佐世保重工業:旧佐世保海軍工廠での発足と会社更生を経た東証一部上場
1946年〜大蔵省から借り受けた旧海軍工廠と技術者1,800名
佐世保海軍工廠は1889年の鎮守府設置と同時に生まれ、日清戦争・日露戦争・第一次大戦と佐世保が戦争の基地になるたびに施設を広げた。敗戦で海軍そのものは消えたが、天然の良港と海軍が巨費を投じて建設した施設は残り、その中心が工廠だった。占領軍に接収され佐世保地方復員局管理部が管理していた同工廠は、1946年2月、兵器工場と電気工場を除く約3分の2の民間転用が認められた。これを受けて内務・大蔵・運輸の各省と造船連合会があっせんに立ち、造船・造機部門の施設を大蔵省から借り受ける形で、1946年10月1日、資本金600万円の佐世保船舶工業が設立された。社長には福岡県宗像郡出身で占部造船所長だった占部五郎が就任し、取締役に塩津英薫、三枝貞蔵、中村倍治、地元親和銀行の北村徳太郎が並んだ。
- 人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」
- [1]佐世保海軍工廠は1889年(明治22年)の鎮守府設置と同時に生まれ、日清・日露・第一次大戦と佐世保が戦争の基地となるたびに施設を広げた
- [2]敗戦で海軍は消え去ったが、天然の良港と海軍が巨大な費用をつぎこんで建設した施設は残り、その中心が海軍工廠だった
- [3]占領軍に接収され佐世保地方復員局管理部が管理していた同工廠は、1946年2月に兵器・電気工場を除く約3分の2の民間転用が許された
- [5]社長には福岡県宗像郡出身で占部造船所長だった占部五郎が就任し、取締役に塩津英薫、三枝貞蔵、中村倍治、地元親和銀行の北村徳太郎が入った
- 佐世保重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】/人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」
- [4]内務・大蔵・運輸各省および造船連合会のあっせんで、旧佐世保海軍工廠の造船・造機部門の施設を大蔵省から借り受け、1946年10月1日に資本金600万円の佐世保船舶工業株式会社が設立された
発足と同時に旧工廠の従業員をいったん全員解職し、優秀技術者約1,800名を新規に採用したうえで、船舶の修理と旧海軍艦艇の救難・解体に着手した。旧工廠は駆逐艦や潜水艦を主に建造してきた工場で、創設から終戦時の解体までの56年間に一等巡洋艦11隻、駆逐艦29隻、い号潜水艦20隻など合計117隻・17万5,000トンを送り出していた。設備は優れていたが、当時は大造船所がナベやカマをつくった時代であり、同社もナベ・カマのほか鉱山機械の製作と修理を引き受けた。電源開発関係その他の一般鉄構造物や一般産業機械の造修にも当たった。
- 人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」
- [6]SSKは発足と同時に旧工廠の従業員を一応みんな解職し、優秀技術者約1,800名を新規採用して船舶の修理、旧海軍艦艇の救難、解体などの事業を始めた
- [7]旧工廠は主として駆逐艦・潜水艦などを建造していた工場で、創設当初から終戦解体までの56年間に一等巡洋艦11、駆逐艦29、い号潜水艦20など合計117隻・17万5,000トンを建造していた
- [8]当時は大造船所がナベ、カマをつくった時代で、SSKもナベ、カマはもとより鉱山機械の製作や修理もやった
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編 企業の歴史「佐世保重工業」
- [9]船舶の修理や艦艇の解体をはじめ、電源開発関係その他一般鉄構造物ならびに一般産業機械の造修に当たった
もっとも、旧工廠であるがゆえの制約が操業を縛った。GHQからあらゆる船舶の新造禁止を課され、膨大な施設の使用についても幾多の制限を受けたため、作業は船舶の修理やケーブルクレーンの製作にとどまった。同工廠が賠償に指定されていたことがその根拠で、制限が解けるのは1952年4月の講和条約発効を待たねばならなかった。借りているのが国の施設である以上、何をつくるかは自社の外で決まった。それでも株主配当は年1割を確保し、1949年には従業員が3,600人へ増えた。資本金も増資を重ね、1949年6月に1億3,000万円となった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 42_造船造機「佐世保船舶工業」
- [10]当社が一般民間造船所と同一条件で経営しうるようになったのは1952年4月の講和条約発効以後のことで、それまでは旧工廠のゆえをもって幾多の制約を受けた
- [11]GHQから旧工廠のゆえをもってあらゆる船舶の新造禁止をはじめ、膨大な施設の使用上幾多の制約を受け、船舶修理、ケーブルクレーン等の作業にとどまっていた
- 人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」
- [12]同工廠が賠償に指定されていたため、1952年4月の平和条約発効まで船舶の新造禁止をはじめあらゆる面で制限を受けた
