日本アイ・ビー・エム初の赤字決算と、三次にわたるリストラクチャリング
分社してから再統合するまでの三年間で、日本IBMは何を捨て、どこへ人を動かしたのか
- 概要
- 1992年10月の3分社化に始まり、1993年12月期の初の赤字決算をはさんで、1994年末まで三次にわたって行われた人員削減と再配置の経営判断。1995年1月には分社した3社を再統合した。
- 背景
- 大型汎用機から小型機へのダウンサイジングで米IBMは1991年から3年連続の赤字となり、1992年に4万人の人員削減計画を発表した。日本IBMの売上高と税引利益も1990年代に入って減少に転じた。
- 内容
- 3分社化と早期退職支援で1993年6月末までに1632名が退職。1993年12月期は約490億円の特別損失を計上して純損失184億円となった。第2次で約2506名を再配置し1500名をシステムインテグレーションとソフト開発へ移し、第3次で実質的な定年年齢を引き下げた。
- 含意
- 削減した人員をサービス分野へ振り向けたことで、機械を売る会社から仕組みを預かる会社への転換が進んだ。1994年12月期には増収増益へ戻り、2001年12月期には売上高1兆7075億円と過去最高を記録した。
分けてから戻したことの意味
三次のリストラクチャリングで目を引くのは、分社と再統合が2年で往復した点にある。1992年の分社は市場ごとに焦点を絞った自立経営を掲げたものだったが、1995年には元へ戻された。分けたことで生まれたのは自立した3社ではなく、出向による人員の移動と、経費の切り分けだったとみることもできる。人を動かす手段として組織を分け、目的を果たしたのちに戻した、と読むほうが経過には合う。
それでも、この3年間が事業の性格を変えたことは数字に出ている。削減した人員のうち1500名はシステムインテグレーションとソフト開発へ移り、サービスは2001年に売上の半分を超えた。機械の性能で競う会社から、顧客の仕組みを預かる会社への移行である。もっとも、預かる側に回ったことは新しい種類の危険も呼び込んだ。2012年のスルガ銀行訴訟や2025年のNHK提訴のように、開発の失敗がそのまま損害賠償の対象となる事業へ、会社は主力を移していた。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
ダウンサイジングと本社の不振
1980年代の中頃から、世界のコンピュータ市場は大型汎用機からパソコンやワークステーションなどの小型機へ移った。マイクロプロセッサと通信技術の進歩が需要を小型機へ移し、IBMの支配も崩れていく。米IBMは1991年から3年連続で赤字を計上し、1993年12月期の純損失は81億ドルに達した[1]。従業員は1986年12月期の40万3508名から1993年12月期の25万6207名へ、15万人弱が削られている。
日本IBMの数字も落ちた。売上高は1990年の1兆3265億円から1993年の1兆1578億円へ減り、営業利益は同じ期間に1676億円から187億円へ縮んでいる[2]。全IBMは1992年はじめに2万人の人員削減計画を発表し、同年9月にはこれを4万人へ拡大した。日本IBMのリストラクチャリングは、この本社の路線に沿って行われた。
決断
分社と、早期退職への経済的支援
1992年10月、日本IBMは本体と情報サービス、サービスの3社への分社を発表した[3]。競争力の強化と顧客ニーズへの迅速な対応、市場に焦点を絞った自立した経営が理由に挙げられている。発表時の社員数は本体1万5500名、情報サービス2700名、サービス4500名、出向1300名の合計2万4000名だった。同時に出向手当を廃止し、分社2社に所属する社員は全員が出向の扱いとなった。会社と組合のあいだでは、労働条件が実質的に同一であることなどを定めた確認書が交わされている。当時会長だった椎名氏は、構造変革には3年ほど前から着手しており分社もその一環である[4]としたうえで、リストラクチャリングはまだ緒についたところだと語った。
同年11月にはセカンドキャリア支援プログラムを発表した。1992年11月10日から1993年6月末日までに早期定年退職する社員を対象に、転籍・独立・再就職などへ経済的な支援を行う。支給額は年齢を基準として月額給与の3カ月分から18カ月分で、50歳を18カ月、59歳を3カ月とした[5]。1993年4月には清掃回数の削減やペーパータオルの廃止、受付の廃止を含む経費削減プログラムも出されている。第1次の退職者は1632名で、内訳は子会社845名、再就職380名、独立384名、嘱託23名だった。
赤字の公表と、サービスへの人員の振り替え
1993年1月、椎名氏の後任として北城恪太郎氏が社長に就いた。同年12月期は純損失184億円を計上し、初の赤字決算となる。早期退職に応じた約3100名への上積み退職金など約490億円を特別損失として計上した結果[6]であり、この特別損失がなければ101億円の税引利益が出ていた。北城社長は企業体質の強化策として、50歳以上の社員の転身支援、仕事の進め方を変えることによる在庫の5割削減、物流費の3割削減を打ち出し、そのほとんどを1993年度中に実施した。この3つの目標は1994年初めにビジョン21としてまとめられ[7]、削減目標には事務所費用の4分の1も並んだ。
第2次では生産部門の海外移管を含む約2506名を再配置し、システムインテグレーションとソリューションソフトウェアの開発へ1500名を振り向けた[8]。事務所経費25%、事務管理費30%、物流経費30%、在庫50%といった経費削減の目標も掲げられている。1994年1月にはスペシャリスト制度を導入し、3月からは専門職年俸制度を始めた。第3次では間接部門から1000名を配置転換し、47歳以上の社員が50歳で退職することを条件にそれまでをキャリアプラン休職と認める制度を設けて、実質的な定年年齢を引き下げた。
結果
再統合と、サービス比率の上昇
1995年1月、日本IBMは1993年1月に分けた3社を再統合した[9]。分社から2年での方針転換である。人員は1992年12月から1995年12月までの3年間で4256名減り、2万5033名から2万777名になった。1994年12月期には増収増益へ戻り、以後は赤字に陥っていない。1997年12月期は4期連続の増収増益となり、純利益は687億円に達した。1999年2月には外資系企業の申告所得ランキングで首位に返り咲いている。
振り向けた先は伸びた。米IBMは1996年にサービス事業を独立した事業部門として切り離し、IBMグローバル・サービスを設立する。2001年12月期の日本IBMの売上高は1兆7075億円で過去最高となり、サービスの売上高は全体の5割を超え、アウトソーシングは60%増えた[10]。大型汎用機を売っていればよかった時代から、顧客の仕組みを預かる事業への移行が数字に表れている。
- 日経ビジネス 1993年5月3日号「崩れ始めた自己制御の仕組み 暴走防ぐ社内憲法が必要」
- 日経ビジネス 1994年11月28日号「顧客第一で、常に先頭を走る 自由闊達な会社へ大ナタ」
- 名城論叢 第6巻第4号(2006年3月)谷江武士「日本IBMの経営における財務的特質」
- 週刊東洋経済 1997年11月15日号
- 週刊東洋経済 2002年3月9日号
- 日本アイ・ビー・エム『日本IBM 会社経歴書』