ハウス食品グループ本社低シェア事業からの撤退方針とチルド食品事業の全面撤退

時流に乗った成長分野でも、首位を争えないなら畳むべきか——大塚邦彦社長が問い直した多品目化の代償

時期 1992年1月
意思決定者(推定) 大塚邦彦 社長
論点 事業ポートフォリオの絞り込みと商品数の削減
概要
1991年末、ハウス食品工業の大塚邦彦社長が、1980年に参入したチルド(冷蔵)食品事業からの撤退を決めた。翌1992年1月の誌上インタビューで「中途半端な事業からは撤退」と述べ、その分野で首位グループを走れない事業と商品は畳むという方針を対外的に明示した。
背景
1970年代の多品目化で商品数は業務用を除き約750アイテムに達し、広告宣伝費は1977年11月期に売上高の10.5%を占めた。1984年の脅迫事件と1985年の浦上郁夫社長の急死が重なり、売上高を追う経営の見直しが避けられなくなっていた。
内容
チルド食品事業は自前の配送網を持たず、最後の2〜3年は売上高20億円程度にとどまっていた。大塚社長は撤退を提案し、反対の声を押して決めた。あわせて新製品を出す社内ルールを厳しく改め、1989年度に55アイテム、1990年度に76アイテムを廃止した。
含意
商品数の削減は4〜5年にわたって売上の停滞と社内の不満を招いた。一方で返品率は7%近くから0.47%へ下がり、絞り込んだ枠から「六甲のおいしい水」「ジャック」などのヒットが出た。選択と集中の方針は2010年の水事業譲渡まで引き継がれた。
筆者の見解

畳む判断に、誰が責任を持つか

この判断で目を引くのは、撤退の対象が不振事業ではなく成長分野だった点にある。チルド食品は毎年2桁近く伸びる市場であり、続ける理屈はいくらでも立った。それでも大塚社長は、伸びる市場かどうかではなく、その市場で自社が首位グループに入れるかどうかを基準に置いた。新規事業に5年という期限を切り、力のあるうちに畳むという考え方も、赤字が膨らんでから追い込まれて撤退する型とは順序が逆になっている。撤退の判断を合議に委ねず、始める時は皆で決め、やめる時はトップが決めると分けたところにも、その順序を守るための工夫がうかがえる。

もっとも、この方針が社内に根づくまでには4〜5年の停滞と、社長自身が挫折感と呼ぶほどの摩擦があった。新製品の数は売上と直結し、営業の日々の手応えとも結びついている。それを減らす判断は、数字の上では正しくても、現場では士気の低下として現れる。ハウス食品はその後も選択と集中を続け、2010年には自ら育てた首位商品まで手放した。何を残し何を畳むかという問いは、創業家出身ではない経営者が最初に引き受けた課題であり、以後の同社が繰り返し向き合ってきた主題であるとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

新製品で伸びた会社の、もうひとつの数字

1970年代のハウス食品工業は、新製品を次々に出すことで伸びた会社であった。1971年の株式上場から1978年までに世に出した新製品は70種類に達し、1977年11月期まで17年連続で経常増益を続けている。1978年5月時点の主要製品の市場占有率は、カレー62%、シチュー82%、プリン80%にのぼり、調理済みカレー46%、ポテトチップ25%、インスタントラーメン17%と続いた。浦上郁夫社長は当時、関西出身の自社は東京に比べて市場が狭く、1商品に専門化していては食べていけないと語っている[1][2]

拡大には費用が伴った。1977年11月期の広告宣伝費は89億7,500万円で、売上高の10.5%を占めた。売上高に対する販売費・一般管理費の比率は同期に36.4%となり、1975年11月期に比べて5.7ポイント上昇している。日経ビジネスは1978年末の記事で、この比率の上昇が長期的には利益率の低下につながると指摘し、若い社員へ権限を委ねてきた柔軟な組織にも硬直化の恐れがあると書いた。品目を増やして売上を積む型が、そのまま続けられるかどうかが問われ始めていた[3]

相次ぐ災厄と、売上至上主義の見直し

1980年代半ば、会社は続けて打撃を受けた。1983年度は静岡の大規模工場の建設と重なって上場後初の減収減益を記録し、1984年11月には警視庁指定114号事件の脅迫状が届いて業績がさらに悪化した。1985年8月12日、日本航空123便の墜落で浦上郁夫社長が47歳で死去し、副社長であった大塚邦彦氏が同年9月に社長へ就いた。大塚社長は当時の心境を、プロと一緒にゴルフコースを回っていたキャディーが突然プレーしろと言われたようなものであったと語っている[4][5]

社長就任から2年目、大塚社長は売上至上主義からの脱却を掲げた。13年の営業経験を踏まえ、得意先で人間関係を築いて月末にできるだけ先方で粘り、きっちり売上を作ってくる働き方は単なる在庫の移動であって本当の売上ではないと説いた。返品の可能性が高い押し込み販売をやめさせ、他社の後追い製品の発売も認めなかった。1988年には20年以上続いたプロダクトマネージャー制度に手を入れ、消費者の立場から検討する新製品開発委員会と、投資や採算性を検討する役員レベルの新製品検討会による二重の審査へ改めている[6][7]

