ハウス食品グループ本社 の歴史

更新: Author:

創業 1913年
創業者 浦上靖介
創業地 大阪府大阪市
創業
1913年11月、浦上靖介氏が大阪・松屋町筋に薬種化学原料店『浦上商店』を創業した。当時の薬種問屋は漢方薬とともに胡椒や唐辛子を扱う商いで、浦上商店は白玉ソースなど各ソースメーカーへカレーの原料を納める側にいた。1926年、個人経営のホーム食品を吸収し、布施市の工場でカレー粉の自社製造へ参入した。参入時の『ホーム・カレー』は寿屋から商標の抵触を指摘されて『ハウス・カレー』へ改め、これが現在の社名に残っている。ただし完成品の市場には『蜂カレー』やエスビーの『東屋』が先に並んでおり、統制解除後に再開したときも国内はエスビー・カレー一色に塗りつぶされた感があったと、2代社長の浦上郁夫氏は述べている。
決断
上位を取れない棚からは降りるという基準で、品目を選んできた。純カレー粉ではエスビー食品の地盤が固いとみて即席カレーへ注力し、1963年9月発売のバーモントカレーは1970年11月期に1品目で75億円を売って即席カレーの47.7%を占めた。1992年1月には低シェア事業からの撤退方針を掲げてチルド食品から全面撤退し、成長分野であっても首位グループを走れない事業を切っている。2013年10月に持株会社体制へ移ったのち、2015年10月には壱番屋へのTOBに約301億円を投じて外食を傘下に収めた。2016年6月には業務用スパイス大手のギャバンを味の素から譲り受け、2022年9月には米国の植物性食品メーカーを子会社にした。
現況
利益は現在も、国内で売るルウとスパイスから出ている。2026年3月期の連結売上高3,169億円・営業利益182億円のうち、香辛・調味加工食品事業が売上1,268億円・営業利益128億円と利益の大半を占めた。買収で広げた外食と海外は伸びていない。外食事業は売上654億円・営業利益34億円、海外食品事業は売上629億円・営業利益34億円で、壱番屋ののれんは2021年3月期に91億円、米キーストーンは2025年3月期に50億円と2026年3月期に75億円の減損損失を計上している。会社は2026年5月に第八次中期経営計画の営業利益270億円に達しないと認め、同年8月には壱番屋の非公開化を含む選択肢の検討に入り、資本の使い先を買収から株主還元と祖業へ振り替えている。
競合
家庭のカレーでは寡占を保ち、それ以外では上位に達していない。1926年の参入時に先発のエスビー食品が純カレー粉で固めた地盤を避けたことが、即席カレーでの競争優位の出発点となった。1971年時点で即席カレー需要230億円のうち47〜48%を握り、以後もルウの寡占は崩れていない。一方、1992年に全面撤退したチルド食品のように、首位を走れない領域では退く判断を繰り返してきた。2015年に取り込んだ壱番屋の店舗網は海外の需要を測る場になったものの、外食事業の営業利益率は5%台にとどまる。資本コスト約6%へ到達できていないのは、寡占を持つ事業の外で利益を作り出せていないからである。
ハウス食品グループ本社:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 薬種問屋がカレーの窯を持ち、即席カレーで首位に立つまで (1913年〜)

薬種問屋からカレー粉の製造へ回り、戦争で断たれるまで

1913年11月、浦上靖介氏は大阪・松屋町筋に薬種化学原料店『浦上商店』を開いた[1]。当時の薬種問屋は漢方薬とともに香辛料を扱う商いで、店の商品には胡椒や唐辛子が並んだ[2]。浦上商店は白玉ソース・中央ソース・羽車ソースといった各ソースメーカーへカレーの原料を納め[3]、カレーそのものを作るのではなく、カレーを作る側へ材料を渡す位置にあった。完成品の市場には先発が並び、関西では『メタル・カレー』『蜂カレー』『月美人カレー』が売られ、関東でも『ノーブル商会』やエスビー・カレーの『東屋』が名を通していた[4]

  • 日経ビジネス 1978年12月18日号
    • [1]1913年11月 浦上靖介が大阪・松屋町筋に薬種化学原料店「浦上商店」を開業
    • [2]薬種問屋の商品に胡椒・唐辛子などの香辛料
    • [3]各ソースメーカーへカレーの原料を納入
    • [4]1920年代の関西・関東にカレー粉の先発メーカーが並立

