大丸売上至上主義から利益第一主義への転換と、海外百貨店からの撤退・売場業務の再設計

量を追うか、質を先に直すか——1717年創業の老舗が10年かけた百貨店本業の再構築

時期 1999年4月
意思決定者(推定) 奥田務 大丸 社長(1997年3月就任・2003年から会長兼CEO)
論点 百貨店本業の再構築と利益指標への転換
概要
1997年3月に大丸社長へ就いた奥田務氏が、2007年までの10年をかけて進めた構造改革。海外百貨店からの撤退と国内3店舗の閉鎖、希望退職746人で身を軽くしたうえで、売場業務の分類と本部一括仕入れ、職務成果給への移行によって百貨店本業を組み替えた。売上高ではなく利益を経営の物差しに据え直した判断である。
背景
1990年代の百貨店はバブル期の出店負担と消費不況を抱え、全国売上高の前年割れが続いていた。大丸は社員約7,000人の半数が管理職・準管理職という高コスト構造を残し、営業利益は大手百貨店のなかで下位にとどまっていた。香港などの海外店は1990年から赤字であった。
内容
香港・タイ・フランスの百貨店から撤退して約140億円の損失を計上し、和歌山店など国内3店舗を閉じ、商事・装工部門を本体から切り離した。1999年4月の中期経営計画では2001年度の単体売上高を4,100億円と低く置き、営業利益80億円・粗利益率28.0%を掲げた。営業改革では全売場を4種類に分け、2005年3月にバイヤーを本部へ集約した。
含意
2007年2月期の連結営業利益は346億円まで伸び、営業利益率は大丸4.1%に対し松坂屋2.1%であった。奥田氏は「量の拡大の前に質の充実」と述べ、質の改革を済ませたことが松坂屋との統合へ進む条件になったと説明した。一方で本人は「改革は自分が望んでいる6割か7割しか行っていない」とも語っている。
筆者の見解

物差しを取り替えるということ

奥田務氏が最初に外したのは、売上高という物差しであった。中期経営計画で2001年度の単体売上高を4,100億円と当時の実績より低く置き、収益性の低い催事と値引きを削って売上を自ら落としにいった。売場面積と売上高で序列を語ってきた業界において、順位が下がる前提の計画を掲げるのは、老舗の看板を背負う社長にとって容易ではなかったとみられる。社内の反発を「ないといえばウソになります」と認めながら進めたところに、この改革の芯があったといえる。

ただ、物差しの取り替えが現場の隅まで届いたわけではない。取引先主体の売場は期初予算の2割しか埋まらず、本部一括仕入れから逆戻りした取引先も出た。正価販売は5期続けて前年を割っている。札幌店が実証したのは、白地図に描けば人件費率3.9%と7%台という開きが生まれるという事実であって、過去の財産を抱えた古い店へ同じ形を移す手順ではなかった。質を先に直したから量へ進めたという説明と、質の改革が6割か7割で止まったという自己採点は、同じ10年の表と裏にあたる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

下位に沈んだ老舗

1717年創業の大丸は、1990年代後半には大手百貨店のなかで下位に沈んでいた。週刊東洋経済は当時を「松坂屋に次ぐ営業利益しかなく」と書いている。その大丸の社長に、1997年3月、奥田務氏が就いた。創業家の下村正太郎会長からの交代であった。奥田氏は1939年に三重県で生まれ、1964年に慶應義塾大学を出て大丸へ入り、1974年に社費で米国の大学へ留学したのち、ブルーミングデール百貨店で研修を受けている[1][2]

業界の環境も苦しかった。全国百貨店の売上高はバブル崩壊後の1991年から5年続けて前年を割り、1996年にいったん1.8%増へ戻したものの、1997年から再び落ちた。バブル期に決めた大型店の出店計画が消費不況のなかで重荷になり、三越は子会社のゴルフ場開発に絡んで1997年度に446億円の損失を出している。多角化のつけが各社の財務に表面化した時期にあたる[3]

