住友重機械の原点は、1888年に愛媛県新居浜の別子銅山で発足[1]した住友別子鉱業所工作方にある。鉱山経営に必要な機械設備を内製化するために設置された工作部門で、三菱が長崎造船所を起点に造船・重機の外販へ振り向けたのに対し、住友財閥は鉱山経営が中核で機械部門は鉱山向けの内製工場だった。1968年刊の社史『企業の歴史 明治百年』によれば、別子鉱業所の機械課[2]に発したこの工場は1928年に住友別子鉱山株式会社新居浜製作所へ改称され[3]、1934年11月に資本金500万円の住友機械製作所株式会社として独立、[4]1940年には1拠点体制のまま現在の前身となる住友機械工業へ改称した。[5]社名と資本金を重ねつつも、住友グループ向けの産業機械を請け負う色彩が強く、グループ外への積極的な営業展開は行われなかった。出自が鉱山内製工場であるという事情は、戦後の競争市場に晒された際の営業力不足として、長く同社の経営課題に残った。
1935年には独サイクロ社と提携し、歯車を使わずに減速を実現するサイクロ減速機に参入[6]した。これが戦前唯一の先発参入事業となり、戦後の主力製品として長く同社を支え続ける柱となる。ただしこれ以外では、プレス機・輸送機械・電線機械・化学機械・鉱山機械・精錬機械まで何でも作るゼネラリスト路線で、グループ外への外販に弱い体質を抱えたまま戦後を迎えた。住友グループ以外への販売力不足は、戦後の財閥解体で経営課題として噴き出した。製品ラインナップを絞り込まず、あらゆる機械領域に少しずつ手を出す戦前の経営スタイルは、規模を確保する代わりに個別事業の競争力を育てにくい構造だったと言える。戦前財閥系企業に共通する特徴で、戦後市場では弱点となった。
終戦と財閥解体は住友機械の営業基盤を崩した。財閥色を避けるため1945年12月にいったん四国機械工業へ改称し、[7]講和後の1952年5月に旧社名の住友機械工業へ復した経緯もこの時期にあたる。[8]住友グループからの発注理由が消え、市場競争に晒される一方、新居浜1拠点・総合化志向のコスト構造は改善されず、1954年3月期と1955年3月期に2期連続で赤字に転落した。1955年3月期の最終赤字は6.9億円に達し、当時の資本金2.7[9]億円を上回る水準となった。1954年9月末の自己資本比率は4%まで低下し、大手財閥企業の債務超過危機として注目を浴びた。戦後間もない時期の財閥系企業の経営危機としては深刻な水準であり、グループ金融機関からの支援を前提としなければ債務超過を回避できない局面に陥った。戦前のゼネラリスト体質が、戦後の競争市場では致命的な弱点として噴き出しており、住友機械にとっての再出発点となった。
緊急対応として資産再評価積立金を取り崩して欠損を補填し、債務超過を辛うじて回避した。鮫島竜雄社長は引責辞任[10]した。この危機を経て1961年には名古屋製造所[11]、1965年には千葉製造所と専門工場を次々に新設し[12]、新居浜1拠点体制からの脱却が始まる。1966年にはスイスのネスタール社と提携して射出成形機に参入し[13]、後のプラスチック機械事業の原点となった。住友機械が産業機械のゼネラリストから、個別分野で合理化された工場を持つメーカーへと形を変え始めた時期である。専門工場ごとに製品を割り当て、新居浜の総合工場では吸収できない効率化を実現しようとする動きが、危機対応の延長として進められていった時期にあたる。戦後の経営危機を土台に、同社は少しずつ専門化と拠点分散を進めていくこととなる。
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|---|---|---|---|---|
| 1888〜1968年別子銅山発の産業機械メーカーとしての歩み | 住友別子鉱業所工作方を設立 | ★ | ||
| 住友機械製作所を設立 | ★ | |||
| サイクロ社と提携 | ★★ | |||
| 東京証券取引所に株式上場 | ★ | |||
| 経営危機と鮫島社長引責辞任 | ★★ | |||
| 鮫島龍雄 | 名古屋製造所を新設 | ★ | ||
| 市川恒雄 | 射出成形機に参入 | ★★ | ||
| 1969〜2018年浦賀重工業との合併と重工業メーカーへの転換 | 市川恒雄 | 造船大手・浦賀重工業の吸収合併と重工業メーカーへの転換 1969年6月30日、機械専業だった住友機械工業が造船大手の浦賀重工業を10対5.5の比率で吸収合併し、住友重機械工業が発足した。合併後の資本金は71億6,000万円、従業員は1万人をわずかに超える規模となった。別子銅山の内製工場を出自とする会社が、造船部門を抱える重工業メーカーへ移った合併である。 詳細を読む | ★★★ | |
| 岩崎信彦 | 追浜造船所開設 | ★ | ||
| 岩崎信彦 | 愛媛製造所西条工場を新設 | ★ | ||
| 西村恒三郎 | Eaton社と合弁で住友イートンノバを設立 | ★★ | ||
| 合田茂 | 住友建機を設立 | ★ | ||
| 合田茂 | 造船・製鉄機械部門を対象とする希望退職の募集と1,700人の人員削減 1987年2月、住友重機械工業は造船・製鉄機械など不況部門の35歳以上の社員1,600人を対象に希望退職の募集に踏み切った。1986年12月からの3カ月で、希望退職1,300人、出向などとあわせて1,700人を削減している。中期経営計画から必要な人材を選り分ける基準を作り、対象者一人ひとりに直接その意向を伝えるやり方をとった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 日納義郎 | 大規模な赤字 | ★ | ||
| 日納義郎 | 1,000名削減・年収15%カットを実施 | ★★ | ||
| 日納義郎 | 造船事業を住友重機械マリンエンジニアリングへ分社 | ★ | ||
| 中村吉伸 | 独デマーグを皮切りとする欧州機械メーカー5社の連続取得 住友重機械工業は2008年3月のドイツ・デマーグ買収を皮切りに、2011年ベルギーのHansen、2017年オランダのFW Energie、2018年イタリアのLafert、2019年英国Invertek Drivesと、欧州の機械メーカー5社を相次いで取得した。造船・建設機械への依存を下げ、ギヤ・プラスチック機械・エネルギー・電機駆動の各分野で欧州拠点を揃える事業拡張であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 中村吉伸 | SEN-SHI・アクセリスを完全子会社化 | ★ | ||
| 中村吉伸 | ベルギーHansen Industrial Transmissionsを買収 | ★ | ||
| 別川俊介 | 別川俊介氏が社長に就任 | ★ | ||
| 別川俊介 | 三菱重工の産業用クレーン事業を譲受 | ★ | ||
| 2019〜2025年新造船撤退と半導体装置を軸にした事業再構築 | 下村真司 | 下村真司氏が社長に就任 | ★ | |
| 下村真司 | Invertek Drivesを買収 | ★ | ||
| 下村真司 | 特別損失約263億円 | ★ | ||
| 下村真司 | 新造船事業からの撤退を発表 | ★★ | ||
| 渡部敏朗 | 渡部敏朗氏が社長に就任 | ★ | ||
| 渡部敏朗 | 500名規模の希望退職を実施方針 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(住友重機械工業)