名村造船所主力造船拠点の大阪から佐賀・伊万里への移転と新工場建設

船が大型化するなか、名村造船所はなぜ創業60年の木津川筋を離れ、伊万里湾を選んだか

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時期 1972年3月
意思決定者(推定) 名村造船所 取締役会
論点 主力生産拠点の立地と船舶大型化への対応
概要
1972年10月、名村造船所は佐賀県伊万里市の七ツ島工業団地で新造船工場の起工式を挙げた。1974年11月に一部を残して竣工し、1975年3月に第1船を引き渡している。創業以来の生産拠点であった大阪・木津川筋を離れ、主力の新造船能力を九州西岸へ移す設備投資であった。
背景
1961年3月末時点の大阪の本社工場は従業員804人、新造船の年間生産能力は40,000総トンにとどまり、河川沿いの敷地では戦後に進んだ船舶の大型化に応じられなかった。新工場の検討は1969年に始まり、1970年12月以降、産炭地域の指定を受けていた佐賀県と伊万里市から誘致を受けた。
内容
8万総トン型を年間3.5隻建造する能力を前提に、長さ295m・幅66m・深さ11.5mの第1号建造ドックと長さ155mの第2号補助建造ドックを両開き式で組み合わせた。総敷地面積は54万m2で、うち新造船地区が38万m2を占める。工業団地の造成に設計初期から加わり、埋立の法線を工場計画に合わせて決めた。
含意
1979年10月に大阪工場の設備を売却して生産を伊万里へ集約し、以後の造船事業は伊万里を中心に組み直された。2014年の佐世保重工業の完全子会社化を経て3拠点体制まで広げた後、2022年には新造船を再び伊万里の一カ所へ集めている。
筆者の見解

川幅を捨てて湾を選ぶという判断

この移転を、手狭になった工場からの引っ越しと読むと芯を外す。名村造船所が伊万里で前提に置いたのは8万総トン型を年3.5隻という建造能力であり、1961年3月末に大阪の本社工場が持っていた年間40,000総トンの生産能力とは規模が異なる。既存拠点の増強ではなく、会社の規模そのものを一段上へ置き直す投資であった。堅実経営を掲げてきた会社が、決定的な時期には思い切った設備拡充に踏み切るという自己規定を、創業60年を過ぎて自ら試したとみることができる。

もっとも、伊万里が主力になる速度は計画どおりではなかった。第1船を引き渡した1975年3月は第1次石油危機の後にあたり、以後の日本の造船業は受注の減少と設備処理の時代に入る。大阪工場の設備売却が竣工の5年後、1979年10月まで持ち越された事実は、旧拠点をすぐには畳めなかったことをうかがわせる。新造船を再び伊万里の一カ所へ集めるまでには、函館と佐世保を抱えて損失を重ねた年月が挟まっている。立地の選び直しは、掘った土地の良否よりも、その後どれだけ長く一カ所へ資源を集められるかで検証されるといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

木津川筋の敷地が抱えた寸法の制約

名村造船所の生産拠点は、1911年の創業以来、大阪湾へ注ぐ木津川の流域に置かれていた。1961年3月末時点の本社工場は大阪市住吉区北加賀屋町にあり、従業員は804人、新造船の年間生産能力は40,000総トンであった。同じ期の新造船の生産実績は8,577総トン、修繕船を合わせた売上高は15億9,544万円にとどまる。河川に沿った細長い敷地は、戦後の高度成長期に進んだ船舶の大型化に対して、船台の寸法と進水の両面で制約となっていた[1]

1967年に刊行した社史『造船55年』は、創業者・名村源之助氏以来の経営を「堅実経営」と要約している。負担能力を超える借金による過剰投資や投機的な経営を避け、設備投資や規模拡大に際しても慎重な検討を繰り返したうえで実施に移す、という自己認識であった。同書はその一方で、決定的な時期には思い切った設備拡充に踏み切ってきたとも記し、戦時中の第2号船台の建設と戦後の設備更新をその例に挙げている[2]

産炭地の誘致と伊万里湾の地形

新工場の検討は1969年に始まった。船舶の大型化にともなう市場の確保と生産性の向上を目的に進出先を探していたところ、1970年12月以降、佐賀県と伊万里市から熱心な誘致を受けた。伊万里地区は産炭地域振興臨時措置法にもとづく地域に指定され、県勢復興の西部拠点とされていたため、県と市に地元を加えた全面的な協力を得られる条件が整っていた。九州が東南アジアおよび大陸との貿易の窓口となる見通しも、立地の判断材料に置かれた[3]