社員の半分が管理職だった構造

大丸自身の重さは、人の置き場所に表れていた。奥田氏によれば、社員約7,000人のうち半分の約3,500人が管理職・準管理職で、「管理職におカネをとられて、販売員や外商係員に回らない嫌いがありました」という状態であった。粗利益率は1998年8月中間期で26.3%にとどまり、まず28%へ引き上げることが当面の目標に置かれた。売場に人を戻すことが、そのまま収益の課題でもあった[4]

顧客調査の結果も、老舗の看板が万能でないことを示していた。「伝統がある」「一流のイメージ」「サービスがよい」といった項目で大丸の評価は高い一方、「買い物が楽しい」「ファッションに強い」「親しみを感じる」では若い女性を中心に低かった。奥田氏はこれを踏まえ、重点対象顧客を20代と50代の女性へ絞る方針を示した。信頼だけでは客が来ないという診断が、改革の前提に置かれた[5]

決断

何を捨てたか

就任の翌年から、奥田氏は手放す側の作業に入った。香港・タイ・フランスの海外百貨店から撤退し、直営の和歌山店を閉じ、商事部門と装工部門を大丸本体から切り離した。香港店は1960年の出店で、地代と人件費の高騰から1990年に赤字へ転落しており、撤退に伴う損失は香港分だけで約70億円、海外3事業を合わせると約140億円に達した[6][7]

1998年12月30日には希望退職746人が退職した。奥田氏はこれで浮く人件費の何割かを第一線へ回すと述べ、ラインを細くして販売員を増やし、成績に見合う報酬を出す、「売る人が一番偉いんだ」という制度にすると語っている。老舗の社風からの反発を問われると、「それはないといえばウソになります」と認めたうえで、「かなりドラスチックな改革をしないと生き残れません」と続けた[8][9]

売上高を低く置いた中期経営計画

1999年4月26日の会社説明会で、奥田氏は1999年度から2001年度までの中期経営計画を示した。最終年度の単体目標は売上高4,100億円、営業利益80億円、経常利益75億円、粗利益率28.0%、営業利益率2.0%である。売上高を低く置いた理由として、商務・装工両事業部の切り離しと和歌山店閉鎖に加え、「徹底した利益志向と効率経営の追求を目指したこと」を挙げた。目標に売上の伸びを書かない計画であった[10][11]

半年後の説明会で、奥田氏はこの年を「売上至上主義」から徹底した「利益第一主義」へ経営方針を大きく転換した記念すべき年と呼んだ。催事の廃止や値引きの縮小で心斎橋店と東京店の売上は落ちたが、利益主義への過渡期には避けて通れないと説明している。1999年8月中間期の営業利益は前年同期の3.4倍にあたる30億円へ伸びた。もっとも奥田氏は同じ年の夏に「リストラだけでは何の意味もない」と述べ、営業力の強化を次の課題に置いている[12][13][14]

売場を四つに分ける

数値目標の裏側で動いたのが営業改革である。旗印は「お客様の最大のご満足を最小のコストで提供する」で、奥田氏は「従業員からは随分反論があった。お客さんの満足を上げるにはカネがかかるやないのと」と当時を振り返っている。1999年、実務の担い手として山本良一氏が営業改革推進部長に据えられ、1年半をかけて全売場の業務を洗い出した。奥田氏は2003年、その山本氏を役員を飛び越して社長へ引き上げ、起用の理由に現場への精通を挙げている[15][16][17]

洗い出しの結果、売場は接客技能の必要度に応じて「コンサルティング」「対面販売」「ポイントサポート」「セルフ」の4種類に分けられた。約680人の社員を抱えていたある店舗では、コンサルティング売場に社員の10%しか置かれず、ポイントサポートやセルフに約22%が配置されていた。人員を組み替えた後、その店の社員は117人まで減ったが、売上も利益も当初を上回った。仕組みが人数を決める形へ変わった[18]

仕入れと人事も同じ論理で組み替えた。2005年3月、大丸は各店のマネジャーが仕入れも販売も担う個店主義を改め、バイヤーを本部へ集めて一括仕入れへ移した。婦人雑貨や紳士服飾など5品番から始めた対象は115品番へ広がり、百貨店売上の約9割を占めるに至った。給与は年功序列の色が濃い体系から段階的に職務成果給へ移し、2007年に年齢給を全廃した[19][20]

