カナデビア総工費150億円の堺工場マンモスドック建設と、桜島工場の造船からの撤収
船はどこまで大きくなるのか——発祥の地の船台を閉じてまで、世界最大級のドックを構えるか
- 概要
- 1964年3月、日立造船が大阪府堺の臨海工業地帯に総工費150億円で新造船所を着工し、長さ400メートルのドックを構えて超大型タンカーの建造に主力を移した経営判断。1966年4月の竣工にあわせて発祥の地・桜島工場は造船から撤収した。
- 背景
- 世界の石油消費の増大で油送船の大型化が進み、1956年には三菱造船が超大型タンカーの建造に踏み切っていた。貿易・為替の自由化も控え、船価は1重量トン当たりで10年前の半分に下がっていた。
- 内容
- 整地76万平方メートルの半分に造船部門を置き、長さ400メートル・幅56メートル・深さ12.5メートルのドックと200トン級クレーン3基を備えた。「総力を堺に」の言葉のもとに桜島の船台を閉じ、増資で資金を賄った。
- 含意
- 大型船を建造できる設備を持つ会社だけが受注に残るという読みに沿った投資で、1960年代後半の受注拡大を支えた。ただし永田敬生社長は1969年には大型化の頭打ちにも触れており、設備の重さは次の10年に別の形で現れた。
大きさに賭けたのではなく、桜島を畳んだこと
150億円を投じたことよりも、発祥の地の船台を閉じたことが、この投資の芯であった。桜島工場は1899年に安治川河口へ置かれ、因島とともに日本三大造船所と呼ばれる基礎をつくった工場である。「総力を堺に」という合言葉は、そこから造船を引き揚げると宣言する言葉でもあった。中小の経営の枠内に入らないために超大型船に主力を置くと永田敬生社長が語っていたことと併せれば、堺は逃げ場を残さない選び方であったといえる。
もっとも、この選び方が長く報われたわけではない。永田社長自身が1969年に大型化の限界と陸上部門への投資集中を語りながら、会社は50万重量トン型を扱う有明造船所を420億円で建てた。堺で通用した「設備を持つ側が強い」という読みは、円切り上げと石油危機で需要そのものが消えたときに反転する。設備投資の巧拙は、投じた年ではなく、需要が消えた年に採点されるとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
石油が呼んだ超大型船
1956年11月、三菱造船が超大型タンカーの建造に踏み切った。当時の報道は、世界の石油消費量の増大につれて海運・石油業者が油送船の大型化を急ぎ、スエズ運河の閉鎖以降その傾向がさらに強まったと伝えている。大型船を受けるには設備の拡充が要る。同業が先に動いたことは、日立造船にとって設備の差がそのまま受注の差に変わる予告であった[1]。
1960年6月、政府は貿易・為替自由化計画の大綱をまとめ、世界経済の流れに順応していくことが必要になると記した。守られていた市場が開くなかで、日立造船が頼りにしていたのは輸出であった。1951年に米国キャラス社から2万トン級の大型油槽船4隻を一括受注して以来、輸出最重点を掲げ、新造船の仕向先は30数カ国に及んでいた[2][3][4]。
船価は下がり、桜島には余地がなかった
船が大きくなるほど、1重量トン当たりの船価は下がった。永田敬生社長は1965年の講演で、1956年から1957年のブーム時に1重量トン当たり240ドルであった船価が当時は半分になっていると述べ、標準の船型が4万重量トンから10万重量トンへ移ったことに加えて過当競争が重なった結果だと説明している。量と大きさで採算を取るほかない値決めが、設備投資を押し出していた[5]。
一方、発祥の地である桜島工場には大型船を建造する余地が乏しかった。1881年に安治川右岸で始まった大阪鉄工所は、1899年に安治川河口へ桜島工場を建設し、1911年に因島船渠を買収して明治末年には日本三大造船所の一つに数えられていた。だが川筋の工場では、20万重量トン級の船を浮かべる幅も深さも取れない。大型船を続けて建造する場所は、大阪湾の埋立地に求めるほかなかった[6][7]。
決断
総工費150億円、長さ400メートルのドック
新工場は1964年3月に着工した。総工費150億円、整地76万平方メートルの半分に造船部門を置き、残りの半分を陸上部門にあてる計画であった。ドックの寸法は長さ400メートル、幅56メートル、深さ12.5メートル。200トンの門型クレーン2基と200トンのジブクレーン1基が据えられ、クレーンの高さは43メートルで、12階建てのビルを上回った[8][9]。
