キッコーマン の歴史

更新: Author:

創業 1917年
創業者 茂木家・高梨家
創業地 千葉県野田市
創業
1917年12月、千葉県野田で茂木家・高梨家に連なる一族八家が各造家の事業を合同し、資本金700万円を全額払い込んで野田醤油株式会社を設立した。初代社長には茂木七郎右衛門氏が就任している。醸造そのものは1661年に両家の祖先が起こしたもので、合同は家業ごとに分かれていた生産を一つの会社へまとめる作業だった。1921年ごろから作業の機械化と工程の立体化に着手し、1926年3月に竣工した第17工場が醤油業界における近代式量産化の先駆となる。ただし量産への移行は労使の衝突を伴い、1927年9月からは217日におよぶ大罷業が続いた。1949年5月に東京証券取引所へ上場している。
決断
売る商品より先に、その商品を使う料理のほうを現地へ持ち込んできた。北米では輸出で用途を広げ、需要を確かめてから設備へ進んでいる。1971年の役員会は、需要が最小経済単位の工場を持てる量に達したこと、工場を建てれば製品と原料の運賃を節減できること、日米の人件費差が縮んだことの三点を挙げ、翌1972年に会社の資本金を上回る資金を米国の醤油工場へ投じた。醤油の蔵にはそれぞれ独自の菌がすみついていると信じられており、異国で同じ味を出せるかという不安は役員のあいだに根強かった。1973年6月にウィスコンシン州ウォルワースの工場が稼働し、出荷量は製造初年度の30倍に達する。国内では1995年2月に米国帰りの茂木友三郎氏が社長に就任し、同族色の強い意思決定を情報集約と商品別責任制へ改めた。
現況
利益のほぼ半分は、米国で仕込んだ醤油から出ている。2026年3月期の連結売上高は7,455億円、営業利益759億円。セグメント別では海外食料品製造・販売が売上1,494億円でセグメント利益409億円を稼ぎ、売上の2割で利益の49%を占める。売上で最大の海外食料品卸売は4,328億円あるが利益は307億円で、利益率は7%にとどまる。国内食料品製造・販売は1,557億円・99億円である。地域別の売上は日本1,654億円に対し米国3,700億円で、日本は2割強にすぎない。中野祥三郎社長は2025年の中期経営計画で10年に約5億6,000万米ドルを投じ、北米第3工場を中心に現地の生産能力を3割から4割引き上げる計画を示した。
競合
国内では棚の価格を握れず、海外では自社で決めている。1954年の全国醤油生産高515万石のうち野田醤油は70万9,000石を占め、2位のヤマサ醤油20万2,000石に3倍を超える差をつけていた。国内での順位はその後も動いていない。ただし市場そのものが縮み、1990年代には流通が主導権を握って自社ブランドの価格攻勢を受ける。1996年4月、キッコーマンはプロダクト・マネジャー制を敷いて『攻め』へ転じ、商品開発と販売の速度を上げた。それでも国内食料品製造・販売の利益率は6%台にとどまる。対する海外食料品製造・販売は27%で、用途から作った市場では価格の決め方まで自社に残った。この差が、国内首位の会社の収益源を米国へ移した。
キッコーマン:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年12月期2026年3月期

創業ストーリー 一族八家の合同と量産化による国内首位の形成 (1917年〜)

個人企業の合同と株式会社への改組

千葉県野田の醤油醸造は室町時代の永禄年間に飯田市郎兵衛氏が始め[1]、寛文年間の1661年には茂木家と高梨家の祖先が醤油業を起こした[2][3]。1917年12月、両家に連なる一族八家の各造家が事業を合同して個人企業を会社組織へ改め[4]、資本金700万円を全額払込で[5]野田醤油株式会社を設立し[6]、初代社長には茂木七郎右衛門氏が就いた[7]。合同の直後から個人経営にありがちな旧弊の一掃に努めて諸般の改革を断行し[8]、1918年2月に大阪出張所、1921年3月に製樽工場、同年4月に水道設備を設けた[9]。1949年5月には東京証券取引所へ株式を上場した[10]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [1]室町時代の永禄年間 飯田市郎兵衛が野田で醤油を始醸
    • [2]寛文年間1661年 茂木・高梨の祖先が醤油業を起業
    • [4]1917年12月 茂木・高梨一族八家が事業を合同し個人企業を会社組織へ改組
    • [5]資本金700万円 全額払込
    • [7]初代社長 茂木七郎右衛門
    • [8]創立当初は個人経営にありがちな旧弊の一掃に努め諸般の改革を断行
    • [9]1918年2月 大阪出張所開設、1921年3月 製樽工場、同年4月 水道設備を設置
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
    • [3]寛文年間1661年 茂木・高梨の祖先が野田で醤油業を起す
  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1917年12月 野田醤油株式会社設立
    • [10]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場