決断

首位グループを走れない事業は畳む

1991年末、大塚社長はチルド(冷蔵)食品事業からの撤退を決めた。参入は1980年で、生に近い食品への需要が強まるなか、市場は毎年2桁近い伸びを見せる成長分野にあった。それでも自前のチルド配送網を持たなかったことが響き、最後の2〜3年の売上高は20億円程度にとどまっていた。大塚社長は撤退の理由を、自社がその分野で首位グループを走れる見込みがないのであれば、時流に乗った事業でも意味がないからと説明している[8][9]

撤退の提案に賛成する声は少なかった。大塚社長は、新しいことを始める時は皆の意見を聞いてやる必要があるが、撤退する場合はトップが我を通させてもらうと説いて回った。判断の目安も言葉にしている。新規事業は5年をひととおりの期限とし、そこで改善の兆しが感じられなければ撤退すべきであり、撤退は力のある時に決断すべきであると述べた。実際に1990年に二つ、1991年に一つの事業から手を引いている。恥をかく勇気も必要ではないかというのが、当時の説明であった[10][11]

商品750アイテムの棚卸し

方針は事業の単位にとどまらず、商品の単位にも及んだ。当時の商品数は業務用を除いておよそ750アイテムあり、1989年度に55アイテム、1990年度に76アイテムを廃止している。新製品を出す社内ルールも厳しく改めた。リスクがあっても他社より先に出すこと、独自性のあるものに絞ること、価格は安くなくとも品質の面で高級化を図ること——この三つに当てはまらない商品は出さないという基準であった。弱い商品を切り、強い商品に資金を投じれば、その商品はさらに伸びるという考え方に立っている[12][13]

絞り込みはすぐには受け入れられなかった。新製品が減ってヒットも出ないことから、業界では「ハウスは最近おかしい」とささやかれ、取引先からも「このごろのハウスは何をしとるんだ」と批判を受けた。無理をして売るなと言われた営業の士気も落ち、停滞は4〜5年続いた。大塚社長は管理職を集めて直接対話を試みたが、社長の書生論では食っていけないという声が相次ぎ、これだけ言葉を尽くしても分かってもらえないという挫折感を味わったと打ち明けている。1992年1月の誌上インタビューで撤退方針を対外的に明示したのは、社内での説得がようやく実を結び始めた頃にあたる[14][15]

結果

返品率0.47%と、絞った枠から出たヒット

数字は方針の側についた。かつて7%近かった返品率は0.47%まで下がり、問屋から小売店への出荷量や販売時点情報から営業方針を決める仕組みも効いた。絞り込んだ新製品の枠からは、1983年発売のミネラルウォーター「六甲のおいしい水」が1991年に売上高90億円、家庭用で5割近い首位のシェアへ育ち、豆を素材にしたスナック「ジャック」は初年度17億円から1991年に24億円へ伸びた。1991年春に出したレトルトカレー「咖喱工房」も、具を大きくして質の高さを打ち出したことで売上を伸ばしている[16][17]

全体の業績も戻った。大塚社長の就任時である1985年に約1,400億円であった売上高は、1993年3月期の推定で約1,900億円に達している。1992年1月の時点で社長は、売上高を1,640億円から1994年に2,000億円へ引き上げたいと述べつつ、規模よりもカテゴリー別に首位を走る商品がいくつあるかが大事になってきたと語った。バブル崩壊後の財テク失敗の処理を迫られながらも、1993年3月期は前期に続いて経常増益を確保できる見通しにあった[18][19]

引き継がれた「選択と集中」

撤退の方針は、大塚社長の退任後も残った。2010年5月、ハウス食品はミネラルウォーター事業をアサヒ飲料へ譲渡している。同年の決算説明会で会社は、選択と集中は第1次中期計画からの懸案であり、その観点から水事業の売却を決断したと説明した。1992年に「トップブランドの数が勝負」と語られた商品は、20年近くを経て、首位を保ったまま他社へ渡る対象となった。基準そのものは変わっておらず、自社が最も伸ばせる領域に資源を寄せるという考え方が引き継がれている[20][21]

6代社長の浦上博史氏は2016年、市場の成熟が進んでそれぞれの分野に首位企業が生まれたため、2003年ごろから事業の選択と集中に着手したと振り返っている。即席麺「うまかっちゃん」は全国販売から地域限定へ切り替え、「六甲のおいしい水」はアサヒ飲料へ譲った。ニーズがあれば何でもやるという八方美人ではやっていけない、というのが同社長の言葉であった。1970年代に品目を広げて伸びた会社が、広げた分を仕分ける作業に四半世紀を費やしたことになる[22]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1992年1月20日号「中途半端な事業からは撤退 トップブランドの数が勝負」
  • 日経ビジネス 1993年2月1日号「大塚邦彦 災厄乗り切った業績請負人 製品絞り込みで先手打つ」
  • 日経ビジネス 1978年12月18日号「ハウス食品工業 新製品によるあくなき成長にも転機」
  • 週刊東洋経済 2016年7月23日号「インタビュー ハウス食品グループ本社社長 浦上博史 ハウス×ココイチで東南アジアを攻める」
  • ハウス食品 決算説明会 質疑応答(2010年5月21日)
  • ハウス食品グループ本社 有価証券報告書 第79期(2025年3月期)【沿革】

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