人員に手をつけないという前提を先に置き、そのうえで何を残すかを決めた。順序はそこで決まっていた。戦後の欠損は、慣れない事業を抱えたことから生じていた。ふつうに考えれば、慣れない事業をやめて人も減らせば欠損は止まる。北沢敬二郎氏はその二つを切り離し、事業だけを止めて、人は分離先の独立会社へ移した。住友本社の解体で同僚が浪人するのを見てきた人物が雇用を先に置いたことは、大丸入りを一度辞退した理由と地続きであると推察される。
水産部や木材工業部を独立した会社として切り離しても、百貨店本体の従業員構成は変わらなかった。この手で片づいたのは欠損のほうだけで、中堅層がだぶついた状態はなお残っていると、北沢氏は自ら書き記している。1951年8月期の従業員1人当たり売上高が全国平均をやや上回るにとどまったことも、同じ流れの上にある。人員を削らない選択は人の問題の先送りでもあり、北沢氏はその解決を新たな大事業場で図ろうとした。