投資は集中を伴った。1965年7月に堺の造船部門が操業を始め、1966年4月の竣工式は創業85周年の記念式典とあわせて行われた。「総力を堺に」という合言葉のもとで造船の主力が移り、発祥の地である桜島工場は造船の幕を閉じて陸上専門の工場として再発足した。堺では40万重量トンの修繕ドックの建設も進み、1968年11月からの稼働が予定されていた[10][11]。
永田敬生社長が語った投資の理屈
永田社長は1965年11月、証券アナリスト向けの講演で投資の理屈を語っている。日本の造船業が世界一である理由の第一に船舶の大型化に対処して設備を近代化したことを挙げ、8万総トン以上の大型船を建造できる船台は世界に13基あり、うち6基が日本にあると説明した。20万重量トンの建造が可能なドックは三菱重工長崎、石川島播磨根岸、自社の堺の3工場であった[12]。
同じ講演で、永田社長は投資の重さも隠していない。造船各社が争って大型ドックの建設に力を注いだことが一時的に業績の足を引く結果になっていると述べ、新規設備投資の金利負担と償却負担を業績圧迫の要因に数えた。そのうえで、中小の経営の枠内に入らないように超大型船に主力を置くという考えを示し、資金は同年12月払込みの3分の1増資で賄う予定であった[13][14]。
結果
20万トン級10隻と、利益なき繁栄の終わり
堺工場は1966年4月以降に10万トンから20万トン級のタンカー10隻を引き渡し、続いて20万トン級を中心とする10隻を1969年度までに建造する計画に入った。オナシス向けの21万3,000重量トン船もここで建造されている。単体の売上高は1967年3月期の938億円から1969年3月期に1,360億円へ伸び、当期純利益は19億円から23億円になった[15][16][17]。
1969年10月、永田社長は同じ講演の場で、造船業の「利益なき繁栄」はもう終わりに向かっていると述べた。1969年9月期の売上高は692億8,000万円、利益は12億3,300万円であった。日本造船工業会の会長として適正操業度への引き下げと船価水準の引き上げを提言し、1973年ごろから造船業は売手市場になると見通した。設備を持った側が強くなるという読みであった[18][19]。
大型化の限界を語りながら、有明へ
その1969年の講演で、永田社長は大型化の頭打ちにも触れていた。採算が最も良いのは24万重量トン型であるとして、いますぐ40万トンから50万トンのドックを建設する考えはないと述べ、大型化は時代の趨勢ではあるが、いたずらに大型化のみを追求することはしないと語っている。今後の投資計画は陸上部門に集中させる方針も同時に示した。堺で得た手応えと負担の両方が、その言葉に含まれていたとみられる[20]。
それでも実際には、50万重量トン型を扱う有明造船所が建設され、1974年10月に完成した。建設費は関連工事を含めて420億円であった。1972年の円切り上げの時点で日立造船の造船依存度は69%に達し、三菱重工の32%、石川島播磨の45%、川崎重工の31%を大幅に上回っていた。堺で開いた大型化の道は、次の10年に重荷へ転じた[21][22]。
- 証券アナリストジャーナル 1965年第3巻第12号「日本造船業の現状と日立造船の経営ビジョン」(永田敬生)
- 証券アナリストジャーナル 1969年第7巻第11号「日本造船業の現状と将来――日立造船の現状と将来」(永田敬生)
- 読売新聞(1956年11月22日)「三菱造船・マンモスタンカー建造に踏み切る」
- 読売新聞(1966年4月12日)「長さ400mのマンモスドック」
- 日本経済新聞(1960年6月24日)「貿易・為替自由化計画の大綱」
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
- 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「日立造船」
- 週刊東洋経済 1972年10月7日号「町人企業日立造船の雑草経営」
- 日経ビジネス 1975年9月1日号「日立造船 高度成長の咎うける『総論経営』」
- 日立造船 会社年鑑(1971年版・単体業績)