による百貨店業へ戻した。分離にあたっては整理者が出ないよう配置を調整している。
- 含意
- 物資が出回り始めた本業の百貨店は業績が好転し、資本金も1948年7月の8,000万円から1950年8月に1億8,000万円へ増えた。ただし中堅層の過剰そのものは解けず、北沢氏は「経営上のネック」と呼んで、新しく大きな事業場をつくって転出させるほかないと考えた。
順序を先に決めた整理
人員に手をつけないという前提を先に置き、そのうえで何を残すかを決めた。順序はそこで決まっていた。戦後の欠損は、慣れない事業を抱えたことから生じていた。ふつうに考えれば、慣れない事業をやめて人も減らせば欠損は止まる。北沢敬二郎氏はその二つを切り離し、事業だけを止めて、人は分離先の独立会社へ移した。住友本社の解体で同僚が浪人するのを見てきた人物が雇用を先に置いたことは、大丸入りを一度辞退した理由と地続きであるとみられる。
ただ、この方法で解けたのは欠損の側だけであった。中堅層の過剰は依然解消されていないと北沢氏自身が書いており、水産部や木材工業部を独立会社に切り出しても、百貨店本体の従業員構成は動かなかった。1951年8月期の従業員1人当たり売上高が全国平均をわずかに上回る程度にとどまったのも、その延長にある。人を切らずに済ませた判断は、人の問題を先へ送る判断でもあった。その解決を、北沢氏は新しい大事業場に求めた。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
全員を抱えた終戦
大丸は1924年5月以降、販路を大陸に求めて朝鮮・満州・中国へ進み、さらにシンガポールやラングーンにまで20余の支店と出張所を置いていた。終戦はその全部を一度に失わせた。外地勤務者が帰国し、応召していた社員が復員すると、店に残る人員の構成は中堅層だけが厚い形にゆがんだ。売場のほうは逆に減っていた。1945年3月の空襲で大阪本店は5階以上を焼き、同年5月には神戸別館を失っている[1][2]。
里見純吉社長は、この人員を整理しなかった。北沢敬二郎氏は後年、里見氏を人道主義者と呼び、種々のなれない事業に手をつけてまで全員を収容した、と書いている。木材工業や食品工業に加え、鮮魚加工水産物や青果物の荷受機関という、呉服から続いた店の商いとは縁の薄い分野まで開拓した。雇用は守られた。ただ、慣れない商売はそれぞれに欠損を出し、会社全体の経理状態を押し下げた[3][4]。
特別経理会社の指定と、外から来た後継者
1946年8月の中ごろ、里見純吉社長は大阪の北沢敬二郎氏を自宅に訪ね、あいさつがすむといきなり「あなたは百貨店をどう思われるか」と尋ねた。北沢氏は住友本社の解体で職を失い、浪人していた。同年10月に予定していた白木屋との合併の後、副社長として助けてほしいという申し出に、北沢氏は一度辞退している。住友の同僚の多くが職を離れているときに、自分だけ民間の会社で楽になるのは良心が許さない、という理由であった[5][6]。
翻意させたのは、住友時代の上司であった古田俊之助氏である。住友の元役員が浪人していると財閥復活でも画策しているように疑われて損だ、と古田氏は説いた。ところが1946年10月、合併総会が開かれる当日の朝に、大蔵省から「合併まかりならぬ」との通達が届く。戦争で財産を外国に残し、戦時保険金も受け取っていないことを理由に、大丸が特別経理会社へ指定されたためであった。合併は流れ、北沢氏は翌1947年2月、まず顧問として大丸に入った[7][8][9]。
決断
人の整理より会社の整理
1950年3月のある日、里見純吉社長は病をおして出社し、北沢敬二郎氏を呼んだ。会長の森八郎氏と自分が翌月の総会で引退するので、社長を引き受けてほしいという話である。北沢氏は「新参の私ひとりでは大丸の信用を保持することはとうていむずかしい」として、里見氏が代表権のある会長として残ることを条件に受けた。顧問から取締役、副社長を経て、社長就任は1950年4月であった[10][11]。
