佐世保海軍工廠は1889年の鎮守府設置と同時に生まれ、日清戦争・日露戦争・第一次大戦と佐世保が戦争の基地になるたびに施設を広げた[1]。敗戦で海軍そのものは消えたが、天然の良港と海軍が巨費を投じて建設した施設は残り、その中心が工廠だった[2]。占領軍に接収され佐世保地方復員局管理部が管理していた同工廠は、1946年2月、兵器工場と電気工場を除く約3分の2の民間転用が認められた[3]。これを受けて内務・大蔵・運輸の各省と造船連合会があっせんに立ち、造船・造機部門の施設を大蔵省から借り受ける形で、1946年10月1日、資本金600万円の佐世保船舶工業が設立された[4]。社長には福岡県宗像郡出身で占部造船所長だった占部五郎が就き、取締役に塩津英薫、三枝貞蔵、中村倍治、地元親和銀行の北村徳太郎が並んだ[5]。
発足と同時に旧工廠の従業員をいったん全員解職し、優秀技術者約1,800名を新規に採用したうえで、船舶の修理と旧海軍艦艇の救難・解体に着手した[6]。旧工廠は駆逐艦や潜水艦を主に建造してきた工場で、創設から終戦時の解体までの56年間に一等巡洋艦11隻、駆逐艦29隻、い号潜水艦20隻など合計117隻・17万5,000トンを送り出していた[7]。設備は優れていたが、当時は大造船所がナベやカマをつくった時代であり、同社もナベ・カマのほか鉱山機械の製作と修理を引き受けた[8]。電源開発関係その他の一般鉄構造物や一般産業機械の造修にも当たった[9]。
もっとも、旧工廠であるがゆえの制約が操業を縛った[10]。GHQからあらゆる船舶の新造禁止を課され、膨大な施設の使用についても幾多の制限を受けたため、作業は船舶の修理やケーブルクレーンの製作にとどまった[11]。同工廠が賠償に指定されていたことがその根拠で、制限が解けるのは1952年4月の講和条約発効を待たねばならなかった[12]。借りているのが国の施設である以上、何をつくるかは自社の外で決まった[13]。それでも株主配当は年1割を確保し、1949年には従業員が3,600人へ増えた[14]。資本金も増資を重ね、1949年6月に1億3,000万円となった[15]。
1947年8月、占部五郎社長が公職追放で退き、北村徳太郎が後を継いだ[16]。北村社長の在任は短く、同年12月に片山内閣の運輸相へ就任するため辞任したので、以後は専務の塩津英薫と佐世保造船所長の松本長蔵が組んで経営に当たった[17]。この体制を揺さぶったのが、旧軍需物資の隠退蔵摘発をめぐる捜査だった[18]。捜査班が第一回の手入れに入ったのが1948年2月16日、半年後の8月には東京地検の吉永検事らの特捜班が佐世保へ乗り込み、一斉捜査を始めた[19]。終戦当時に佐世保鎮守府の管轄下にあった旧軍重要物資は当時の公定価格で5億7,600余万円といわれ、その一部が同社に隠されているのではないかという疑いだった[20]。
取り調べが進むにつれ、専務の塩津英薫、常務の松本長蔵、発足時からの常務である中村倍治と三枝貞蔵ら幹部の多くが起訴された[21]。元運輸相で一時社長を務めた北村徳太郎も偽証罪の疑いで衆院不当財産取引委員会へ証人として呼び出しを受けた[22]。捜査は1948年12月まで続き、起訴された者は同社幹部をはじめ117名、摘発された物資は1億3,000万円に達した[23]。首脳陣が一時からになった同社は経営がマヒし、従業員の給料は2回払い、3回払いとなった[24]。裁判は第一審で松本、三枝、中村らに執行猶予付きの有罪、会社に罰金10万円の判決が出たものの、1951年の福岡高裁での第二審は全員無罪、会社への罰金5,000円で確定して落着した[25]。
