カナデビア因島・向島工場を縮小:二度の合理化策による人員・設備の削減と生産拠点の絞り込み

更新:

時期 1986年10月
意思決定者(推定) 永田敬生木下昌雄 社長・のち会長・社長
論点 構造不況下の人員・設備削減
概要

円切り上げと石油危機で超大型タンカーの需要が消えたあと、日立造船が1975年の間接人員1,260人削減を第一歩に、1986年10月の第二次経営合理化策まで二度にわたって人員と設備を削り、稼ぎ口を造船の外へ移した経営判断。

背景

1972年3月期の造船依存度は69%で同業を大幅に上回り、1974年に完成した有明造船所は420億円の建設費を抱えていた。長期借入金は2,905億円、支払利息は123億円で、従業員1人当たり売上高は三井造船を33%下回っていた。

内容

1975年度・1976年度の2カ年で間接人員1,260人を削減し、うち510人は自然減耗の不補充、残りは関連会社への出向とした。選択定年制の早期退職時期を40歳に設定し、1986年10月には因島・向島を含む第二次経営合理化策を打ち出した。

含意

解雇を避ける手段を重ねたため削減は長期に及び、痛みは企業城下町である因島市と向島町に集まった。単体売上に占める新造船の比率は10年で75%から24%へ下がり、機械・原動機とプラントが柱に替わった。

筆者の見解

守ろうとしたものが、減らす順番を決めた

"百万人の経営"を掲げた会社が最初に手をつけたのは、間接部門の1,260人であった。しかもその内訳は自然減耗の不補充が510人、残りは関連会社への出向で、解雇は入っていない。労使協定で労働条件の平和的解決を約した経営が、削る順番をどう並べたかがここに表れている。永田敬生社長は1972年春から適正操業度と減配・賃上げ抑制を唱えており、危機の読みが遅かったとはいえない。遅れたのは読みではなく、人を減らす速度であったとみられる。

ただ、その速度の代価を払ったのは本社ではなく因島と向島であった。1986年の第二次合理化策が伝わったとき、町に渦巻いたのは驚きと怒りと虚脱であった。人員はやがてピークの約3分の1まで減り、稼ぎ口は機械・原動機とプラントに替わった。減らし方を穏やかにするほど減らし終える時期は遅れ、遅れた分だけ痛みは工場のある町に集まるといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

同じ問いに直面した会社

構造改革による選択と集中1970年日本セメント小規模工場を関連製品で自立させる第1次体質強化策の実行小規模工場の処遇と非セメント部門の育成
1950年大丸人員整理によらない事業の存廃決定戦後の過剰人員と多角化事業の整理
1991年日立化成好況のうちに低収益の品目を選り分け、抱えきれない範囲の切り捨て不採算製品の整理と収益体質の立て直し
1992年ハウス食品グループ本社低シェア事業は持たないという方針に沿った全面撤退事業ポートフォリオの絞り込みと商品数の削減
1979年日東紡績「特化作戦」による多角化からの絞り込みと品質重視への転換事業構成の絞り込みと収益力の再建
雇用維持と固定費削減の両立1987年住友重機械工業主力2部門を対象とした1,700人の人員削減と事業規模の縮小造船部門の縮小と雇用調整
1992年ペンタックス再建組織委員会の設置と、人員削減によらない全社コストダウン、カメラ生産の海外移管赤字体質からの脱却と雇用の維持
1993年日本アイ・ビー・エム三次にわたる人員と事業の絞り込みによる収益構造の立て直し人員削減・分社と再統合・サービスへの転換
1997年大丸売上至上主義から海外百貨店からの撤退・売場業務の再設計百貨店本業の再構築と利益指標への転換
1970年日本国有鉄道全国展開した労使協調路線の、不当労働行為認定による撤回財政再建と労使関係
出典・参考
  • 週刊東洋経済 1972年10月7日号
  • 日経ビジネス 1975年9月1日号
  • 日経ビジネス 1979年7月2日号
  • 読売新聞(1977年8月12日)
  • 日本経済新聞(1986年10月23日)
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「減量経営の浸透」
  • 日本産業史 第4巻(日本経済新聞社、1994年)「造船・重電-省力化、合理化進む」
  • 証券アナリストジャーナル 1981年第19巻第12号(岩崎三郎)
  • 日立造船 会社年鑑(1976年版・1986年版・単体業績およびセグメント)

免責事項およびポリシー