1926年、浦上商店は個人経営のホーム食品を吸収合併し[5]、布施市(現在の東大阪市)に工場を設置して、カレー・胡椒・唐辛子などの香辛料の製造販売を始めた[6]。参入時のブランドは『ホーム・カレー』だったが、寿屋(現サントリー)から自社のブランドに抵触するとの申し入れを受け、名称を『ハウス・カレー』へ改めた[7]。登録商標には家の図の中に『イン・エブリー・ハウス』[引用元]と記したマークを用いており[8]、社名に残る『ハウス』はこの改称に由来する。1930年には合名会社組織へ移り、商号を浦上靖介商店に改めた[9]

    • [5]1926年(大正15年)のホーム食品吸収とカレー粉製造の開始
    • [7]ブランド「ホーム・カレー」を寿屋(現サントリー)の申し入れで「ハウス・カレー」へ変更
    • [8]家の図に「イン・エブリー・ハウス」と記した登録商標
    • [6]1926年 ホーム食品を吸収合併し布施市(現東大阪市)に工場を設置、カレー・胡椒・唐辛子の製造販売を開始
  • 日経ビジネス 1978年12月18日号
    • [9]1930年(昭和5年)合名会社組織へ移行し商号を浦上靖介商店とする

1934年にはハヤシライスを発売し[10]、カレー粉一品の製造から家庭向けの即席食品へ品目を広げた。ただ先発との差はすぐには縮まらず、のちに2代社長となる浦上郁夫氏は、創業当時の会社がかなり悪戦苦闘していたようだと振り返っている[11]。販売は関西を中心に中国・四国・九州の各方面へ伸び[12]、老舗が強い東京市場ではなく西日本の家庭に根を張るところから積み上げた。第二次大戦の進展に伴ってカレーの原料が統制品となり、男子従業員が兵役に取られて人手も不足し、生産活動は中絶した[13]。1945年には空襲で事業所を焼失し、布施市の工場内へ移っている[14]

  • 日経ビジネス 1978年12月18日号
    • [10]1934年(昭和9年)ハヤシライスを発売
    • [14]1945年(昭和20年)空襲により事業所が焼失し布施市の工場内へ移転
    • [11]浦上郁夫氏の「創業当時はかなり悪戦苦闘していたようだ」との回想
    • [12]参入当初は先発との競争で苦戦し、関西を中心に中国・四国・九州へ地盤を拡大
    • [13]第二次大戦でカレー原料が統制品となり兵役による人手不足も重なって生産活動が中絶
  • 日経ビジネス 1978年12月18日号
    • [1]1913年11月 浦上靖介が大阪・松屋町筋に薬種化学原料店「浦上商店」を開業
    • [9]1930年(昭和5年)合名会社組織へ移行し商号を浦上靖介商店とする
    • [10]1934年(昭和9年)ハヤシライスを発売
    • [14]1945年(昭和20年)空襲により事業所が焼失し布施市の工場内へ移転
    • [2]薬種問屋の商品に胡椒・唐辛子などの香辛料
    • [3]各ソースメーカーへカレーの原料を納入
    • [4]1920年代の関西・関東にカレー粉の先発メーカーが並立
    • [5]1926年(大正15年)のホーム食品吸収とカレー粉製造の開始
    • [7]ブランド「ホーム・カレー」を寿屋(現サントリー)の申し入れで「ハウス・カレー」へ変更
    • [8]家の図に「イン・エブリー・ハウス」と記した登録商標
    • [11]浦上郁夫氏の「創業当時はかなり悪戦苦闘していたようだ」との回想
    • [12]参入当初は先発との競争で苦戦し、関西を中心に中国・四国・九州へ地盤を拡大
    • [13]第二次大戦でカレー原料が統制品となり兵役による人手不足も重なって生産活動が中絶
    • [6]1926年 ホーム食品を吸収合併し布施市(現東大阪市)に工場を設置、カレー・胡椒・唐辛子の製造販売を開始

法人化のうえで純カレーを避け、即席カレーへ寄せた選択

戦中戦後は原料の入手難から操業を停止しており[15]、株式会社への改組はそこからの再出発にあたった。1947年6月、資本金197,500円で株式会社浦上糧食工業所を設立し[16]、1949年1月には戦前から使っていたブランドを商号に取り入れて株式会社ハウスカレー浦上商店へ改めた[17]。1950年5月にはハウス食品株式会社を吸収合併している[18]。もっとも、1952年ごろに統制解除を受けて即席カレーの製造販売を再開したときには、エスビー食品がいち早く生産を始めており[19]、浦上郁夫氏は国内市場がエスビー・カレー一色に塗りつぶされた感があった[20]と述べている。