結果

札幌という白地図

改革の形をそのまま実装できた店が、2003年3月に開業した札幌店である。土地・建物を含む投資額は330億円、売場面積は4万5,000平方メートル。単年度黒字化に4〜5年、累損解消に10年と見込まれていたが、開業から半年で営業利益を出し、3年弱で投資を回収した。同規模の店なら800〜900人を要するところを社員500人程度で回し、2006年度の人件費率は3.9%と、7%台の他店を大きく下回った[21]

全社の数字も追いついた。大丸は2004年2月期に8年ぶりの最高益を更新し、奥田氏は不採算事業・店舗の整理と営業・外商・事務の三つの業務改革を要因に挙げている。2007年2月期の連結営業利益は346億71百万円と前期比13.0%増、当期純利益は173億04百万円で、従業員は6,201人まで減った。衣料品不振で大手各社が減益に沈むなか百貨店事業で増益を確保したのは大丸だけで、2006年度の営業利益率は大丸4.1%、松坂屋2.1%であった[22][23][24][25]

届かなかった三割

一方で、売場改革による成長は3〜4年で踊り場を迎えた。値下げ前に売り切る正価販売の売上は5期続けて前年を割り、2004年度は百貨店全体の売上も落ちた。とくに苦しかったのが取引先主体で運営する売場で、全体の過半を占めながら期初に大丸と取り決めた予算を20%程度しか達成できていなかった。本部一括仕入れについても、賛同する取引先が増える一方、効果が上がらないとして逆戻りした取引先もあった[26]

奥田氏の自己採点も辛い。「正直言って、改革は自分が望んでいる6割か7割しか行っていない」と述べ、札幌店のやり方を古い店へそのまま移せない理由を過去の財産に求めている。それでも売上高1兆円規模の統合へ進めた理由については、「僕の経営哲学は、量の拡大の前に質の充実」「松坂屋と組む自信ができたのは、質の改革をやったから」と説明した。もっとも、統合後に9期続いた増益はリーマンショックで途切れている[27][28][29]

出典・参考
  • 証券アナリストジャーナル 1999年5月号 別冊付録「企業」大丸 会社説明会要旨(1999年4月26日)
  • 証券アナリストジャーナル 1999年11月号 別冊付録「企業」大丸 会社説明会要旨(1999年10月20日)
  • 証券アナリストジャーナル 2000年5月号 別冊付録「企業」大丸 会社説明会要旨(2000年4月24日)
  • 証券アナリストジャーナル 2000年11月号 別冊付録「企業」大丸 会社説明会要旨(2000年10月23日)
  • 日経ビジネス 1998年12月14日号「編集長インタビュー 奥田務氏[大丸社長]「伝統」「一流」だけでは生き残れぬ 20代、50代女性に絞り対応力強化」
  • 週刊東洋経済 1998年7月25日号「香港現地報告 香港を襲う真性デフレの猛威 日本の銀行、百貨店の撤退も不況を助長」
  • 週刊東洋経済 1998年8月8日・15日合併号「[特集]2001年に勝つ会社 負ける会社 百貨店 業界自体が存亡の危機」
  • 週刊東洋経済 1999年7月31日号「[ザ・トーク]奥田務/奥井功/室町鐘緒」
  • 週刊東洋経済 2003年6月28日号「[トップの履歴書]百貨店改革を主導する“熱血キャプテン” 大丸社長 山本良一」
  • 週刊東洋経済 2004年6月5日号「[特集]攻めに転じた百貨店 「万年低迷」脱却への挑戦 攻めに転じた百貨店の実力」
  • 週刊東洋経済 2007年4月28日・5月5日合併号「ニュース最前線03 百貨店本業は大丸が独り勝ち 三越は既存客も失う」
  • 週刊東洋経済 2007年6月30日号「[特集]百貨店は変われるか? 業界異端 大丸「奥田改革」10年目の飛躍」
  • 週刊東洋経済 2010年7月17日号「TOP INTERVIEW J.フロント リテイリング会長兼CEO 奥田務 百貨店は大衆と共にある 時代に合わせ変化対応を」
  • 大丸 有価証券報告書(2007年2月期・第123期・連結)

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