- [14]悪条件にもかかわらず同社の株主配当は年1割を確保し、1949年には従業員も3,600人に増加した
- [15]資本金も増資を重ね、1949年6月には1億3,000万円になった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 42_造船造機「佐世保船舶工業」/人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」
- [13]旧佐世保海軍工廠の造船・造機部門の施設は大蔵省から借り受けたもので、その膨大な施設の使用上も幾多の制約を受けた
参考文献[1]-[15]
- 人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」
- [1]佐世保海軍工廠は1889年(明治22年)の鎮守府設置と同時に生まれ、日清・日露・第一次大戦と佐世保が戦争の基地となるたびに施設を広げた
- [2]敗戦で海軍は消え去ったが、天然の良港と海軍が巨大な費用をつぎこんで建設した施設は残り、その中心が海軍工廠だった
- [3]占領軍に接収され佐世保地方復員局管理部が管理していた同工廠は、1946年2月に兵器・電気工場を除く約3分の2の民間転用が許された
- [5]社長には福岡県宗像郡出身で占部造船所長だった占部五郎が就任し、取締役に塩津英薫、三枝貞蔵、中村倍治、地元親和銀行の北村徳太郎が入った
- [6]SSKは発足と同時に旧工廠の従業員を一応みんな解職し、優秀技術者約1,800名を新規採用して船舶の修理、旧海軍艦艇の救難、解体などの事業を始めた
- [7]旧工廠は主として駆逐艦・潜水艦などを建造していた工場で、創設当初から終戦解体までの56年間に一等巡洋艦11、駆逐艦29、い号潜水艦20など合計117隻・17万5,000トンを建造していた
- [8]当時は大造船所がナベ、カマをつくった時代で、SSKもナベ、カマはもとより鉱山機械の製作や修理もやった
- [12]同工廠が賠償に指定されていたため、1952年4月の平和条約発効まで船舶の新造禁止をはじめあらゆる面で制限を受けた
- [14]悪条件にもかかわらず同社の株主配当は年1割を確保し、1949年には従業員も3,600人に増加した
- [15]資本金も増資を重ね、1949年6月には1億3,000万円になった
- 佐世保重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】/人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」
- [4]内務・大蔵・運輸各省および造船連合会のあっせんで、旧佐世保海軍工廠の造船・造機部門の施設を大蔵省から借り受け、1946年10月1日に資本金600万円の佐世保船舶工業株式会社が設立された
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編 企業の歴史「佐世保重工業」
- [9]船舶の修理や艦艇の解体をはじめ、電源開発関係その他一般鉄構造物ならびに一般産業機械の造修に当たった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 42_造船造機「佐世保船舶工業」
- [10]当社が一般民間造船所と同一条件で経営しうるようになったのは1952年4月の講和条約発効以後のことで、それまでは旧工廠のゆえをもって幾多の制約を受けた
- [11]GHQから旧工廠のゆえをもってあらゆる船舶の新造禁止をはじめ、膨大な施設の使用上幾多の制約を受け、船舶修理、ケーブルクレーン等の作業にとどまっていた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 42_造船造機「佐世保船舶工業」/人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」
- [13]旧佐世保海軍工廠の造船・造機部門の施設は大蔵省から借り受けたもので、その膨大な施設の使用上も幾多の制約を受けた
1947年〜佐鎮事件と市営構想、経営を救った朝鮮戦乱
1947年8月、占部五郎社長が公職追放で退き、北村徳太郎が後を継いだ。北村社長の在任は短く、同年12月に片山内閣の運輸相へ就任するため辞任したので、以後は専務の塩津英薫と佐世保造船所長の松本長蔵が組んで経営に当たった。この体制を揺さぶったのが、旧軍需物資の隠退蔵摘発をめぐる捜査だった。捜査班が第一回の手入れに入ったのが1948年2月16日、半年後の8月には東京地検の吉永検事らの特捜班が佐世保へ乗り込み、一斉捜査を始めた。終戦当時に佐世保鎮守府の管轄下にあった旧軍重要物資は当時の公定価格で5億7,600余万円にのぼり、その一部が同社に隠されているのではないかという疑いだった。
- 人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」
- [16]1947年8月、社長の占部五郎は追放で退き、代わって北村徳太郎が社長になった