1949年から1950年になると、同社の業績は急カーブで下がり始めた[26]。船舶運営会の解体で受注は船主との直接交渉になり、戦後の新顔である同社は無理な競争を強いられ、給料の遅払いから約1,000人の人員整理にまで追い込まれた[27]。窮状の打開策として佐世保市長の中田正輔氏が持ち出したのが、会社を市営へ移す構想である[28]。1950年7月25日の佐世保市議会全員協議会で、中田正輔市長は市営以外に再建の道はないと述べ、居並ぶ議員を驚かせた[29]。軍財産を平和産業へ転換する場合は市へ無償で譲るとした旧軍港市転換法を有利に使うねらいだった[30]。しかし1950年6月に始まった朝鮮戦乱で経営が2倍近く好転し、市営移管の必要がなくなったとして構想は打ち切られた[31]。
1952年4月の講和条約発効で新造船建造禁止などの制約が解け、同社は新造船の建造を始めた[32]。小型タンカーと貨客船の建造、兵器の生産に進み、設備資金と運転資金を調達するため数次の増資を重ねて、1954年2月に資本金は5億2,000万円となった[33]。朝鮮戦乱の間は他の造船所をうらやましがらせるほど修理船を受注したが、戦乱が収まると工事は減った[34]。1954年に入るとデフレ不況と造船疑獄が重なって造船界の不景気は深く、同社は同年9月決算で2億8,000万円の赤字を出した[35]。頼みは第十次計画造船の獲得だったものの必死の運動もむなしく指定から漏れ、同年11月に手形不渡りへ陥り、12月から会社更生法による整理が始まった[36]。
再建に乗り出した同社は、不要な施設の約3分の1を国へ返し、約1,000人の人員整理を行ったうえで、1955年3月から合理化案を実施した[37]。管理人は古武弥輔、1955年8月からは牧野元、1956年11月からは監査役だった川副隆へと替わり、塩津英薫社長は整理入りの時点で退いた[38]。この間、1955年10月ごろから大洋漁業との提携問題が持ち上がった[39]。捕鯨船団の緊急増強を計画していた大洋漁業は造船所がどこも満員で船をつくれず、整理中の同社はドックを持ちながら新船建造の資金がなかった[40]。海運界の長老である村田省蔵があっせんに立ち、1956年4月、大洋漁業が全額出資する資本金5,000万円の佐世保船舶商事が設けられた[41]。大洋漁業が同商事を通じて2億円を限度に設備資金を融資し、同社は原則として大洋漁業発注の船を優先建造する、という2点が提携の内容だった[42]。
大洋漁業は並行して株を買い集め、1956年夏までに全株数約1,290万株のうち3分の1以上にあたる約450万株を取得した[43]。毎月5,000万円ほどの造機工事を同社へ下請に出していた三菱造船も提携に加わり、大洋漁業とともに大株主として再出発を支えた[44]。1957年3月4日、2年3カ月にわたった整理が終わり、同月20日の臨時株主総会で川副隆を社長とする新役員が決まった[45]。三菱造船からは森米次郎が副社長、米山修一が佐世保造船所長として、大洋漁業からは中部悦郎が副社長として入った[46]。新発足時の手持工事は2万トンタンカーを含めて100億円を超えた[47]。1959年4月に福岡証券取引所へ上場し、1961年7月に社名を佐世保重工業へ改め、同年8月には東京証券取引所第一部へ上場した[48]。前社名のローマ字をとったSSKの略称は、社名を改めたのちも同社の呼び名として残った[49]。
佐世保重工業が使う造船所は、長く国の持ち物だった。旧佐世保海軍工廠の造船造機部門の施設を国から借り受けたまま、船舶の修理や艦艇の解体、電源開発関係その他の一般鉄構造物や一般産業機械の造修に当たってきた[50]。新造船の建造そのものが禁じられていたためで、この制約が解けたのは1952年4月の講和条約発効による[51]。新造船を手掛けるようになってからも設備の名義は国のままで、借り物の解消は二度に分けて進んだ。1961年10月に佐世保造船所施設の第一次払下げを受け、1962年にはさらに第二次払下げを受けている[52]。1962年5月、国有財産の払下げによって、借用中の施設は社有財産となった[53]。