    • [15]戦中戦後は原料の入手難から操業を停止し、1947年に株式会社組織へ改組して再出発
    • [17]1949年1月 株式会社ハウスカレー浦上商店へ改称
    • [18]1950年5月 ハウス食品株式会社を吸収合併
  • ハウス食品グループ本社 有価証券報告書 第79期(2025年3月期)【沿革】
    • [16]1947年6月 株式会社浦上糧食工業所を設立(資本金197,500円)
    • [19]1952年ごろ 統制解除で即席カレーの製造販売を再開、先行したエスビー食品が市場を握る
    • [20]浦上郁夫氏の「エスビー・カレー一色に塗りつぶされた感があった」との発言

統制解除後の再開にあたり、会社は純カレー(カレーパウダー)の分野ではなく即席カレーの分野へ力を注いだ[21]。浦上郁夫氏は、業界の首位に立てたのはエスビー食品の純カレーの地盤が強固だったために別の分野へいち早く方向を変えた[22]からだと説明している。1958年の炒飯の素の発売を契機に各種インスタント食品の製造販売にも着手し[23]、1959年11月には東大阪工場にカレー製造工場を竣工した[24]。1960年に印度カレーを発売し[25]、同年11月には商号をハウス食品工業株式会社へ改めている[26]。この選択の結果、1971年時点の即席カレー部門の需要は年およそ230億円に達し、そのうち47〜48%を同社が占めた[27]

    • [21]純カレーではなく即席カレーへ注力
    • [22]浦上郁夫氏の説明 エスビー食品の純カレーの地盤が強固だったため別分野へ転換
    • [27]1971年時点の即席カレー市場は年約230億円で同社のシェアは47〜48%
    • [23]1958年(昭和33年)炒飯の素の発売を契機に各種インスタント食品の製造販売へ着手
    • [25]1960年(昭和35年)印度カレー発売
  • ハウス食品グループ本社 有価証券報告書 第79期(2025年3月期)【沿革】
    • [24]1959年11月 東大阪工場にカレー製造工場竣工
    • [26]1960年11月 商号をハウス食品工業へ改称

1963年9月に発売したバーモントカレーは[28]、1970年11月期に1品目で75億円を売り上げ[29]、主力製品となった。以後も1964年4月のプリンミクス[30]、1966年のシチュー、1967年のシャービック、1968年のジャワカレー、1969年のミルクセーキとグラタン[31]と、家庭向けの即席食品を毎年のように出した。1970年6月には合弁会社サンハウス食品を設立してレトルト食品のククレシチューを発売し[32]、翌1971年4月にはククレカレーを加えている[33]。同年3月には高級品としてブレンドスペシャルカレーを発売した[34]

  • ハウス食品グループ本社 有価証券報告書 第79期(2025年3月期)【沿革】
    • [28]1963年9月 バーモントカレー発売
    • [30]1964年4月 プリンミクス発売
    • [32]1970年6月 合弁会社サンハウス食品を設立しレトルト食品を発売
    • [29]1970年11月期 バーモントカレー1品目で売上高75億円
    • [31]1966年シチュー・1967年シャービック・1968年ジャワカレー・1969年ミルクセーキとグラタンの発売
    • [33]1971年4月 ククレカレー発売
    • [34]1971年3月 ブレンドスペシャルカレー発売
    • [15]戦中戦後は原料の入手難から操業を停止し、1947年に株式会社組織へ改組して再出発
    • [17]1949年1月 株式会社ハウスカレー浦上商店へ改称
    • [18]1950年5月 ハウス食品株式会社を吸収合併
    • [23]1958年(昭和33年)炒飯の素の発売を契機に各種インスタント食品の製造販売へ着手
    • [25]1960年(昭和35年)印度カレー発売
    • [29]1970年11月期 バーモントカレー1品目で売上高75億円
    • [31]1966年シチュー・1967年シャービック・1968年ジャワカレー・1969年ミルクセーキとグラタンの発売
    • [33]1971年4月 ククレカレー発売
    • [34]1971年3月 ブレンドスペシャルカレー発売
  • ハウス食品グループ本社 有価証券報告書 第79期(2025年3月期)【沿革】
    • [16]1947年6月 株式会社浦上糧食工業所を設立(資本金197,500円)
    • [24]1959年11月 東大阪工場にカレー製造工場竣工
    • [26]1960年11月 商号をハウス食品工業へ改称
    • [28]1963年9月 バーモントカレー発売
    • [30]1964年4月 プリンミクス発売
    • [32]1970年6月 合弁会社サンハウス食品を設立しレトルト食品を発売
    • [19]1952年ごろ 統制解除で即席カレーの製造販売を再開、先行したエスビー食品が市場を握る
    • [20]浦上郁夫氏の「エスビー・カレー一色に塗りつぶされた感があった」との発言
    • [21]純カレーではなく即席カレーへ注力
    • [22]浦上郁夫氏の説明 エスビー食品の純カレーの地盤が強固だったため別分野へ転換
    • [27]1971年時点の即席カレー市場は年約230億円で同社のシェアは47〜48%

