住友重機械工業造船・製鉄機械部門を対象とする希望退職の募集と1,700人の人員削減

残ってもらう人と、やめてもらう人をどう線引きするか——円高下の雇用調整

時期 1987年2月
意思決定者(推定) 合田茂 社長
論点 造船部門の縮小と雇用調整
概要
1987年2月、住友重機械工業は造船・製鉄機械など不況部門の35歳以上の社員1,600人を対象に希望退職の募集に踏み切った。1986年12月からの3カ月で、希望退職1,300人、出向などとあわせて1,700人を削減している。中期経営計画から必要な人材を選り分ける基準を作り、対象者一人ひとりに直接その意向を伝えるやり方をとった。
背景
1969年の浦賀重工業との合併で抱えた造船は、1985年3月期に売上高695億円と全体の23%を占める規模に育っていた。1985年9月のプラザ合意後の円高は輸出船の採算を直撃し、当期損益は1986年3月期に73億円、1987年3月期に110億円の赤字へ沈んだ。
内容
円高への対応を織り込んだ中期経営計画から4年先・5年先の組織像と人材像を描き、それに照らして残ってもらう人とやめてもらいたい人のリストを作成した。そのうえで対象社員に個別に声をかけた。組合は退職者を特別組合員として抱え、1989年まで収入を補う制度と再就職の世話役を用意した。
含意
1988年3月期には3億円の当期利益で黒字に戻ったが、1992年3月期の売上高経常利益率は1.5%と造船重機大手で最も低かった。2002年には再び一律15%の賃金カットに踏み込む。人員の削減が収益力の回復と直結しなかった経過を示している。
筆者の見解

「やめてほしい」と告げること

この判断を、円高に追われた雇用調整の一例として括ってしまうと、住友重機械が同業他社と違えた部分が見えなくなる。変えたのは削減の規模ではなく、伝え方であった。中期経営計画から4年先の組織像を描き、残す人とやめてもらう人のリストを作り、対象者一人ひとりに「あなたはやめてほしい」と直接告げる——兵頭副社長の語る手順は、退職を社員の自発に委ねる建前を会社の側から降ろすものであったとみられる。

もっとも、線引きが思うとおりに運んだわけではない。残ってくれと頼んだ技術者や経理担当も25人が去り、組合は退職者を特別組合員として抱え、1989年まで収入を補う仕組みを用意した。3カ月で1,700人を減らした後も、1992年3月期の売上高経常利益率は1.5%と造船重機大手で最も低く、2002年には再び一律15%の賃下げに向かう。人を減らすことと収益力を戻すことが別の作業であったと、この15年は示しているといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

三本柱の一角となっていた造船

住友重機械工業は1969年に浦賀重工業と合併し、鉱山機械から出発した機械メーカーが造船という異質な事業を抱えた。合併から15年余りを経た1985年3月期の部門別売上高は、一般機械1,450億円、標準機械896億円、船舶海洋695億円で、造船は全体の23%を占めていた。追浜造船所と浦賀の設備を持つ船舶本部は、規模の面でも人員の面でも、簡単には畳めない事業に育っていた[1][2]

1985年9月のプラザ合意後の円高は、ドル建てで受注する輸出船の採算を直撃した。住友重機械の当期損益は1986年3月期に73億円の赤字、1987年3月期には110億円の赤字へと沈み、2期続けて損失を計上した。同社が1984年に定めた10年計画「長期ビジョンSHI93」は、1993年に単独5,000億円・グループ1兆円という規模を掲げていたが、この環境の変化で目指す意義が失われた[3][4]

造船各社に広がった雇用調整

人減らしそのものは初めてではなかった。第一次石油危機の後、住友重機械は船舶部門でいち早く50%操業体制へ移り、社外工の圧縮を先に進めている。浅田厚専務は1976年、1974年9月末に2,981名いた社外工を1977年3月には1,049名まで減らす計画を示し、同じ期間の社内工の減少は617名にとどまると説明した。外部の労働力を先に手放して採算を保つやり方であった[5]