払下げが済むと、佐世保重工業は主力を巨大タンカーへ移した。借りた工廠の設備で艦艇を解体してきた造船所が、自前の資産となった船台から世界最大の商船を送り出す側へ回った。1962年10月に竣工した日章丸は132,334重量トンで、当時世界最大のタンカーだった[54]。この一隻で巨船のトップメーカーの座に就いている[55]。1968年時点では17万5000重量トンタンカーの連続建造に取り組み[56]、さらに大型化する将来に備えて、建造用の第4ドックと修繕用の第3ドックをそれぞれ30万重量トンドックへ拡張する方針を決めた[57]。拡張の対象となった修繕用の第3ドックは、同じ1968年の2月に国から買い受けている[58]。
設備を自社のものにした佐世保重工業は、船以外の柱も立てにかかった。1966年に日本鋼管と受注・生産・資材などの業務提携を結び[59]、同じ年には生産部門として鉄構部を新設した[60]。同年12月には資本金を20億円へ増やしている[61]。鉄構部門では高速道路鋼桁、一般橋梁、水門扉、水圧鉄管を手掛け、大陸棚資源開発の関連設備である海洋構造物や特殊作業船の分野にも入った[62]。機械部門でも原動機、一般重機械、化学工業・製鉄・運搬の諸機械、鋳鍛造品を、素材から組立まで一貫して作っている[63]。1968年時点の事業は船舶艦艇、陸舶用機関、製鉄機械、プレス、ダイカストマシン、化工機、鉄構造物、運搬機械、鋳鍛造物、土木建築機械に及び、従業員は5,366名を数えた[64]。
提携から3年後、大型船を受け入れる設備が広がった。1969年9月、修理用の第3ドックの拡張工事が完成し、180,000総トンまで扱えるようになった[65]。1973年9月には建造用の第4ドックの拡張工事が完成し、225,000総トンへ広がった[66]。修理と建造の双方で大型船を受けられる構えができたことになる。ドックを二度広げた判断は、タンカーの大型化がこのまま続くという前提の上に立っていた。手掛ける船種も同じ時期に増え、1972年にはブリヂストン液化ガスと低温液化ガス運搬船の製造販売に関する契約を結んでいる[67]。
大型化を見込んで広げた設備は、オイルショック後の荷動きの停滞で行き場を失った。佐世保重工業が創立30周年を迎えたのは、1976年10月である[68]。村田章社長は記念の挨拶で、造船界が未曽有の不況ともいうべき時期に直面しており、それは口でいわれているより深刻だと語った[69]。1949年、1950年、1954年、1955年と造船界の不景気に遭うたび全員でふんばって克服してきた30年を振り返ったうえでの言葉である[70]。世界中が節約に入って物資の流通が後退したままであり、荷動きが戻ってから造船業に出番が回るまでには二年ほどかかるとの見通しも示した[71]。30周年の祝いは、景気の回復まで先送りされた[72]。
造船の受注が細るなかで、株主の顔ぶれも入れ替わった。1975年、来島どっくが大洋漁業から佐世保重工業の株式を取得し[73]、1977年には大洋漁業が持ち株をすべて来島どっくへ売却して株主から外れた[74]。二年のあいだに、資本の側は水産会社から造船会社へ移った。同年9月期末の持株比率は、来島どっくが25%、日本鋼管が24%、新日本製鉄が14%、日商岩井が10%だった[75]。上位4社で持株の73%を占めている[76]。1966年に受注・生産・資材の業務提携を結んだ日本鋼管は、この時点で24%を握る第二位の株主でもあった[77]。