- [17]北村徳太郎は1947年12月、片山内閣の運輸相就任のため社長を辞任し、そのあとは専務の塩津英薫と佐世保造船所長の松本長蔵が経営に当たった
- [18]旧軍需物資の隠退蔵摘発の問題をめぐって、発足間もないSSKをゆすぶった佐鎮事件が起った
- [19]1948年2月16日に旧軍需物資の隠退蔵摘発の捜査班が第一回の手入れを行い、半年後の8月には東京地検から吉永検事らの特捜班が佐世保に乗りこみ、同社の一斉捜査を始めた
- [20]終戦当時に佐世保鎮守府の管轄下にあった旧軍重要物資(当時の公定価格で5億7,600余万円といわれる)の一部がSSKに隠されているのではないかという疑いだった
捜査は1948年12月まで続き、同社幹部を含む117名が起訴され、摘発された物資は1億3,000万円にのぼった。取り調べが進むほど、起訴は幹部へ広がった。塩津英薫専務、松本長蔵常務、発足時から常務の中村倍治と三枝貞蔵ら、多くがその対象となった。一時社長を務めた元運輸相の北村徳太郎にも、偽証罪の疑いで衆院不当財産取引委員会から証人としての呼び出しがかかった。首脳陣が一時からになった同社は経営がマヒし、従業員の給料は2回払い、3回払いとなった。裁判は第一審で松本、三枝、中村らに執行猶予付きの有罪、会社に罰金10万円の判決が出たものの、1951年の福岡高裁での第二審は全員無罪、会社への罰金5,000円で確定して落着した。
- 人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」
- [21]捜査は1948年12月まで続けられ、その間に起訴されたものはSSK幹部をはじめ117名に上り、摘発された物資は1億3,000万円に達した
- [22]取調べが進むにつれ専務の塩津英薫、常務の松本長蔵、発足時の中村倍治、三枝貞蔵両常務ら同社幹部の多くが起訴された
- [23]元運輸相で一時同社社長だった北村徳太郎も偽証罪の疑いで、衆院の不当財産取引委員会に証人として呼び出された
- [24]SSKは一時首脳陣がからっぽになり経営はマヒ状態で、従業員の給料も2回払い、3回払いとなった
- [25]第一審で松本、三枝、中村らに有罪(執行猶予)、SSKに罰金10万円の判決があったが、1951年の福岡高裁での第二審では全員無罪、SSKに罰金5,000円の判決が確定して落着した
船舶運営会がなくなり、仕事は船主と直接掛け合って取るものになった。戦後に参入した新顔の同社はそこで無理な競争を強いられ、1949年から1950年にかけて業績は急激に落ち込んで、給料の支払いが遅れた末に約1,000人を整理するところまで追い詰められた。佐世保市長の中田正輔氏が打開策として持ち出したのは、会社を市営に切り替える案で、軍財産を平和産業に転用する場合は市へ無償で譲ると定めた旧軍港市転換法を有利に使う狙いがあった。1950年7月25日、中田正輔市長は佐世保市議会全員協議会で、再建には市営しかないとの方針を示して議員たちを驚かせた。ところが1950年6月に始まった朝鮮戦乱で経営は2倍近くまで持ち直し、市営に移す理由は消えたとして、構想は取りやめとなった。
- 人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」
- [26]1949年から1950年になるとSSKの業績は急カーブで下がり始めた
- [27]船舶運営会の解体によって受注は船主と直接交渉となり、新しいSSKは無理な競争もしなければならず、給料の遅払いからやがて約1,000人の従業員の整理にまで追いこまれた
- [28]窮状打開の方策として持出されたのがSSK市営論で、その立役者は当時の佐世保市長中田正輔である
- [29]市営構想は「軍財産を平和産業に転換する場合は市に無償で譲る」という旧軍港市転換法を有利に活用することをねらったものだった
- [30]1950年7月25日の佐世保市議会全員協議会で、市長の中田正輔は市営以外に再建の道はないと切り出し、なみいる議員を驚かせた
- [31]1950年6月に始まった朝鮮戦乱の影響で経営は2倍近く好転し、市営移管の必要がなくなったとして市営案は打切りになった
参考文献[16]-[31]
- 人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」
- [16]1947年8月、社長の占部五郎は追放で退き、代わって北村徳太郎が社長になった
- [17]北村徳太郎は1947年12月、片山内閣の運輸相就任のため社長を辞任し、そのあとは専務の塩津英薫と佐世保造船所長の松本長蔵が経営に当たった
- [18]旧軍需物資の隠退蔵摘発の問題をめぐって、発足間もないSSKをゆすぶった佐鎮事件が起った
- [19]1948年2月16日に旧軍需物資の隠退蔵摘発の捜査班が第一回の手入れを行い、半年後の8月には東京地検から吉永検事らの特捜班が佐世保に乗りこみ、同社の一斉捜査を始めた
- [20]終戦当時に佐世保鎮守府の管轄下にあった旧軍重要物資(当時の公定価格で5億7,600余万円といわれる)の一部がSSKに隠されているのではないかという疑いだった