特約店と登録店の販路、テレビ広告、そして株式上場

販路は特約店167社(口座数305)と、その先の登録店と呼ぶ二次代理店を経由して、全国のスーパーマーケットと末端小売店へ届く[35]形をとった。販売促進では、テレビを主体とした広告のほかに、卸と小売の店頭を回る置回り販売、デモンストレーターによる実演販売、リベート政策を組み合わせている[36]。デモンストレーターとして約200名の女子販売促進員を各支店・営業所に配属し[37]、店頭での料理講習にあてた。昭和30年代前半まではエスビー食品と株式会社オリエンタルの市場占有率が同社を上回っていたが、30年代後半以降にこれらの施策が効いて順位が入れ替わった[38]

    • [35]特約店167社(口座数305)と登録店(二次代理店)を経由し全国のスーパー・小売店へ販売
    • [36]テレビ広告・置回り販売・実演販売・リベート政策の併用
    • [37]約200名のデモンストレーター(女子販売促進員)を各支店・営業所へ配属
    • [38]昭和30年代前半まではエスビー食品・オリエンタルの占有率が上回り、30年代後半以降に逆転

1970年11月期の市場占有率は、インスタントカレーが47.7%、インスタントシチューが93.7%、インスタントプリンが71.4%に達した[39]。同期の売上高197億円と税引利益12億円は、10年前の1960年11月期のそれぞれ11.6倍と23.2倍にあたる[40]。エスビー食品との比較では、直近5年間の売上高の伸びが同社3.4倍に対しエスビー食品1.6倍、利益は同社5.6倍に対し2.7倍であった[41]。関東地方の売上高が全体の29.0%を占める[42]までになり、西日本に偏っていた販売の重みが東へ移った。

    • [39]1970年11月期の市場占有率 インスタントカレー47.7%・シチュー93.7%・プリン71.4%
    • [40]1970年11月期 売上高197億円・税引利益12億円は1960年11月期の11.6倍・23.2倍
    • [41]直近5年間の売上高の伸びはハウス3.4倍・エスビー1.6倍、利益はハウス5.6倍・エスビー2.7倍
    • [42]関東地方の売上高が全売上高の29.0%

1966年6月、浦上靖介氏の長男である浦上郁夫氏が28歳で2代目社長に就任し[43]、同月に奈良県大和郡山市の奈良工場が竣工した[44]。1970年3月には大阪府東大阪市に研究所、同年5月に栃木県佐野市の関東工場、同年8月に合弁会社ハウス配送、同年11月にイデアックセンター[45]と、生産と物流と研修の拠点を続けて設けている。1971年7月、東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第2部へ株式を上場した[46]。公募は400万株、公開価格は480円で、上場時の大株主はハウス興産が34.6%[47]、浦上郁夫氏が22.6%を持っていた。

  • 日経ビジネス 1989年7月31日号
    • [43]1966年 浦上郁夫が28歳で2代目社長に就任
  • ハウス食品グループ本社 有価証券報告書 第79期(2025年3月期)【沿革】
    • [44]1966年6月 奈良県大和郡山市に奈良工場竣工
    • [45]1970年3月 東大阪市に研究所、5月 関東工場、8月 ハウス配送設立、11月 イデアックセンター竣工
    • [46]1971年7月 東京・大阪証券取引所市場第2部へ上場
    • [47]公募400万株・公開価格480円、大株主はハウス興産34.6%・浦上郁夫22.6%
    • [35]特約店167社(口座数305)と登録店(二次代理店)を経由し全国のスーパー・小売店へ販売
    • [36]テレビ広告・置回り販売・実演販売・リベート政策の併用
    • [37]約200名のデモンストレーター(女子販売促進員)を各支店・営業所へ配属
    • [38]昭和30年代前半まではエスビー食品・オリエンタルの占有率が上回り、30年代後半以降に逆転
    • [39]1970年11月期の市場占有率 インスタントカレー47.7%・シチュー93.7%・プリン71.4%
    • [40]1970年11月期 売上高197億円・税引利益12億円は1960年11月期の11.6倍・23.2倍
    • [41]直近5年間の売上高の伸びはハウス3.4倍・エスビー1.6倍、利益はハウス5.6倍・エスビー2.7倍
    • [42]関東地方の売上高が全売上高の29.0%
    • [47]公募400万株・公開価格480円、大株主はハウス興産34.6%・浦上郁夫22.6%
  • 日経ビジネス 1989年7月31日号
    • [43]1966年 浦上郁夫が28歳で2代目社長に就任
  • ハウス食品グループ本社 有価証券報告書 第79期(2025年3月期)【沿革】
    • [44]1966年6月 奈良県大和郡山市に奈良工場竣工
    • [45]1970年3月 東大阪市に研究所、5月 関東工場、8月 ハウス配送設立、11月 イデアックセンター竣工
    • [46]1971年7月 東京・大阪証券取引所市場第2部へ上場