1921年ごろから作業の機械化と工程の立体化を図り、大量生産を目ざして大工場の建設を始めた[11]。1926年3月に竣工した第17工場[12]は、日本の醤油業界における近代式量産化の先駆となった。これを契機に有力業者のあいだで設備拡張の気運が起き、業界は生産過剰に陥って市場は行きづまり状態を呈したため、有力業者間で東京市場への出荷数量と価格の維持安定を期する協調策が採られた[13]。生産の拡大と並行して製品の種類も増やし、1925年4月に万上味醂(千葉県流山町)を合併して酒造事業を継承し[14][15]、日本醤油(朝鮮仁川)の合併と鮮満への出張所設置で大陸進出の素地を作り、同年8月に資本金を3000万円とした[16]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [11]1921年ごろから作業の機械化・工程の立体化と大量生産のための大工場建設に着手
    • [12]1926年3月 第17工場竣工 わが国醤油業界における近代式量産化の先駆
    • [13]有力業者間で東京市場への出荷数量および価格の維持安定を期する協調策
    • [14]1925年4月 万上味醂(千葉県流山町)を合併し酒造事業を継承
    • [16]日本醤油(朝鮮仁川)の合併と鮮満への出張所設置、1925年8月 資本金3000万円
  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [15]1925年4月 万上味醂株式会社(現流山キッコーマン株式会社)を吸収合併
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [1]室町時代の永禄年間 飯田市郎兵衛が野田で醤油を始醸
    • [2]寛文年間1661年 茂木・高梨の祖先が醤油業を起業
    • [4]1917年12月 茂木・高梨一族八家が事業を合同し個人企業を会社組織へ改組
    • [5]資本金700万円 全額払込
    • [7]初代社長 茂木七郎右衛門
    • [8]創立当初は個人経営にありがちな旧弊の一掃に努め諸般の改革を断行
    • [9]1918年2月 大阪出張所開設、1921年3月 製樽工場、同年4月 水道設備を設置
    • [11]1921年ごろから作業の機械化・工程の立体化と大量生産のための大工場建設に着手
    • [12]1926年3月 第17工場竣工 わが国醤油業界における近代式量産化の先駆
    • [13]有力業者間で東京市場への出荷数量および価格の維持安定を期する協調策
    • [14]1925年4月 万上味醂(千葉県流山町)を合併し酒造事業を継承
    • [16]日本醤油(朝鮮仁川)の合併と鮮満への出張所設置、1925年8月 資本金3000万円
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
    • [3]寛文年間1661年 茂木・高梨の祖先が野田で醤油業を起す
  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [6]1917年12月 野田醤油株式会社設立
    • [10]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
    • [15]1925年4月 万上味醂株式会社(現流山キッコーマン株式会社)を吸収合併

労働争議と設備の整備、大陸への進出

量産体制への移行は労使の衝突を伴った[17]。1919年1月と1923年3月に同盟罷業が起き、1927年9月からは217日におよぶ大罷業が続いた[18]。1926年4月の工場完成披露のころには、野田一帯で労働運動に警察力が追いつかず、一時は無警察状態におちいった[19]。関東大震災の被災も重なり[20]、この時期の野田醤油は相当の受難があった。争議のさなかも設備の整備は続き、1927年2月に本店新館を落成、同年4月に東京出張所を新設し、1929年9月に醸造試験所を改築、1930年9月には壜詰工場を建設した[21]。関西方面の需要増加と工場の地方分散を目的として、1931年9月には兵庫県加古郡荒井村に関西工場を建設し[22]、出荷を開始した[23]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [17]量産体制への移行に伴う労使の衝突
    • [18]1919年1月・1923年3月 同盟罷業、1927年9月から217日にわたる大罷業
    • [20]関東大震災の被災など相当の受難
    • [21]1927年2月 本店新館落成、同年4月 東京出張所新設、1929年9月 醸造試験所改築、1930年9月 壜詰工場建設
    • [22]関西方面の需要増加と工場の地方分散を目的に1931年9月 兵庫県加古郡荒井村へ関西工場を建設し出荷開始
  • 読売新聞(1926年4月5日)
    • [19]1926年4月 野田は一時無警察状態
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
    • [23]関西工場は兵庫県加古郡荒井村に建設、1931年9月に出荷開始