受注の減少は、造船所の外へそのまま伝わった。佐世保重工業の関連下請け企業96社の1977年の売上高合計は1974年と比べて約4割減り、従業員数は6割減っている[78]。佐世保重工業の企業グループが佐世保市に占める比重は、工業製品出荷額でも雇用でも法人市民税でも、トヨタ自動車工業の豊田市や旭化成工業の延岡市と大差がない[79]。それでいて売上高に占める造船の比率は高いままで、陸上部門の強化と合理化は三菱重工業長崎に数歩の遅れを取った[80]。1957年に構内下請けとして創立した三和工業は、八幡製鉄所や旭硝子九州工場へ仕事先を広げ、鉄構技術を生かして総合建設業に進み、1970年には海外の森林資源開発にも乗り出している[81]。
1978年1月、佐世保重工業は労使協議会で人員削減を提案し、3月には希望退職者850人の募集に踏み切った[82]。ところが、応募した1,681名へ支払う退職金83億円を用意できなかった[83]。融資を求められた第一勧銀は大株主による債務保証を条件に挙げたが、日本鋼管をはじめ来島どっくを含む大株主はいずれも拒んだ[84]。4月には辻佐世保市長が政府に支援を要請して福田首相と福永運輸相が救済問題を協議し、5月には永野日商会頭が来島どっくの坪内寿夫社長と会談した[85][86]。造船大手八社の一つに数えられる規模の会社を、会社更生法によらずに立て直す救済劇である[87]。
坪内氏が佐世保重工業の大株主となったのは、大洋漁業の中部謙吉前社長からの依頼による[88]。中部氏は来島どっくに船を注文して船価が佐世保より2割安かったことから、白洲次郎氏を介して株式の引き受けと経営指導を坪内氏に求め、1976年5月の役員会で会長就任を諮った[89]。その1カ月後、新日鉄の田坂輝敬副社長が坪内氏を訪ね、日本鋼管の槇田久生社長に頼まれた使者として会長就任の辞退を求めた[90]。坪内氏は同郷の田坂氏の求めを受け入れ、大株主のまま経営から離れた[91]。債務保証の要請が突如持ち込まれたのは、その2年後である[92]。
坪内氏は1953年に来島船渠の再建を引き受けて以来、宇和島造船所、大王製紙、伊予鉄道、東邦相互銀行などの再建を重ね、来島グループは約100社・従業員1万人に達していた[93]。6月末、坪内氏は佐世保重工業の社長就任を受諾した[94]。4月初めに村田社長・久保長崎県知事・辻佐世保市長が政府へ救済を要請してから受諾までの期間を、マスコミは80日間の漂流と呼んだ[95]。就任後にまず着手したのは退職金の工面であり、83億円のうち3分の1を坪内氏が個人で債務保証した[96]。銀行はこの保証がなければ資金を出さなかった[97]。10月、佐世保重工業は日本鋼管との業務提携を解消し、7,800万株強の第三者割当増資を実施した[98]。
坪内氏は引き受けにあたり、労働組合である労愛会の国竹会長から合理化五項目の実施に協力する約束を取りつけていた[99]。内容は週休二日制の廃止、賃金15%カット、三年間の昇給賞与停止、D2P訓練の実施、看板方式の実施である[100]。会社側は7月、このうち賃金カットと昇給・賞与停止を正式に提案した[101]。当時の組合員の平均賃金は基準内で約14万5,000円、約4カ月分の賞与を含めた年収は230万円台であり、賞与がゼロで基準内賃金が15%削られれば年収は150万円程度まで下がる計算になる[102]。希望退職の募集は当面しないと坪内寿夫社長は明言していたが、労働組合側はこの提案を実質的な人員合理化策と受け止めた[103]。
坪内寿夫社長の厳しい合理化要求に対しては、労働組合でひと波乱もふた波乱も起きると予想されていた[104]。しかし、9月の役員改選では坪内支持派の現執行部が8割以上の支持を集めて圧勝した[105]。労愛会は造船業界のなかでも共産党系とみられる勢力が強く、過去の役員選挙では6対4で批判勢力をかろうじて抑えたこともあった[106]。情勢を一変させたのは、生活を誰に託すのかと組合員に迫った坪内寿夫社長の演説だった[107]。