1986年度は造船各社が一斉に人を減らした年でもあった。日立造船は希望退職などで約6,000人、石川島播磨重工業は相生工場の閉鎖に伴い7,000人、三井造船は56歳以上の社員全員を対象とする特別退職などで3,100人の削減を達成している。1987年1月には完全失業率が3%台に乗り、完全失業者は182万人に達した。住友重機械の募集も、この波のなかに置かれていた[6][7]

決断

名指しで意向を伝える募集

1987年2月、住友重機械は造船・製鉄機械など縮小中の部門で、35歳以上の社員1,600人を対象に希望退職の募集を始めた。手順は退職金の上乗せから入るものではなかった。兵頭副社長は「今回の雇用調整では、この円高にどう対応するかという中期経営計画を立て、それに照らして4年先、5年先の組織の姿とそれに見合う人材像を描いた」と述べ、そのうえで残す人材を選り分ける基準を作ったと説明している[8]

基準に沿って作られたのは、残ってもらう人とやめてもらいたい人の二つのリストであった。同社はそのリストを使い、対象となる社員一人ひとりに「あなたはやめてほしい」「あなたは辞めないで残ってくれ」と直接声をかけた。募集の形式を保ちながら、会社側の意向を伏せない進め方であった。1986年12月からの3カ月で、希望退職1,300人、出向などとあわせて1,700人の削減を達成している[9][10]

組合が引き受けた部分

組合は反対の側に立たず、退職後の生活を支える仕組みを引き受けた。住友重機械労働組合の稲見剛毅委員長によれば、今回やめた人のほとんどを「特別組合員」として組合に加入させている。退職金の運用益と再就職後の賃金・雇用保険を合わせても一定額に届かない場合、差額を1989年いっぱいまで組合が補い、手取り20万円を保証する制度であった。横須賀・新居浜・玉島には再就職の世話役を専従で置いた[11]

会社の描いた線引きは、そのまま実現したわけではなかった。兵頭副社長は「残ってくれと言った者からも、技術者や経理マンなど25人の退職者が出た」と認めている。一方で「やめて欲しいと言った人は全員がやめてくれました」とも語り、公然と告げられた者が居残りにくい職場の空気を、その理由に挙げた。造船重機労連の伊藤祐禎書記長は住友重機械の出身で、一企業に終身雇用を守らせることは事実上無理だと述べている[12][13]

結果

黒字復帰と、戻らなかった収益力

削減の効果は翌期の決算に表れた。1988年3月期の売上高は2,000億円へと縮んだが、当期損益は3億円の黒字へ戻り、2期続いた赤字は止まった。造船の周辺設備を自社の外へ出す整理も続き、1988年10月にはディーゼルエンジン部門を分離して、石川島播磨重工業と共同でディーゼルユナイテッドを設立している。船を作る体制は、規模を縮めたまま残された[14][15]

収益力そのものは戻らなかった。1992年3月期の売上高2,873億円は、NKKを除く造船重機大手6社で最下位であり、売上高経常利益率1.5%も最低の水準であった。合田茂会長は当時の人員整理を「あんな経験は二度としたくない」と振り返っている。1990年には合田氏と久保正大郎社長が長期計画を練り直し、2000年に単独5,500億〜6,000億円を目指す「2000年ビジョン」を打ち出した[16][17]

人を減らした後に残った課題

減らした後には、人を集める課題が残った。住友重機械は1991年1月から女優の有森也実氏を起用した企業イメージ広告をテレビと新聞で始め、業績悪化を理由に一度は中止の仮決定が出たものの、広報部の説得で継続している。日本経済新聞の人気企業ランキングでは、理系学生の順位が1989年度就職予定の181位から1993年度は120位へ、文系では799位から478位へ上がった[18]

雇用に手を入れる場面は、この一度では終わらなかった。2002年、住友重機械は一般社員を対象に年収ベースで一律15%の賃金カットを盛り込んだリストラ策を発表している。2019年に社長となる下村真司氏は、最も業績が厳しかった2001年ごろの大赤字を強く記憶していると後年語った。1987年に縮めた造船は、2024年2月に子会社が一般商船の新造船事業から撤退するまで会社に残り続けた[19][20][21]

出典・参考

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