- [21]捜査は1948年12月まで続けられ、その間に起訴されたものはSSK幹部をはじめ117名に上り、摘発された物資は1億3,000万円に達した
- [22]取調べが進むにつれ専務の塩津英薫、常務の松本長蔵、発足時の中村倍治、三枝貞蔵両常務ら同社幹部の多くが起訴された
- [23]元運輸相で一時同社社長だった北村徳太郎も偽証罪の疑いで、衆院の不当財産取引委員会に証人として呼び出された
- [24]SSKは一時首脳陣がからっぽになり経営はマヒ状態で、従業員の給料も2回払い、3回払いとなった
- [25]第一審で松本、三枝、中村らに有罪(執行猶予)、SSKに罰金10万円の判決があったが、1951年の福岡高裁での第二審では全員無罪、SSKに罰金5,000円の判決が確定して落着した
- [26]1949年から1950年になるとSSKの業績は急カーブで下がり始めた
- [27]船舶運営会の解体によって受注は船主と直接交渉となり、新しいSSKは無理な競争もしなければならず、給料の遅払いからやがて約1,000人の従業員の整理にまで追いこまれた
- [28]窮状打開の方策として持出されたのがSSK市営論で、その立役者は当時の佐世保市長中田正輔である
- [29]市営構想は「軍財産を平和産業に転換する場合は市に無償で譲る」という旧軍港市転換法を有利に活用することをねらったものだった
- [30]1950年7月25日の佐世保市議会全員協議会で、市長の中田正輔は市営以外に再建の道はないと切り出し、なみいる議員を驚かせた
- [31]1950年6月に始まった朝鮮戦乱の影響で経営は2倍近く好転し、市営移管の必要がなくなったとして市営案は打切りになった
1952年〜会社更生法下の再建と大洋漁業との提携
1952年4月の講和条約発効で新造船建造禁止などの制約が解け、同社は新造船の建造を始めた。小型タンカーと貨客船の建造、兵器の生産に進み、設備資金と運転資金を調達するため数次の増資を重ねて、1954年2月に資本金は5億2,000万円となった。朝鮮戦乱の間は他の造船所をうらやましがらせるほど修理船を受注したが、戦乱が収まると工事は減った。1954年に入るとデフレ不況と造船疑獄が重なって造船界の不景気は深く、同社は同年9月決算で2億8,000万円の赤字を計上した。頼みは第十次計画造船の獲得だったものの必死の運動もむなしく指定から漏れ、同年11月に手形不渡りへ陥り、12月から会社更生法による整理が始まった。
- 佐世保重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】/企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編 企業の歴史「佐世保重工業」
- [32]1952年4月、講和条約発効により新造船建造禁止などの諸制約が解除され新造船の建造を開始した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 42_造船造機「佐世保船舶工業」
- [33]制約解除後は小型タンカー、貨客船建造、兵器の生産に進み、設備および運転資金調達のため数次の増資を行って1954年2月に資本金5億2,000万円となった
- 人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」
- [34]SSKは朝鮮戦乱中、他の造船所をうらやましがらせるほど修理船受注を持ったが、戦乱がおさまるとともに工事も少なくなった
- [35]1954年に入るとデフレ不況と造船疑獄事件が重なって造船界の不景気はひどく、SSKもこの年の9月決算では2億8,000万円の赤字を出した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 42_造船造機「佐世保船舶工業」/人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」
- [36]第十次計画造船の指定からもれ、1954年11月に手形不渡に陥り、同年12月会社更生法による整理開始となった
再建に乗り出した同社は、不要な施設の約3分の1を国へ返し、約1,000人の人員整理を行ったうえで、1955年3月から合理化案を実施した。管理人は古武弥輔、1955年8月からは牧野元、1956年11月からは監査役だった川副隆へと替わり、塩津英薫社長は整理入りの時点で退任した。この間、1955年10月ごろから大洋漁業との提携問題が持ち上がった。捕鯨船団の緊急増強を計画していた大洋漁業は造船所がどこも満員で船をつくれず、整理中の同社はドックを持ちながら新船建造の資金がなかった。海運界の長老である村田省蔵があっせんに立ち、1956年4月、大洋漁業が全額出資する資本金5,000万円の佐世保船舶商事が設けられた。大洋漁業が同商事を通じて2億円を限度に設備資金を融資し、同社は原則として大洋漁業発注の船を優先建造する、という2点が提携の内容だった。
- 人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」
- [37]再建に乗り出したSSKは不要の施設約3分の1を国に返し、約1,000人の人員整理を行うとともに1955年3月から合理化案を作って実施した