伊万里湾の地形も条件に合っていた。奥深い入江と島に囲まれて平常は波がなく、台風時でも計算上の最大波高は50cm以内にとどまる。湾岸の七ツ島一帯は良質の砂岩棚を形成しており、ドックの基礎はほとんど杭を要さず、渠底の岩着率は90%以上を見込めた。造成済みの用地へ入るのではなく、佐賀県事業による七ツ島工業団地の造成に設計の初期から加わったため、埋立の法線を工場計画に合わせて選べた点も大きい[4][5]

決断

仮調印から起工までの三年

交渉は段階を追って進んだ。1971年7月に進出の仮調印を交わし、翌1972年3月に本調印して進出を決定している。同年7月に運輸省の許可を受け、10月に起工式を挙げた。造船設備の新増設が運輸省の許可制であった当時、認可の取得が着工の前提であり、佐賀県による用地造成工事と並行して工場の建設に入った。検討の開始から起工まで、3年を要した計算になる[6][7]

起工から2カ月後の1972年12月、名村造船所は関西造船協会誌に工場計画を寄稿し、この計画が創業以来の大事業であり、その成否に会社の死活がかかっていると記した。移転の動機として挙げたのは、船舶の大型化と設備の近代化、そして大阪における悪条件の三つであった。大手とも小手とも競合しない中手造船所の立場に立った新鋭の大型船工場である以上、対象とする船種は今後の需要構造の変化に応じて幅広くなるとの見通しも併せて述べている[8][9]

8万総トン型を年3.5隻という設計

設備計画の前提に置いたのは、8万総トン型を年間3.5隻建造する能力であった。第1号建造ドックは長さ295m・幅66m・深さ11.5m、これに長さ155mの第2号補助建造ドックを組み合わせ、両開き式のセミタンデム方式で建造する。垂線間長280m・最大幅46mまでの船体を収める寸法で、大阪の年間生産能力40,000総トンとは規模が異なる。工事量の平準化を図るためにドック長には余裕を取り、渠底での作業車の動きにも配慮した[10]

総敷地面積は54万m2で、うち新造船地区が38万m2を占める。凹字型の地形の一方を新造船地区とし、他方は将来の事業拡張の予定地に充てた。船殻の内業工場は建造ドックに直交させ、切断・小組立・パネル・船首尾の各ヤードを直線に並べている。需要構造の変化に応じられるよう、当初は専用機ではなく汎用的な機器を採用して段階的に省力機へ移す方針を採った。鋼材の下地処理と仕分けは隣接する別会社の伊万里鉄鋼センターに委ね、構内から鋼材ヤードを省いている[11][12]

結果

竣工を待たずに始めた操業

操業は竣工を待たずに始まった。1973年12月から工場建設と並行して一部の操業に入り、1974年11月に一部を残して竣工している。第1船である8.7万トン型タンカーを1975年3月に引き渡し、続けて同型3隻を完成させた。1976年5月の時点で、名村造船所は伊万里工場が操業の安定期に入ったと報告している。稼働までの過程を通じて、工場は建設と生産が重なる状態に置かれていた[13]

大阪の設備整理はその後に続いた。1979年10月に大阪工場の設備を売却して生産を伊万里へ集約し、1982年7月には本社を大阪市住之江区から西区へ移している。1983年1月には旧伊万里工場を改称して海洋陸機工場を新設し、海洋構造物の分野に手を広げた。同年7月の玄海テックと名村情報システムの設立、1986年9月の名村エンジニアリングの設立と、伊万里を中心に据えたグループ会社の整備が1980年代を通じて続いた[14][15]

伊万里を中心に組み直された半世紀

伊万里工場は、その後も名村造船所の新造船の中心にあった。2001年に函館どつくへ資本参加し、2014年には佐世保重工業を株式交換で完全子会社化して、伊万里・函館・佐世保の3拠点を抱える。中堅造船所としては国内最大級の生産網となったものの、リーマン・ショック後の商船市況の悪化で固定費が重くなり、FY16からFY20までの4期で累積650億円を超える純損失を計上した[16][17]

立て直しの手も伊万里へ戻る形をとった。2021年2月に佐世保重工業での新造船の休止を決め、新造船を伊万里の一カ所へ集めて固定費を軽くしている。名村建介社長は完全撤退ではないと述べ、佐世保の建造ドックを防衛省向けの艦艇修繕と舶用クランクシャフトの整備へ振り向けた。中国と韓国の造船所の建造能力が飽和して受注価格が回復すると、伊万里へ集約した生産が市況の反転を受け、営業利益率は18.5%まで戻している[18][19][20]

出典・参考

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