関西工場の建設が進んだころから業界は生産過剰気味となり、景気後退と重なって競争が激化した[24]。1931年3月には有力業者間で生産販売協定が結ばれ、出荷制限が実施された[25]。しかし満州事変の進展とともに醤油市場は不振におちいり、極端な景品付販売で販売戦が混乱したため、1933年に生産販売協定は解消された[26]。醤油製造業者の数は1923年の全国約1万5000軒から1929年には8500軒へ減り[27]、東京市場をめぐる販売戦は『野田側6分、銚子側4分の形勢』[引用元][28]にあった。1936年11月の全醤聯大会で景品付売出の撤廃が決議され[29]、日華事変の勃発でこの乱売戦はいったん終わった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [24]生産過剰気味となり景気後退と相まって競争が激化
    • [25]1931年3月 有力業者間で生産販売協定・出荷制限を実施
    • [26]満州事変で醤油市場が不振、景品付販売で販売戦が混乱し1933年に生産販売協定解消
    • [29]1936年11月 全醤聯大会で景品付売出撤廃を決議、日華事変の勃発で乱売戦が終息
  • 読売新聞(1929年8月29日)
    • [27]醤油製造業者 1923年 全国約1.5万軒から1929年 8500軒へ減少
    • [28]東京市場の販売戦は野田側6分・銚子側4分の形勢

大陸への展開は1936年12月の満州野田醤油の設立[30]から本格化した。奉天出張所を拡充して現地の会社とし[31]、1937年5月に銚子醤油との資本提携が成立、1938年には天津出張所と北京工場を建設した[32]。1939年1月に醤油価格が釘付けとなり、戦時統制のもとで公定価格の設定、製品規格の制限、原料資材の割当、消費規制が相次いで加えられた[33]。1942年には昭南に出張所と工場を、メダンとクアラルンプールに工場を開設した[34]。技術面では新式醤油醸造法の工業化に成功し、1944年1月にその技術を公開して業界に広めた[35]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [30]1936年12月 奉天出張所を拡充して満州野田醤油を設立
    • [32]1937年5月 銚子醤油と資本提携、1938年 天津出張所・北京工場を建設
    • [33]1939年1月 醤油価格の釘付け、戦時統制で公定価格・製品規格制限・原料資材割当・消費規制
    • [34]1942年 昭南に出張所と工場、メダン・クアラルンプールに工場を開設
    • [35]新式醤油醸造法の工業化に成功、1944年1月に技術公開
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
    • [31]1936年 奉天出張所を拡充し満州野田醤油を設立、大陸進出の拠点とする
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [17]量産体制への移行に伴う労使の衝突
    • [18]1919年1月・1923年3月 同盟罷業、1927年9月から217日にわたる大罷業
    • [20]関東大震災の被災など相当の受難
    • [21]1927年2月 本店新館落成、同年4月 東京出張所新設、1929年9月 醸造試験所改築、1930年9月 壜詰工場建設
    • [22]関西方面の需要増加と工場の地方分散を目的に1931年9月 兵庫県加古郡荒井村へ関西工場を建設し出荷開始
    • [24]生産過剰気味となり景気後退と相まって競争が激化
    • [25]1931年3月 有力業者間で生産販売協定・出荷制限を実施
    • [26]満州事変で醤油市場が不振、景品付販売で販売戦が混乱し1933年に生産販売協定解消
    • [29]1936年11月 全醤聯大会で景品付売出撤廃を決議、日華事変の勃発で乱売戦が終息
    • [30]1936年12月 奉天出張所を拡充して満州野田醤油を設立
    • [32]1937年5月 銚子醤油と資本提携、1938年 天津出張所・北京工場を建設
    • [33]1939年1月 醤油価格の釘付け、戦時統制で公定価格・製品規格制限・原料資材割当・消費規制
    • [34]1942年 昭南に出張所と工場、メダン・クアラルンプールに工場を開設
    • [35]新式醤油醸造法の工業化に成功、1944年1月に技術公開
  • 読売新聞(1926年4月5日)
    • [19]1926年4月 野田は一時無警察状態
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
    • [23]関西工場は兵庫県加古郡荒井村に建設、1931年9月に出荷開始
    • [31]1936年 奉天出張所を拡充し満州野田醤油を設立、大陸進出の拠点とする
  • 読売新聞(1929年8月29日)
    • [27]醤油製造業者 1923年 全国約1.5万軒から1929年 8500軒へ減少
    • [28]東京市場の販売戦は野田側6分・銚子側4分の形勢