新製品を年30種類出して品目を広げた1970年代

上場時点の従業員は職員673名と工員680名の計1,353名で、工場は東大阪・郡山・関東の3か所、支店と営業所は全国8か所に置いていた[48]。主要原材料の精製牛脂・粉乳・小麦粉・砂糖・香辛料は輸入依存度が高く価格変動も激しいため、トーメンや東食といった商社、小林桂・極東食品・雪印商事といった専門商社と長期契約を結んで確保にあたった[49]。1972年5月の中間決算時点では、カレー52.7%、プリン67.4%、シチュー93.4%の占有率を保ち、半期の売上高は134億8,000万円に達している[50]。1973年4月には両取引所の市場第1部へ指定替えとなった[51]

    • [48]1970年11月期末の従業員は職員673名・工員680名の計1,353名、工場3か所・支店営業所8か所
    • [49]主要原材料は輸入依存度が高く、商社・専門商社と長期契約で確保
    • [50]1972年5月中間決算時点でカレー52.7%・プリン67.4%・シチュー93.4%、半期売上高134億8,000万円
  • ハウス食品グループ本社 有価証券報告書 第79期(2025年3月期)【沿革】
    • [51]1973年4月 市場第1部へ指定替え

1971年の上場から1978年までに世に出した新製品は70種類にのぼり、1977年11月期まで17年連続で経常増益を続けた[52]。参入先も広く、1973年3月に練りスパイス、同年6月に即席麺、1977年6月にスナック食品を出し、1976年4月に福岡県古賀市の福岡工場、1982年12月に静岡県袋井市の静岡工場を竣工している[53]。1978年5月時点の市場占有率はカレー62%、シチュー82%、プリン80%で、調理済みカレー46%、ポテトチップ25%、インスタントラーメン17%が続いた[54]

  • 日経ビジネス 1978年12月18日号
    • [52]1971年の上場から1978年までに新製品70種類、1977年11月期まで17年連続経常増益
    • [54]1978年5月時点でカレー62%・シチュー82%・プリン80%・調理済みカレー46%・ポテトチップ25%・インスタントラーメン17%
  • ハウス食品グループ本社 有価証券報告書 第79期(2025年3月期)【沿革】
    • [53]1973年3月 練りスパイス発売、1973年6月 即席麺発売、1977年6月 スナック食品発売、1976年4月 福岡工場竣工、1982年12月 静岡工場竣工

拡大には費用が伴い、1977年11月期の広告宣伝費は89億7,500万円で売上高の10.5%を占めた[55]。売上高に対する販売費・一般管理費の比率は同期に36.4%となり、1975年11月期から2年間で5.7ポイント上がっている[56]。参入先はさらに広がり、1980年にはチルド(冷蔵)食品事業へ入った[57]。1983年12月には米国カリフォルニア州に合弁会社ハウスフーズ&ヤマウチ社を設立し[58]、豆腐の現地生産にも入っている。