顧問として入ってからの三年余、北沢氏は大丸の業績を自分なりに分析していた。経営には無理な点があり、経理状態はしだいに悪化していた。そのうえで社長になった北沢氏が採ったのは、人員に手をつけない道である。数多くの業態の違う事業について存廃を決め、残したものはそれぞれ別の独立会社にし、その際に整理者が出ないよう配置を調整した。北沢氏はこの順序を「私は人の整理より会社の整理を優先した」と記している[12][13]。
分離独立という手続き
切り離しそのものは、社長就任の前から始まっていた。1948年8月に総合商社部門が大丸興業株式会社として分離独立し、翌1949年10月には経営合理化の一環として商事部を廃止している。北沢氏はこの線を継いだ。1947年から食糧集荷にあたってきた水産部と青果部、家具製作所の後身である木材工業部を分離し、それぞれ独立の傍系会社に改めて、京阪神三店舗による百貨店業へ戻した[14][15][16]。
切り分けが一巡した1955年の時点で、大丸のまわりには大丸青果、大丸興業、大丸木工、中津木工、日本セリヨン繊維、大丸出版印刷、大丸食品工業、東陽衣料という製造卸売の関係会社8社が並んでいた。人を減らさずに事業をやめるには、やめた先で人を抱える会社がなければならない。事業の存廃を決めながら整理者を出さない調整とは、この受け皿をあらかじめ用意する作業でもあったとみられる[17]。
結果
百貨店に戻った本業
事業を切り分けている間に、本業のほうが動きだした。衣料をはじめ消費物資の出回りが潤沢になり、統制も順次緩められて、百貨店の復興が緒についた。北沢敬二郎氏は「本業の百貨店の方は物資が出回り始め、業績は好転してきた」と振り返っている。大丸の売上高は1950年8月期の38億6,157万円から、1951年2月期には54億1,248万円へ伸びた。半期ごとの決算でみて、一期で4割の増収である[18][19][20]。
資本の裏づけも順に整えられた。資本構成を是正するため1948年7月に8,000万円とした資本金は、運転資金と設備資金を賄うために1950年8月に1億8,000万円となり、1951年12月には再評価積立金の一部を組み入れて3億6,000万円になった。1951年11月には東京証券取引所へ株式を上場している。1951年1月から7月までの売上高で比べると、大丸は三越、高島屋、松坂屋に次ぐ第4位につけていた[21][22][23]。
解けなかった中堅層の過剰
それでも、整理の出発点にあった問題は残った。北沢敬二郎氏は「経営上のネックである中堅層の過剰は、依然解消されていない」と書いている。もともとの偏りは、外地からの帰国者と応召者の復員が同じ時期に重なって生じていた。事業を分けて独立会社にする方法では、人の置き場所は増えても、百貨店本体の従業員構成のゆがみそのものは動かない。会社の整理は欠損の源を断つことに効いた。人の側の課題は、そのまま先へ送られた[24]。
数字にも跡が残っている。大丸の従業員1人当たり月平均売上高は1950年8月期に14万9,000円、1951年8月期に21万5,000円で、同じ期の全国百貨店平均19万6,000円をわずかに上回る水準にとどまった。売場1坪当たりの売上高では三越を上回りながら、販売員1人当たりでは三越に及ばない。北沢氏は、この過剰を解くには大きな事業場を新しくつくって人を転出させるほかないと考えた。その先に東京進出があった[25]。
- 北沢敬二郎「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人9』日本経済新聞社, 1980 所収)
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955)「大丸」
- 『会社銀行八十年史』(東洋経済新報社, 1955)「百貨店」概説
- 証券 新規上場会社紹介(1952年)「株式会社大丸」
- 大丸 有価証券報告書【沿革】