五項目のうち、D2P訓練と看板方式は直ちに実行に移された[108]。しかし、週休二日制の廃止、賃金カット、昇給賞与停止の三項目は約束したかどうかで紛糾し、労使交渉は7カ月以上に及んだ[109]。1978年9月にはD2P訓練が行き過ぎだと内部告発され、労働基準監督署が事情聴取に乗り出したものの、違法性はないとの判断に落ち着いた[110]。12月、坪内寿夫社長は組合が合理化に非協力だとして辞意を表明した[111]。構内には社長の退陣を迫るスローガンが舞い、争議は近江絹絲以来の人権闘争と呼ばれた[112]。労組が合理化三項目を受諾したのは1979年2月である[113]。
1979年6月に労組が坪内寿夫社長との対決を掲げる近代化闘争委員会を結成すると、会社側は7月に残業廃止を打ち出し、労組は8月にこれを不当労働行為として地労委へ提訴した[114][115]。11月に労組が越年生活救済金を要求し、こじれた末に12月末から600時間近いストに入った[116]。坪内寿夫社長は2度目の辞意を表明した[117]。1980年3月期には15億円程度の黒字が見込まれていたが、この争議で約25億円の赤字に転じた[118]。争議をこれ以上続ければさらに悲惨な事態を迎えるとの坪内寿夫社長の最終判断で会社が譲歩し、1980年2月に合理化三項目の見直しで最終合意、同年11月27日に和解協定書へ正式調印した[119]。
争議のさなかもドックは動いていた。原子力船むつは1978年10月に佐世保へ入港し、1979年7月にドック入りしたのち、1980年8月に改修工事が始まった[120]。1980年9月中間期には5万1,000トンの外国タンカーや防衛庁の海上試験艦など新造船4隻を引き渡し、売上高は前年同期の倍の244億3,000万円に達した[121]。9月末の受注残高は新造船16隻など810億円に上り、1年半分の仕事量を抱えた[122]。11月12日発表の中間決算では、当初計画3,400万円を上回る3億5,000万円強の経常利益を計上し、1978年中間期以来3年ぶりの黒字へ転換した[123]。9月末の従業員数は3,448人で、ピークだった1976年9月の7,100人の半分以下になった[124]。ただし累積赤字は210億円、債務超過額は63億円残った[125]。1981年3月期には20億円の利益を計上している[126]。
坪内寿夫社長は1984年12月18日、高血圧と糖尿病で松山市内の病院に入院した[127]。来島グループの拡大を支えていた延べ払い手形による船の月賦販売は、海運市況の低迷で船主の資金繰りが行き詰まって回収難に陥り、1985年8月の三光汽船の倒産では引き受けていた2,000万株の増資が紙くずとなった[128]。円高も船主のドル建て運賃収入を目減りさせた[129]。来島どっくは1986年に現金受注へ営業方針を転換し、設備と人員の削減、関連会社の統廃合に入った[130]。日本債券信用銀行の主導でグループの再建計画が組まれ、坪内氏はグループ各社の社長を退いた[131]。佐世保重工業では1987年5月に取締役相談役へ退き、生え抜きの川崎孝一氏が社長に就いた[132]。同年10月、来島どっくはグループ13社を合併して来島興産へ商号を変更した[133]。経営から離れたのちも、坪内氏は大株主として残った[134]。
日本興業銀行の池浦喜三郎元頭取に請われ、長谷川隆太郎氏が79歳で社長に就いたのは1988年である[135]。長谷川隆太郎社長は最初の1年間、月曜に東京から佐世保へ入り金曜に戻る往復を続け、業者と結託したカラ伝票による14億円の不正経理を刑事告訴した[136]。1996年9月中間期の決算に残業代1億7000万円が計上されていると知ると、副社長以下9人を減俸処分にしたうえで自ら勤労担当となり、働かない58人を子会社へ出向させて残業代を4200万円まで削り、溶接の作業能率を30%引き上げた[137]。坪内寿夫元社長の時代に168億円あった借金は消え、5億〜6億円だった積立金は78億円に積み上がり、30年40年を経た老朽設備は100億円以上をかけてすべて入れ替わった[138]。