統制撤廃後の自由競争と首位の固定

戦時中の原料事情の窮迫で生産高は減り、品質規格は引き下げられ、一人当たり消費量も戦前の半量に規整された[36]。1947年の全国醤油生産高は終戦後の最低となり、野田醤油の生産も創立以来の最低[37]を記録した。1948年以降は経済事情が好転し、1950年7月の統制撤廃で業界は自由競争へ復帰[38]した。しかし1951年下期ごろから生産高は飽和状態となって競争が激しくなり、景品付特売が再び登場したため、1952年4月にこれは不公正競争として禁止された[39]。野田醤油はこの間に手持ち醪の充実、生産設備の改善増強、醸造技術と歩留の向上を図り、東京出張所を新築し九州出張所を開設して営業部門を整えた[40][41]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [36]原料事情の窮迫で生産高減少・品質規格引下げ・一人当り消費量を戦前の半量に規整
    • [37]1947年 全国醤油生産高が終戦後最低、当社生産も創立以来の最低
    • [39]1951年下期ごろから生産高が飽和し競争激化、景品付特売は1952年4月に不公正競争として禁止
    • [40]手持醪の充実・生産設備の改善増強・醸造技術と歩留の向上・東京出張所新築・九州出張所開設
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
    • [38]1948年以降の経済好転、1950年7月の統制撤廃で業界が自由競争へ復帰
    • [41]戦後に生産設備の改善増強と醸造技術向上を図り東京出張所新築・九州出張所開設で営業部門を整備

1954年の全国醤油生産高515万石のうち、野田醤油は70万9000石[42]を占めた。2位のヤマサ醤油は20万2000石、ヒゲタ醤油13万1000石、丸金醤油11万7000石で、四大メーカー計116万石に対し、その他の約6000軒が399万石[43]を分け合っていた。輸出は北米・ハワイ・沖縄が中心で、同年の全国輸出9300石のうち84%[44]を野田醤油が占めた。製品はキッコーマン醤油を軸に、1925年4月の万上印味醂・直酎・焼酎、1936年のキッコーマンソース、1952年9月の新清酒『四方の春』[45]と広げ、1954年の出荷はソース1万8000石、酒類4万8000石、年間総売上高は91億3000万円であった[46]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [42]1954年 全国醤油生産高515万石のうち野田醤油70万9000石
    • [43]1954年 ヤマサ20万2000石・ヒゲタ13万1000石・丸金11万7000石、四大メーカー計116万石、その他約6000軒で399万石
    • [44]1954年 輸出は北米・ハワイ・沖縄が中心、全国輸出9300石のうち当社84%
    • [45]1925年4月 万上印味醂・直酎・焼酎、1936年 キッコーマンソース発売、1952年9月 新清酒「四方の春」出荷
    • [46]1954年 出荷はソース1万8000石・酒類4万8000石、年間総売上高91億3000万円

寡占的な地位は独占禁止法上の規律も呼び込み、1955年12月には公正取引委員会が『野田醤油の行為が自由競争を阻害している』[引用元]として[47]『しょう油の卸売価格または、小売価格については販売業者にいかなる干渉をしてはならない』[引用元][48]と審決した。株式市場では前年の1954年11月に『食品株では味の素といろいろの点で比較される。内容のよいことでは放って記し、売上高もだいたい同じ』[引用元][49]と評価されていた。資本金は1948年10月に8000万円、1950年12月に2億円へ増え、1952年の無償交付一対一で4億円、1955年7月の有償無償半々の倍額増資で8億円[50]となった。

  • 読売新聞(1955年12月28日)
    • [47]1955年12月28日 公正取引委員会が野田醤油の行為を自由競争の阻害と審決
    • [48]卸売価格・小売価格について販売業者に干渉してはならないとの審決
  • 読売新聞(1954年11月20日)
    • [49]1954年11月 株式評で味の素と比較され内容・売上高がほぼ同じと評価
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [50]資本金 1948年10月8000万円→1950年12月2億円→1952年無償交付で4億円→1955年7月倍額増資で8億円
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
    • [36]原料事情の窮迫で生産高減少・品質規格引下げ・一人当り消費量を戦前の半量に規整
    • [37]1947年 全国醤油生産高が終戦後最低、当社生産も創立以来の最低
    • [39]1951年下期ごろから生産高が飽和し競争激化、景品付特売は1952年4月に不公正競争として禁止
    • [40]手持醪の充実・生産設備の改善増強・醸造技術と歩留の向上・東京出張所新築・九州出張所開設
    • [42]1954年 全国醤油生産高515万石のうち野田醤油70万9000石
    • [43]1954年 ヤマサ20万2000石・ヒゲタ13万1000石・丸金11万7000石、四大メーカー計116万石、その他約6000軒で399万石
    • [44]1954年 輸出は北米・ハワイ・沖縄が中心、全国輸出9300石のうち当社84%
    • [45]1925年4月 万上印味醂・直酎・焼酎、1936年 キッコーマンソース発売、1952年9月 新清酒「四方の春」出荷
    • [46]1954年 出荷はソース1万8000石・酒類4万8000石、年間総売上高91億3000万円
    • [50]資本金 1948年10月8000万円→1950年12月2億円→1952年無償交付で4億円→1955年7月倍額増資で8億円
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
    • [38]1948年以降の経済好転、1950年7月の統制撤廃で業界が自由競争へ復帰
    • [41]戦後に生産設備の改善増強と醸造技術向上を図り東京出張所新築・九州出張所開設で営業部門を整備
  • 読売新聞(1955年12月28日)
    • [47]1955年12月28日 公正取引委員会が野田醤油の行為を自由競争の阻害と審決
    • [48]卸売価格・小売価格について販売業者に干渉してはならないとの審決
  • 読売新聞(1954年11月20日)
    • [49]1954年11月 株式評で味の素と比較され内容・売上高がほぼ同じと評価