- [39]SSK(佐世保船舶工業)と大洋漁業との提携問題は1955年10月ごろから起こっている
- [40]捕鯨船団の緊急増強を計画していた大洋漁業は造船ブームで造船所がどこも超満員のため船をつくれず、一方SSKはドックはあっても新船建造のための資金がなかった
- [41]あっ旋者は海運界の長老村田省蔵で、1956年4月に大洋がSSKに発注する工事の仲介と資材の調達を目的として佐世保船舶商事(資本金5,000万円=全額大洋出資)が生まれた
- [42]提携の内容は①大洋は佐世保船舶商事を通じてSSKに2億円を限度として設備資金を融資する②SSKは原則として大洋発注の船を優先建造する、の2点だった
- 人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」/会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 42_造船造機「佐世保船舶工業」
- [38]管理人には三菱出身で元三菱日本重工横浜造船所長の古武弥輔が就き、1955年8月に元森田汽船副社長の牧野元が代わり、1956年11月には元SSK監査役の川副隆が管理人(代表取締役)に就任した。社長の塩津英薫は整理入りの際に退職した
大洋漁業は並行して株を買い集め、1956年夏までに全株数約1,290万株のうち3分の1以上にあたる約450万株を取得した。毎月5,000万円ほどの造機工事を同社へ下請に出していた三菱造船も提携に加わり、大洋漁業とともに大株主として再出発を支えた。1957年3月4日、2年3カ月にわたった整理が終わり、同月20日の臨時株主総会で川副隆を社長とする新役員が決まった。三菱造船からは森米次郎が副社長、米山修一が佐世保造船所長として、大洋漁業からは中部悦郎が副社長として入った。新発足時の手持工事は2万トンタンカーを含めて100億円を超えた。1959年4月に福岡証券取引所へ上場し、1961年7月に社名を佐世保重工業へ改め、同年8月には東京証券取引所第一部へ上場した。前社名のローマ字をとったSSKの略称は、社名を変更したのちも同社の呼び名として残った。
- 人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」
- [43]大洋はSSK株の買集めを進め、1956年夏までに全株数約1,290万株のうち3分の1以上を占める約450万株を取得した
- [44]三菱造船はそれまで毎月約5,000万円ていどの造機工事の下請をSSKに出しており、三菱・大洋・SSKの三社提携が成立して大洋、三菱とも同社の大株主として経営陣に人材を送るほか資金、資材の面でも再出発を支援することになった
- [45]1957年3月4日、2年3カ月にわたった整理が終わり、同月20日のSSKの臨時株主総会で社長川副隆以下の新役員人事が原案どおり決まった
- [46]三菱造船からは常務の森米次郎が副社長として、三菱神戸営業所長だった米山修一が常務(佐世保造船所長)として入り、大洋側からは副社長で長崎財界の中部悦郎が入った
- [47]新発足当時のSSKは2万トンタンカーなどを含めて100億円を越す手持工事を持っていた
- 佐世保重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
- [48]1959年4月に福岡証券取引所へ上場、1961年7月に佐世保船舶工業株式会社を佐世保重工業株式会社に社名変更、1961年8月に東京証券取引所第1部へ上場した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編 企業の歴史「佐世保重工業」
- [49]前社名が佐世保船舶工業株式会社であったため、そのローマ字をとったSSKが現在も同社の略称として広く用いられている
参考文献[32]-[49]
- 佐世保重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】/企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編 企業の歴史「佐世保重工業」
- [32]1952年4月、講和条約発効により新造船建造禁止などの諸制約が解除され新造船の建造を開始した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 42_造船造機「佐世保船舶工業」
- [33]制約解除後は小型タンカー、貨客船建造、兵器の生産に進み、設備および運転資金調達のため数次の増資を行って1954年2月に資本金5億2,000万円となった
- 人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」
- [34]SSKは朝鮮戦乱中、他の造船所をうらやましがらせるほど修理船受注を持ったが、戦乱がおさまるとともに工事も少なくなった
- [35]1954年に入るとデフレ不況と造船疑獄事件が重なって造船界の不景気はひどく、SSKもこの年の9月決算では2億8,000万円の赤字を出した