  • 日経ビジネス 1978年12月18日号
    • [55]1977年11月期の広告宣伝費89億7,500万円=売上高の10.5%
    • [56]販管費比率は1977年11月期に36.4%、2年間で5.7ポイント上昇
  • 日経ビジネス 1989年7月31日号
    • [57]1980年 チルド食品事業へ参入
  • ハウス食品グループ本社 有価証券報告書 第79期(2025年3月期)【沿革】
    • [58]1983年12月 合弁会社ハウスフーズ&ヤマウチ社を米国カリフォルニア州に設立
    • [48]1970年11月期末の従業員は職員673名・工員680名の計1,353名、工場3か所・支店営業所8か所
    • [49]主要原材料は輸入依存度が高く、商社・専門商社と長期契約で確保
    • [50]1972年5月中間決算時点でカレー52.7%・プリン67.4%・シチュー93.4%、半期売上高134億8,000万円
  • ハウス食品グループ本社 有価証券報告書 第79期(2025年3月期)【沿革】
    • [51]1973年4月 市場第1部へ指定替え
    • [53]1973年3月 練りスパイス発売、1973年6月 即席麺発売、1977年6月 スナック食品発売、1976年4月 福岡工場竣工、1982年12月 静岡工場竣工
    • [58]1983年12月 合弁会社ハウスフーズ&ヤマウチ社を米国カリフォルニア州に設立
  • 日経ビジネス 1978年12月18日号
    • [52]1971年の上場から1978年までに新製品70種類、1977年11月期まで17年連続経常増益
    • [54]1978年5月時点でカレー62%・シチュー82%・プリン80%・調理済みカレー46%・ポテトチップ25%・インスタントラーメン17%
    • [55]1977年11月期の広告宣伝費89億7,500万円=売上高の10.5%
    • [56]販管費比率は1977年11月期に36.4%、2年間で5.7ポイント上昇
  • 日経ビジネス 1989年7月31日号
    • [57]1980年 チルド食品事業へ参入

創業家2代目の急逝と、鈍った新製品の力

1983年度は静岡の大規模工場の建設と重なって上場後初の減収減益となり、1984年11月には警視庁指定114号事件の脅迫状が届いて業績がさらに悪化した[59]。1985年8月12日、日本航空123便の墜落で浦上郁夫社長が47歳で死去し、同年9月に副社長であった大塚邦彦氏が社長へ就いた[60]。大塚氏は1933年生まれで1955年の入社、1979年に代表取締役副社長に就いていた[61]

  • 日経ビジネス 1993年2月1日号
    • [59]1983年度に上場後初の減収減益、1984年の脅迫事件で業績悪化
    • [60]1985年8月12日 日航123便の墜落で浦上郁夫社長が47歳で死去、同年9月に大塚邦彦が社長就任
  • 日経ビジネス 1992年1月20日号
    • [61]大塚邦彦は1933年生まれ、1955年入社、1979年に代表取締役副社長

交代後の数年は新製品の力が落ち、1989年3月期の新製品寄与率は4.5%と、それ以前の7%強から下がった[62]。この3年間に投入した新製品は年間17種類ほどで、30種類を超えていた時期より少ない[63]。1989年3月期の売上高は約1,503億円、営業利益は前年比2.4%増の約110億円[64]で、部門別ではカレールー468億円が前年度比1.2%増と横ばい、スナック菓子107億円が8.0%減、ラーメン180億円が5.0%減となった[65]。売上高に占める広告宣伝費の比率は1984年の9.47%から1989年の10.2%へ上げ続けており[66]、大量宣伝による大量販売の手法は残っていた。

  • 日経ビジネス 1989年7月31日号
    • [62]1989年3月期の新製品寄与率4.5%、以前は7%強
    • [63]この3年間の新製品投入は年間17種類ほど、かつては30種類超
    • [64]1989年3月期 売上高約1,503億円・営業利益約110億円(前年比2.4%増)
    • [65]1989年3月期 部門別売上高 カレールー468億円(+1.2%)・スナック菓子107億円(-8.0%)・ラーメン180億円(-5.0%)
    • [66]売上高広告宣伝費比率は1984年9.47%から1989年10.2%へ上昇
  • 日経ビジネス 1993年2月1日号
    • [59]1983年度に上場後初の減収減益、1984年の脅迫事件で業績悪化
    • [60]1985年8月12日 日航123便の墜落で浦上郁夫社長が47歳で死去、同年9月に大塚邦彦が社長就任
  • 日経ビジネス 1992年1月20日号
    • [61]大塚邦彦は1933年生まれ、1955年入社、1979年に代表取締役副社長
  • 日経ビジネス 1989年7月31日号
    • [62]1989年3月期の新製品寄与率4.5%、以前は7%強
    • [63]この3年間の新製品投入は年間17種類ほど、かつては30種類超
    • [64]1989年3月期 売上高約1,503億円・営業利益約110億円(前年比2.4%増)
    • [65]1989年3月期 部門別売上高 カレールー468億円(+1.2%)・スナック菓子107億円(-8.0%)・ラーメン180億円(-5.0%)
    • [66]売上高広告宣伝費比率は1984年9.47%から1989年10.2%へ上昇