米国販売会社の設立と多角化の第一歩

1957年6月、米国にKIKKOMAN INTERNATIONAL INC.を設立した[51]。国内は『4大メーカーから、下は家内工業的な零細メーカーまで実に5000の醤油会社が、この狭い国内でしのぎを削っている』[引用元][52]状態で、見本の大量配布を含む販売競争が販売宣伝費を押し上げていた[53]。米国では醤油が日本食向けの特殊な調味料にとどまっていたが、西部アメリカのほとんどの主要都市でスーパーマーケットの販売権を取得し[54]、調理実演を重ねて一般家庭へ売り込んだ[55]。1961年には味の素と並ぶ国際商品として注目を集めるまでになった[56]

  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1957年6月 米国にKIKKOMAN INTERNATIONAL INC.を設立
  • 読売新聞(1957年11月13日)
    • [52]1957年 国内には4大メーカーから零細まで5000の醤油会社
    • [53]見本の大量配布を含む販売競争で販売宣伝費が相当高くつく
  • 実業の世界 1961年2月号
    • [54]西部アメリカのほとんどの主要都市でスーパーマーケットの権利を取得
    • [55]スーパーマーケットにおける調理実習が人気を呼び黒山の人だかりを集めた
    • [56]1961年 米国で爆発的な人気を呼び味の素とともに国際商品として注目

国内では醤油の周辺へ事業を広げ、1961年7月に吉幸食品工業を設立した[57]。同社は1963年1月にキッコー食品工業、1991年7月に日本デルモンテへ商号を変えた[58]。1962年2月には利根飲料を設立して翌年に利根コカ・コーラボトリングへ改称し[59]、同年10月には勝沼洋酒を設立して1964年3月にマンズワインとした[60]。1964年10月[61]、社名を野田醤油からキッコーマン醤油へ改めた[62]。1967年12月期の売上高は333億1800万円、税引利益は9億3800万円で、醤油の売上比率は82%[63]を占めていた。米国向け輸出醤油では1968年時点で9割を握り、輸出体制の強化で『世界のキッコーマン醤油』を目ざす方針[64]を掲げていた。

  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [57]1961年7月 吉幸食品工業設立、1963年1月キッコー食品工業、1991年7月日本デルモンテへ商号変更
    • [58]吉幸食品工業は1963年1月キッコー食品工業、1991年7月日本デルモンテへ商号変更
    • [59]1962年2月 利根飲料設立、1963年2月 利根コカ・コーラボトリングへ商号変更
    • [60]1962年10月 勝沼洋酒設立、1964年3月 マンズワインへ商号変更
    • [61]1964年10月 キッコーマン醤油株式会社へ商号変更
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
    • [62]1964年10月19日 新しい時代にふさわしいキッコーマン醤油へ社名変更
    • [63]1967年12月期 売上高333億1800万円・税引利益9億3800万円、醤油の売上比率82%
    • [64]1968年時点で米国向け輸出醤油の9割を占め「世界のキッコーマン醤油」を目ざす

1969年6月、日系の食品卸会社JAPAN FOOD CORPORATIONに経営参加し[65]、同社は1978年6月にJFC INTERNATIONAL INC.へ商号を変えた[66]。1970年3月には太平洋貿易にも経営参加した[67]

  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [65]1969年6月 JAPAN FOOD CORPORATION(米国)に経営参加、1978年6月 JFC INTERNATIONAL INC.へ商号変更
    • [66]1978年6月 JFC INTERNATIONAL INC.へ商号変更
    • [67]1970年3月 太平洋貿易株式会社に経営参加
  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1957年6月 米国にKIKKOMAN INTERNATIONAL INC.を設立
    • [57]1961年7月 吉幸食品工業設立、1963年1月キッコー食品工業、1991年7月日本デルモンテへ商号変更
    • [58]吉幸食品工業は1963年1月キッコー食品工業、1991年7月日本デルモンテへ商号変更
    • [59]1962年2月 利根飲料設立、1963年2月 利根コカ・コーラボトリングへ商号変更
    • [60]1962年10月 勝沼洋酒設立、1964年3月 マンズワインへ商号変更
    • [61]1964年10月 キッコーマン醤油株式会社へ商号変更
    • [65]1969年6月 JAPAN FOOD CORPORATION(米国)に経営参加、1978年6月 JFC INTERNATIONAL INC.へ商号変更
    • [66]1978年6月 JFC INTERNATIONAL INC.へ商号変更
    • [67]1970年3月 太平洋貿易株式会社に経営参加
  • 読売新聞(1957年11月13日)
    • [52]1957年 国内には4大メーカーから零細まで5000の醤油会社
    • [53]見本の大量配布を含む販売競争で販売宣伝費が相当高くつく
  • 実業の世界 1961年2月号
    • [54]西部アメリカのほとんどの主要都市でスーパーマーケットの権利を取得
    • [55]スーパーマーケットにおける調理実習が人気を呼び黒山の人だかりを集めた
    • [56]1961年 米国で爆発的な人気を呼び味の素とともに国際商品として注目
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
    • [62]1964年10月19日 新しい時代にふさわしいキッコーマン醤油へ社名変更
    • [63]1967年12月期 売上高333億1800万円・税引利益9億3800万円、醤油の売上比率82%
    • [64]1968年時点で米国向け輸出醤油の9割を占め「世界のキッコーマン醤油」を目ざす