1968年、旧海軍工廠から引き継いで占有使用していた米軍が第3ドックを日本政府に返還し、佐世保重工業がその所有者となった[139]。返還にあたっては在日米海軍と日本政府を当事者、佐世保重工業を共同署名者とする政府間協定が結ばれ、在日米軍は最短7日の事前通知で第3ドックを無料かつ優先して使用できると明記された[140]。1995年暮れ、佐世保を母港とする米海軍第七艦隊の強襲揚陸艦ベローウッド(満載排水量約4万トン)の修繕商談が下請け業者のあいだで進んでいると知った長谷川隆太郎社長は、この一項を持ち出して修理を拒んだ[141]。膠着は1996年7月上旬まで解けなかった[142]。
平成11年度の連結売上高は船舶32,249百万円、機械・鉄構15,822百万円、その他1,865百万円の計49,937百万円だった[143]。翌平成12年度は船舶が35,464百万円へ伸びた一方、機械・鉄構は6,986百万円へ落ち込み、合計は43,826百万円となった[144]。平成17年3月期の連結受注高は船舶681億円、機械鉄構116億円の合計807億円で、同期の連結売上高432億円をはるかに上回る手持ちを抱えた[145]。2003年6月時点で社長を務めた岡田達郎氏の後、2005年には森島英一氏が社長に就いた[146]。
佐世保重工業は2009年3月26日の取締役会で、手持工事の完了後に鉄構セグメントの主力製品である橋梁事業から撤退することを決定した[147]。橋梁以外の鉄構事業は製品と製造方法が似ている従来の機械事業部へ統合し、2009年4月1日付で機械・鉄構事業部を新設[148]。撤退を決めた旧鉄構セグメントは、平成21年度に外部顧客への売上高2,921百万円、営業利益326百万円を計上していた[149]。白岳鉄構工場が完成したのは1968年8月であり、40年あまり続けてきた製品を手放した[150]。森島英一社長は残る機械事業のうち舶用クランク軸に累積50億円の設備投資を投じ、国内3社の一角として供給を続けた[151]。
平成22年3月期の連結受注高は13,548百万円へ落ち込んだが、手持ち工事に支えられて売上高63,692百万円、営業利益8,031百万円、当期純利益3,733百万円を計上した[152]。翌平成23年3月期には前期までに受注していた新造船8隻の建造契約を解約され、受注残高は90,072百万円と前期末比48.3%減になった[153]。工事が尽きると損益は反転し、平成25年3月期は営業損失1,291百万円、平成26年3月期は当期純損失2,848百万円へ転じた[154]。2012年10月25日、佐世保重工業は向こう3ヵ年の経営方針として、固定費70億円の削減、2014年3月までの単体800名体制、年12隻から6〜7隻への建造体制の縮小を掲げた[155]。新造船75%・艦艇修繕船13%だった2011年度の事業構成は、2014年度に新造船40%・艦艇修繕船25%・機械25%へ組み替える計画である[156]。
同じ方針は2014年度の連結売上高400億円と単年度黒字化を必達に据えたが、組み替えは自力では終わらなかった[157]。佐世保重工業は佐世保でのモノづくりを続けるには設計力とコスト競争力を高める事業基盤の再構築が要ると判断し、同業他社との連携を探ったうえで、2014年5月23日に名村造船所との株式交換を両社の取締役会で決議して契約を締結した[158]。交換比率は佐世保重工業1株に対し名村造船所0.128株、交付株式数は20,539,297株で、佐世保重工業株は2014年9月25日を最終売買日として翌26日に東証と福証で上場廃止となった[159]。効力発生日の2014年10月1日、名村建介氏が佐世保重工業社長を兼務し、湯下善文氏は佐世保造船所長に就いた[160]。本社は東京都中央区から長崎県佐世保市へ移った[161]。