首位グループを走れない事業から抜ける基準

1988年、大塚社長は1969年に導入したプロダクトマネージャー制度に手を入れた[67]。従来は社長直属の部隊が製品の開発から販売まで一貫して責任を負い、発売も中止も決めていたが、目先の販売促進に力が偏って独自な商品が出なくなった[68]ためである。営業本部内にマーケティングマネージャーを新設して新製品の育成と販促を任せ、プロダクトマネージャーには一歩先の開発に専念させた[69]。選別も、味や包装や価格を消費者の側から検討する新製品開発委員会と、投資や採算を企業の側から検討する役員レベルの新製品検討会の二重構造へ改めている[70]

  • 日経ビジネス 1992年1月20日号
    • [67]1988年に新製品を出すルールと組織体制を改め、1969年導入のプロダクトマネージャー制度を見直し
    • [68]プロダクトマネージャーは社長直属で開発から販売まで一貫責任を負ったが、目先の販促に偏り独自商品が出なくなった
    • [69]営業本部内にマーケティングマネージャーを新設し新製品の育成・販促を分離
    • [70]新製品開発委員会と役員レベルの新製品検討会による二重の審査体制

1991年末、大塚社長はチルド食品事業からの撤退を決めた[71]。参入は1980年で、生に近い食品への需要を背景に市場は毎年2桁近い伸びを見せていたが、自前の配送網を持たなかったことが響き[72]、最後の2〜3年の売上高は20億円程度にとどまっていた。撤退の理由は、その分野で首位グループを走れる見込みがないのであれば時流に乗った事業でも意味がない[73]という判断にあった。提案に賛成する声は少なく、大塚社長は、新しいことを始める時は皆の意見を聞く必要があるが撤退する場合はトップが我を通させてもらう[74]と説いて回っている。新規事業は5年をひととおりの期限とし、1990年に二つ、1991年に一つの事業から[75]手を引いた。

  • 日経ビジネス 1993年2月1日号
    • [71]1991年末 チルド食品事業からの撤退を決定
    • [72]チルド食品事業は1980年参入、自前の配送網を持たず最後の2〜3年の売上高は20億円程度
    • [74]大塚社長「撤退する場合はトップが我を通させてもらう」
  • 日経ビジネス 1992年1月20日号
    • [73]撤退の判断基準は その分野でトップグループを走れる見込みがあるか
    • [75]新規事業は5年を目処とし、1990年に二つ、1991年に一つの事業から撤退

方針は商品の単位にも及び、業務用を除いておよそ750アイテムあった商品のうち1989年度に55、1990年度に76を廃止した[76]。新製品を出す社内ルールも、リスクがあっても他社より先に出すこと、独自性のあるものに絞ること、価格は安くなくとも品質の面で高級化を図ることの三つに絞り[77]、当てはまらない商品は出さないと決めている。絞り込みはすぐには受け入れられず、業界では『ハウスは最近おかしい』とささやかれ、取引先からも批判を受けて停滞は4〜5年続いた[78]。それでも返品率は7%近くから0.47%まで下がり[79]、『六甲のおいしい水』は1991年に売上高90億円と家庭用で5割近い首位のシェアへ育った[80]

  • 日経ビジネス 1992年1月20日号
    • [76]商品数は業務用を除き約750アイテム、1989年度に55・1990年度に76を廃止
    • [77]新製品の社内ルールを「先発」「独自性」「品質の高級化」の三条件に限定
    • [80]「六甲のおいしい水」は1991年に売上高90億円・家庭用で5割近いシェア
  • 日経ビジネス 1993年2月1日号
    • [78]絞り込みは社内外の批判を招き、定着まで4〜5年を要した
    • [79]返品率は7%近くから0.47%へ低下
  • 日経ビジネス 1992年1月20日号
    • [67]1988年に新製品を出すルールと組織体制を改め、1969年導入のプロダクトマネージャー制度を見直し
    • [68]プロダクトマネージャーは社長直属で開発から販売まで一貫責任を負ったが、目先の販促に偏り独自商品が出なくなった
    • [69]営業本部内にマーケティングマネージャーを新設し新製品の育成・販促を分離
    • [70]新製品開発委員会と役員レベルの新製品検討会による二重の審査体制
    • [73]撤退の判断基準は その分野でトップグループを走れる見込みがあるか
    • [75]新規事業は5年を目処とし、1990年に二つ、1991年に一つの事業から撤退
    • [76]商品数は業務用を除き約750アイテム、1989年度に55・1990年度に76を廃止
    • [77]新製品の社内ルールを「先発」「独自性」「品質の高級化」の三条件に限定
    • [80]「六甲のおいしい水」は1991年に売上高90億円・家庭用で5割近いシェア
  • 日経ビジネス 1993年2月1日号
    • [71]1991年末 チルド食品事業からの撤退を決定
    • [72]チルド食品事業は1980年参入、自前の配送網を持たず最後の2〜3年の売上高は20億円程度
    • [74]大塚社長「撤退する場合はトップが我を通させてもらう」
    • [78]絞り込みは社内外の批判を招き、定着まで4〜5年を要した
    • [79]返品率は7%近くから0.47%へ低下

