なぜ大阪を離れたのか。移転前の名村造船所は、木津川沿いの工場で設備の増強を重ねていた。しかし船台は敷地の許容限度いっぱいまで延ばしても、3万重量トン型までしか対応できなかった。船の大型化が続く以上、同じ土地で設備を足す方法には先がない。年間の建造能力をいくら積み上げても、造れる船の大きさは敷地が決めてしまう。だから名村造船所は、設備ではなく土地そのものを替えると決めたのだろう。佐賀県の総合開発は、その土地を用意する役を担った。
もっとも、土地を替える判断は時期の判断でもあった。伊万里工場が稼動を始めたのは1973年12月で、石油危機によってタンカーの需要が激減した時期に重なった。工場はタンカーの連続建造を前提に計画されていた。大手はすでに新鋭の造船所を持ち、高船価の時期に投資を回収していた。名村造船所は大手より遅れて大型化に踏み出したため、需要の山を逃したと考えられる。立地の選択は正しくても、着工の時期は会社が選べるものではなかった。
それでも名村造船所は伊万里から退かなかった。1979年10月に大阪工場の設備を売却し、新造船の生産を伊万里の一カ所に集めた。1983年1月には伊万里事業所に海洋陸機工場を加え、2006年と2007年には船舶建造設備を増強した。大阪の敷地のままでは、こうした増強の余地そのものが無かった。移転の価値は、稼動直後の苦境ではなく、伊万里に資源を集め続けた半世紀の長さで測るべきだと思われる。