ウォルワース工場という前例のない投資

1971年、キッコーマン醤油は役員会で米国での醤油の現地製造を正式な議題とした[68]。判断の根拠は三つあり、醤油の需要が順調に伸びて最小経済単位の工場を持てる量に達しつつあること[69]、海上運賃が年々上昇しており工場を建てれば製品運賃に加えて間接的に原料の運賃も節減できること[70]、日本人の人件費が急上昇して米国との差が縮小しつつあることだった[71]。この三点から『アメリカへ工場を作ろう』[引用元]との意思決定が行われた[72]。役員会では、醤油の蔵にはそれぞれ独自の菌がすみついていると信じられており、微妙な味を異国の地で出せるかという不安が根強かった[73]

  • 日本醸造協会雑誌 1972年12月15日号(茂木友三郎)
    • [68]1971年 役員会で米国での醤油の現地製造を正式な議題とする
    • [69]醤油の需要が順調に伸び最小経済単位の工場を持てる量に達しつつある
    • [70]海上運賃の上昇で工場建設により製品運賃と間接的に原料の運賃も節減できる
    • [71]日本人の人件費が年々急上昇し米国との差が縮小しつつある
    • [72]「アメリカへ工場を作ろう」との意思決定
  • 日経ビジネス 1978年4月24日号
    • [73]蔵付きの菌への信仰と、微妙な味を異国で出せるかという役員の不安

1972年3月、米国にKIKKOMAN FOODS, INC.を設立した[74]。用地はウィスコンシン州ウォルワースの農村地帯に求め、『200エーカーの土地を購入したが、当初は大きすぎるけれども、将来の発展を期待して大きなものを買った』[引用元][75]と、後の拡張余地まで見込んだ広さを取得した。建設には地元の農民や環境保護派が反発し、『絶対に工場を作らせない』[引用元]という声が上がった[76]。茂木友三郎氏は『まるで選挙に立候補したかのように、農家の集まりに出向いたり個人宅を訪問して握手したり』[引用元]して、一軒ずつ合意を取りつけた。

  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [74]1972年3月 KIKKOMAN FOODS, INC.(米国)を設立
  • 日本醸造協会雑誌 1972年12月15日号(茂木友三郎)
    • [75]ウィスコンシン州ウォルワースの農村地帯に200エーカーの土地を取得
  • 日本醸造協会雑誌(1976年)
    • [76]地元の反対「絶対に工場を作らせない」

工場は1973年6月に稼働した[77]。落成の挨拶で茂木啓三郎氏は『この工場は、キッコーマンのアメリカ工場ではなく、アメリカのキッコーマン工場である』[引用元][78]と述べた。設備は思い切って近代化し、日本より進んだ実験を経て日本と同じ製品[79]を現地で作れた。1978年時点のキッコーマン醤油は1社で35%のシェアを握り[80]、米国では『オール・パーパス・シーズニング(万能調味料)といって、ステーキだけでなく、サラダにかけたり、スープに2、3滴たらしたり、どんどん新しい用途が広がっている』[引用元][81]市場を得た。茂木啓三郎氏は海外で通用する理由を『食べ物は本物であって、うまいことが非常に大事なんです』[引用元][82]と語った。