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

ハウス食品グループ本社の沿革1926〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1913〜1971年薬種問屋がカレーの窯を持ち、即席カレーで首位に立つまで薬種問屋からカレー粉の自社製造への転換

1926年、大阪で薬種化学原料店を営んでいた浦上靖介氏が、個人経営のホーム食品を吸収し、現在の東大阪市御厨に工場を設けてカレー粉・胡椒・七味の製造を始めた経営判断。仕入れて売る問屋から、自ら作って売る製造業への転換にあたる。

詳細を読む
★★★
工場を新設
カレー粉の製造を開始★★
浦上糧食工業所を設立
名称をハウスカレー浦上商店に商号変更
東大阪工場にカレー製造工場竣工
名称をハウス食品工業に商号変更
バーモントカレー発売★★
プリンミクス発売
奈良工場竣工
関東工場竣工
合弁会社サンハウス食品を設立しレトルト食品発売★★
東京・大阪証券取引所市場第2部上場
1971〜1991年品目を広げて伸びた会社と、首位を走れない事業の整理即席麺発売
スナック食品発売
静岡工場竣工
カリフォルニア州にハウスフーズ&ヤマウチを合弁設立★★
子会社デリカシェフ設立
決算期を11月30日から3月31日に変更
子会社カレーハウスアメリカ社を米カリフォルニア州に設立
低シェア事業からの撤退方針とチルド食品事業の全面撤退

成長分野であっても首位グループを走れない事業からは撤退し、資源を上位を取れる商品へ集中させる方針への転換

詳細を読む
★★★
1991〜2015年2本社体制へ移り、健康食品と海外を育てるまでソマテックセンター(研究所)竣工
ハウス食品に商号変更、東京・大阪2本社体制に変更
子会社カレーハウスアメリカ社をハウスフーズアメリカ社に吸収合併
東京本社ビル竣工
小瀬昉合弁会社上海ハウス味の素食品社設立
小瀬昉ウコンの力発売★★
小瀬昉ギャバンと業務提携
小瀬昉朝岡スパイスを子会社化
小瀬昉ハウスウェルネスフーズを子会社化★★
浦上博史ミネラルウォーター事業を譲渡
浦上博史ヴォークス・トレーディングの株式を取得し東南アジア子会社等を子会社化★★
浦上博史持株会社体制に移行し社名をハウス食品グループ本社に商号変更★★
浦上博史壱番屋へのTOBによる子会社化と、外食事業の取り込み

2015年10月30日、ハウス食品グループ本社が『カレーハウスCoCo壱番屋』を展開する壱番屋へのTOBを決議した。1株6,000円で最大301億2,660万円を投じ、所有割合を19.55%から51.00%へ引き上げる内容で、同年12月1日に成立し壱番屋を連結子会社とした。

詳細を読む
★★★
2015〜2026年持株会社体制と買収、そしてスパイス系への絞り直し浦上博史ギャバンを子会社化
浦上博史大黒商事を子会社化
浦上博史キーストーンナチュラルHD社を子会社化
浦上博史PT Sasa Intiと合弁会社ササハウスフーズインドネシア社を設立し子会社化
浦上博史子会社ハウス食品グループ東北工場設立
浦上博史壱番屋の非公開化を含む選択肢の検討

2026年8月31日、ハウス食品グループ本社は「当社に関する一部報道について」を開示した。同日の日本経済新聞電子版が同社による壱番屋株式の売却を含む壱番屋の非公開化を報じたことを受けたもので、当社が公表したものではないとしたうえで、企業価値及び株式価値の向上に向けて壱番屋の非公開化を含むあらゆる選択肢の検討を行っており、現時点において具体的に決定した事実はない、と表明した。

詳細を読む
★★
出典・参考

免責事項およびポリシー