- [37]再建に乗り出したSSKは不要の施設約3分の1を国に返し、約1,000人の人員整理を行うとともに1955年3月から合理化案を作って実施した
- [39]SSK(佐世保船舶工業)と大洋漁業との提携問題は1955年10月ごろから起こっている
- [40]捕鯨船団の緊急増強を計画していた大洋漁業は造船ブームで造船所がどこも超満員のため船をつくれず、一方SSKはドックはあっても新船建造のための資金がなかった
- [41]あっ旋者は海運界の長老村田省蔵で、1956年4月に大洋がSSKに発注する工事の仲介と資材の調達を目的として佐世保船舶商事(資本金5,000万円=全額大洋出資)が生まれた
- [42]提携の内容は①大洋は佐世保船舶商事を通じてSSKに2億円を限度として設備資金を融資する②SSKは原則として大洋発注の船を優先建造する、の2点だった
- [43]大洋はSSK株の買集めを進め、1956年夏までに全株数約1,290万株のうち3分の1以上を占める約450万株を取得した
- [44]三菱造船はそれまで毎月約5,000万円ていどの造機工事の下請をSSKに出しており、三菱・大洋・SSKの三社提携が成立して大洋、三菱とも同社の大株主として経営陣に人材を送るほか資金、資材の面でも再出発を支援することになった
- [45]1957年3月4日、2年3カ月にわたった整理が終わり、同月20日のSSKの臨時株主総会で社長川副隆以下の新役員人事が原案どおり決まった
- [46]三菱造船からは常務の森米次郎が副社長として、三菱神戸営業所長だった米山修一が常務(佐世保造船所長)として入り、大洋側からは副社長で長崎財界の中部悦郎が入った
- [47]新発足当時のSSKは2万トンタンカーなどを含めて100億円を越す手持工事を持っていた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 42_造船造機「佐世保船舶工業」/人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」
- [36]第十次計画造船の指定からもれ、1954年11月に手形不渡に陥り、同年12月会社更生法による整理開始となった
- 人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」/会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 42_造船造機「佐世保船舶工業」
- [38]管理人には三菱出身で元三菱日本重工横浜造船所長の古武弥輔が就き、1955年8月に元森田汽船副社長の牧野元が代わり、1956年11月には元SSK監査役の川副隆が管理人(代表取締役)に就任した。社長の塩津英薫は整理入りの際に退職した
- 佐世保重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
- [48]1959年4月に福岡証券取引所へ上場、1961年7月に佐世保船舶工業株式会社を佐世保重工業株式会社に社名変更、1961年8月に東京証券取引所第1部へ上場した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編 企業の歴史「佐世保重工業」
- [49]前社名が佐世保船舶工業株式会社であったため、そのローマ字をとったSSKが現在も同社の略称として広く用いられている
出典・参考
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- 佐世保重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】/企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編 企業の歴史「佐世保重工業」
- 佐世保重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】/人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」
- 佐世保重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 42_造船造機「佐世保船舶工業」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 42_造船造機「佐世保船舶工業」/人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」
- 人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」/会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 42_造船造機「佐世保船舶工業」
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編 企業の歴史「佐世保重工業」
- 人物中心に見た西日本産業変遷記「佐世保船舶工業」