2020年初めに新型コロナウイルス感染症が世界的に広がると海上輸送需要が落ち込み、日本の2020年の新造船受注量は2019年比でほぼ半減し、2年半程度が適正とされる受注残は1年程度まで縮んだ[162]。中国造船所の安値攻勢もあって船価も下がった[163]。佐世保重工業は2021年2月12日の取締役会で、2022年1月に予定する既受注船の最終引渡をもって新造船事業を休止し、海軍工廠の発足時から主要業務としてきた艦艇修繕船事業と機械事業の両輪へ経営資源を集中する事業再構築を決めた[164]。
新造船事業では大幅な損失が続き、2017年3月期以降は連続赤字となって2021年3月期決算で債務超過に陥っていた[165]。2022年2月18日、佐世保重工業は名村造船所が持つ債権105億円を現物出資して普通株式210,000株を発行し、あわせて資本金136億6,400万円のうち135億6,400万円を減らして1億円とすることを開示した[166]。増資と減資の効力発生日はいずれも2022年3月29日である[167]。
新造船をやめた後の業績は、2022年度が売上高12,207百万円・営業利益193百万円・当期純利益827百万円、2023年度が売上高14,555百万円・営業利益1,214百万円・当期純利益1,657百万円、2024年度が売上高15,008百万円・営業利益2,377百万円・当期純利益2,905百万円と推移した[168]。2026年時点の資本金は1億円、従業員は366名、本社は長崎県佐世保市立神町1番地にある[169]。
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| 1946〜1961年国から借りた工廠で発足し、大洋漁業の資本で東証1部へ | 旧佐世保海軍工廠の造船施設を借り受けて佐世保船舶工業を設立 | ★ | ||
| 講和条約の発効により新造船の建造を開始 | ★★★ | |||
| 手形不渡りにより会社更生法による整理を開始 | ★★★ | |||
| 大洋漁業と資本・業務提携 | ★★ | |||
| 会社更生法による整理が終了 | ★★ | |||
| 福岡証券取引所に上場 | ★ | |||
| 佐世保重工業に商号変更 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部に上場 | ★ | |||
| 1962〜1977年日章丸で始めた大型船への賭けと、第4ドック完成後の造船不況 | 国有財産の払下げにより借用中の施設が社有財産に | ★★ | ||
| 当時世界最大のタンカー日章丸が竣工 | ★★ | |||
| 日本鋼管と資本・業務提携 | ★★ | |||
| 第3ドックの拡張工事が完成 | ★ | |||
| 第4ドックの拡張工事が完成 | ★ | |||
| 1978〜1987年坪内寿夫氏を迎え、7,100人を3,000人に減らして黒字へ | 造船不況による経営危機で坪内寿夫氏が社長に就任 | ★★★ | ||
| 原子力船むつの放射線遮蔽改修工事に着手 | ★★ | |||
| 坪内寿夫氏が社長を退き川崎孝一氏が社長に就任 | ★★ | |||
| 1988〜2025年名村造船所の傘下で新造船をやめ艦艇修繕へ戻る | 橋梁事業からの撤退を決定 | ★★ | ||
| 名村造船所の株式交換による完全子会社化 | ★★★ | |||
| 上場廃止 | ★ | |||
| 新造船事業を休止 | ★★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(佐世保重工業)