  • キッコーマン国際食文化研究センター「MADE IN USAのKIKKOMAN」(キッコーマングループ企業情報サイト)
    • [77]1973年6月 ウォルワース工場が稼働、「アメリカのキッコーマン工場」との挨拶
    • [78]茂木啓三郎の落成挨拶「キッコーマンのアメリカ工場ではなくアメリカのキッコーマン工場」
  • 日経ビジネス 1978年4月24日号
    • [79]設備を思い切って近代化し日本より進んだ実験を経て日本と同じ製品ができた
    • [80]1978年 1社で35%のシェア
    • [81]米国で醤油がオール・パーパス・シーズニングとして用途を広げた
    • [82]茂木啓三郎「食べ物は本物であって、うまいことが非常に大事なんです」
  • 日本醸造協会雑誌 1972年12月15日号(茂木友三郎)
    • [68]1971年 役員会で米国での醤油の現地製造を正式な議題とする
    • [69]醤油の需要が順調に伸び最小経済単位の工場を持てる量に達しつつある
    • [70]海上運賃の上昇で工場建設により製品運賃と間接的に原料の運賃も節減できる
    • [71]日本人の人件費が年々急上昇し米国との差が縮小しつつある
    • [72]「アメリカへ工場を作ろう」との意思決定
    • [75]ウィスコンシン州ウォルワースの農村地帯に200エーカーの土地を取得
  • 日経ビジネス 1978年4月24日号
    • [73]蔵付きの菌への信仰と、微妙な味を異国で出せるかという役員の不安
    • [79]設備を思い切って近代化し日本より進んだ実験を経て日本と同じ製品ができた
    • [80]1978年 1社で35%のシェア
    • [81]米国で醤油がオール・パーパス・シーズニングとして用途を広げた
    • [82]茂木啓三郎「食べ物は本物であって、うまいことが非常に大事なんです」
  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
    • [74]1972年3月 KIKKOMAN FOODS, INC.(米国)を設立
  • 日本醸造協会雑誌(1976年)
    • [76]地元の反対「絶対に工場を作らせない」
  • キッコーマン国際食文化研究センター「MADE IN USAのKIKKOMAN」(キッコーマングループ企業情報サイト)
    • [77]1973年6月 ウォルワース工場が稼働、「アメリカのキッコーマン工場」との挨拶
    • [78]茂木啓三郎の落成挨拶「キッコーマンのアメリカ工場ではなくアメリカのキッコーマン工場」

大型化・多角化・国際化という三つの路線

1974年時点のキッコーマン醤油は、しょう油市場の30%強を押える業界最大手でありながら[83]、肝心のしょう油需要そのものが年2〜3%しか伸びない状態にあった[84]。そこで打ち出したのが、しょう油需要の一層の開拓とシェア拡大を軸とした『大型化』、米国デルモンテ社との合弁による日本カルパックの設立などにみられる『多角化』、しょう油を前年から米国で生産する『国際化』の三つの基本路線だった[85]。日本カルパックはトマトケチャップやトマトジュースを生産した[86]。ワインは1964年の生産開始から満10年を数え[87]、日本のワインの出荷量と輸入量はともに1972年以降に急増した[88]

  • 日経ビジネス 1974年9月2日号
    • [83]1974年 しょう油市場の30%強を押える業界最大手
    • [84]しょう油需要そのものは年2〜3%しか伸びない
    • [85]「大型化」「多角化」「国際化」の三つの基本路線
    • [86]日本カルパックはトマトケチャップ・トマトジュースなどを生産
    • [87]ワイン生産は1974年でことし満10年目
    • [88]日本のワインの出荷量と輸入量は1972年以降に急増

レストランへの進出は、この三路線を一つの店で試す場となった[89]。1973年6月に西独デュッセルドルフでレストラン会社サン大都会と合弁して『キッコーマン大都会ヨーロッパ』を設立し[90]、しょう油の欧州普及に乗り出した。国内では1974年5月末に東京・六本木で1号店『六本木コルザ』を開き[91]、牛肉や豚肉をしょう油ベースのタレで味つけして供し、同社製のワインもあわせて飲んでもらう趣向とした[92]。しょう油と肉とワインという新しい食習慣を導き出すための実験店で、東京とその周辺を中心にチェーン化する計画[93]も置いた。茂木佐平治氏は『需要が需要を呼ぶエコーデマンド(echo demand)に大いに期待する』[引用元][94]と述べた。

