醤油の北米現地生産
北米需要の拡大と日本からの完成品輸出の構造的限界
キッコーマンの北米展開は明治期の日系人向け輸出に始まり、戦後は進駐軍を通じて一般消費者層へ広がった。1950年代以降、現地スーパーでの販売やレシピ提案を通じて、醤油は肉料理やバーベキュー用途の調味料として浸透していった。1960年代には「照り焼き」という調理概念が定着し、家庭用・業務用を含めた市場拡大が視野に入っていた。
一方、供給面では日本からの完成品輸出に依存しており、船賃上昇や関税6%、為替変動が収益を圧迫していた。1965年に設置されたAP委員会で現地生産が検討されたが、当時の販売量は年間3000klにとどまり、投下資本に見合う回収は困難と判断された。1968年からは瓶詰工程のみを米国で行い、輸送効率の改善を優先する対応が取られていた。
純利益2~3年分の集中投資による現地醤油製造の開始
1971年、役員会において米国での醤油現地製造が正式議題となった。発酵食品である醤油の品質再現に対する懸念は根強かったが、中央研究所長の横塚氏ら技術陣が製造可能性を説明し議論を前進させた。輸送費高騰、関税、国内人件費の上昇を総合的に勘案し、現地製造が収益に貢献すると判断された。
立地はウィスコンシン州ウォルワース郡とされ、農業地帯である点が原料調達や地域理解の面で重視された。1972年にKIKKOMAN FOODS, INC.を設立し、投資額は約1300万ドル、当時の純利益2~3年分に相当した。分散投資ではなく北米市場への集中投資であり、創業家の茂木家が主導して役員会の慎重論を押し切る形で決議が進められた。
想定を上回る販売拡大と発酵食品の海外量産という参入障壁
工場は1973年に稼働し、年間9000kl体制で生産を開始した。販売量は想定を上回るペースで拡大し、稼働2年目には単年度黒字化、4年目には累積赤字を解消した。現地生産によって供給リードタイムが短縮され、価格競争力が向上したことがシェア拡大に直結した。
発酵食品を米国で量産するという経験自体が参入障壁となり、後発企業の追随を構造的に困難にした。北米事業はキッコーマンの事業ポートフォリオの中核となり、以降の欧州・アジア展開における実証モデルとして機能した。1972年の現地生産開始は、輸出型から現地生産型への事業モデル転換の分岐点であった。