  • 日経ビジネス 1974年9月2日号
    • [89]レストラン進出は肉料理にしょう油を使うことでしょう油事業の大型化に貢献する基本路線上の一手
    • [90]1973年6月 西独デュッセルドルフでサン大都会と合弁し「キッコーマン大都会ヨーロッパ」を設立
    • [91]1974年5月末 東京・六本木に1号店「六本木コルザ」を開店
    • [92]牛肉・豚肉をしょう油ベースのタレで味つけし同社製ワインもあわせて供する趣向
    • [93]新しい食習慣を導き出すための実験店、東京とその周辺でのチェーン展開計画
    • [94]茂木佐平治社長「需要が需要を呼ぶエコーデマンドに大いに期待する」
  • 日経ビジネス 1974年9月2日号
    • [83]1974年 しょう油市場の30%強を押える業界最大手
    • [84]しょう油需要そのものは年2〜3%しか伸びない
    • [85]「大型化」「多角化」「国際化」の三つの基本路線
    • [86]日本カルパックはトマトケチャップ・トマトジュースなどを生産
    • [87]ワイン生産は1974年でことし満10年目
    • [88]日本のワインの出荷量と輸入量は1972年以降に急増
    • [89]レストラン進出は肉料理にしょう油を使うことでしょう油事業の大型化に貢献する基本路線上の一手
    • [90]1973年6月 西独デュッセルドルフでサン大都会と合弁し「キッコーマン大都会ヨーロッパ」を設立
    • [91]1974年5月末 東京・六本木に1号店「六本木コルザ」を開店
    • [92]牛肉・豚肉をしょう油ベースのタレで味つけし同社製ワインもあわせて供する趣向
    • [93]新しい食習慣を導き出すための実験店、東京とその周辺でのチェーン展開計画
    • [94]茂木佐平治社長「需要が需要を呼ぶエコーデマンドに大いに期待する」

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

キッコーマンの沿革1917〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1917〜1956年一族八家の合同と量産化による国内首位の形成野田醤油を設立★★
万上味醂を吸収合併
野田争議・解雇で収束★★
関西工場を新設
醤油国内シェア1位
東京証券取引所に株式上場
1957〜1979年米国での需要創造と醤油の現地生産への転換KIKKOMAN INTERNATIONAL, INC. を設立★★
大阪証券取引所に株式を上場
利根コカ・コーラボトリングを設立★★
マンズワインを設立
キッコーマン醤油に商号変更
JFCに経営参加★★
輸出から現地生産へ——米国ウィスコンシンでの醤油工場建設

1972〜73年、キッコーマン醤油が米国ウィスコンシン州ウォルワースに醤油工場を建設し、日本からの完成品輸出から現地生産へ移った経営判断。1957年以来の販売で米国の食卓に育てた需要を土台に、会社の資本金を上回る額を投じ、日本の食品メーカーとして本格的な海外生産に踏み切った。工場は1973年6月に稼働した。

詳細を読む
★★★
1980〜1999年脱醤油の多角化とPB攻勢下の「攻め」への転換キッコーマンに商号変更
KIKKOMAN(S)を設立
マンズワインで異物混入事件が発生
千歳工場を新設
デルモンテ商標の使用権を取得★★
米国流トップダウンへの意思決定様式の転換

1995年2月に社長へ就いたキッコーマンの茂木友三郎氏が、米国での経営経験をもとに、同族色の強い老舗の意思決定を米国流のトップダウン型へ改めた経営体制の判断。商品別の責任者を定め、社長室を拡充し、情報を社長に集めて直接指示を出す運営に切り替えた。

詳細を読む
★★★
プロダクト・マネジャー制を軸にした「守り」から「攻め」への方針転換

1996年、キッコーマンの茂木友三郎社長が、社長直属のプロダクト・マネジャー制を軸に、収益を優先する『守り』から成長を重視する『攻め』へと経営方針を転じた組織運営の判断。1995年4月に新設した商品横断の責任者組織を先導役に据えた。

詳細を読む
★★★
KIKKOMAN FOODS EUROPEを設立
カリフォルニア工場を新設
2000〜2023年多角化事業の整理と海外事業による収益の主柱化決算期変更により赤字転落
ヒゲタ醤油に資本参加
牛久崇司焼酎事業をサッポロビールに譲渡★★
染谷光男紀文フードケミファを買収
染谷光男持株会社制に移行
堀切功章創立100周年
堀切功章グローバルビジョン2030を策定
中野祥三郎プライム市場へ移行・国内食品/飲料事業を統合
中野祥三郎海外子会社2社を売却
中野祥三郎理研ビタミンとの資本・業務提携を解消
出典・参考
  • キッコーマン 有価証券報告書(1994年12月期・連結)
  • キッコーマン 有価証券報告書(1995年12月期・連結)
  • キッコーマン 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「野田醤油」の項
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編、1968)キッコーマンの項
  • 実業の世界 1961年2月号
  • 日経ビジネス 1974年9月2日号
  • 日経ビジネス 1978年4月24日号
  • 日経ビジネス 1990年1月15日号
  • 日経ビジネス 1995年5月15日号
  • 日経ビジネス 1996年4月22日号
  • 読売新聞(1926年4月5日)
  • 読売新聞(1929年8月29日)
  • 読売新聞(1954年11月20日)
  • 読売新聞(1955年12月28日)
  • 読売新聞(1957年11月13日)
  • 日本醸造協会雑誌 1972年12月15日号(茂木友三郎)
  • 日本醸造協会雑誌(1976年)
  • キッコーマン国際食文化研究センター「MADE IN USAのKIKKOMAN」(キッコーマングループ企業情報サイト)

免責事項およびポリシー