椎名武雄
日本アイ・ビー・エム・元最高経営責任者を兼任
Shiina Takeo
就任年 1975年
就任時年齢 —
退任年 1993年
在任期間 18年
出自 —
- 製品・販路・開発拠点を日本側へ寄せ、外資の現地法人を「日本の企業」として通した経営者である。
- 1982年にIBM特約店制度を発足させ、直販に頼らない販路を国内に広げた。1977年には製品センターを開設している
- 1979年に漢字情報システム、1980年に日本語文書処理システム、1983年に日本語処理を組み込んだマルチステーション5550を投入し、1985年には大和研究所を完成させた
- 藤沢・野洲の両工場はIBMが世界に持つ40余りの工場のうち品質と製造技術で常に上位5位以内とされ、藤沢の小集団活動エクセル・サークル86組の成果は欧米各国の工場へ伝えられた
- 外資系で初めて売上高1兆円に到達させ、収益力では国内大手を上回った。ただし売上高の首位は取り戻せなかった。
- 1987年12月期の売上高は1兆606億円、税引後利益742億円、従業員2万210名。1981年と1990年を比べると売上高は3倍、税引利益は2倍になった
- 1988年の総資本経常利益率29.5%は、同年の富士通・日立製作所・NECのいずれをも大きく上回った
- 一方で1979年に富士通が売上高で逆転し、設置金額のシェアでも1985年に首位が入れ替わった。1987年12月期は税引利益742億円に対して配当594億円が親会社へ支払われ、配当性向は80%に達した
- 「THINK」と「栄光ある不満」を掲げ、現状打破を社員へ求めた経営者である。
- 副社長時代の取材では、会社のやり方が気にいらないときは何度も自分の考えをぶつけ、会社もそれを受けいれる環境を用意してくれたと述べている
- 新しいものへ向かうには現状打破が要るとして、社是の「THINK(考えよ)」に加えて「グロリアス・ディスコンテント(栄光ある不満)」を持てと社員へ説いた。当時の日本IBMの平均年齢は28歳だった
- 退任の直前に構造改革へ着手し、初の赤字決算を迎える前に後任へ引き継いだ経営者である。
- 1992年10月に本体・情報サービス・サービスの3分社化を発表し、同年11月にセカンドキャリア支援プログラムを設けた
- 1975年2月28日に45歳で社長へ就任した。13年間その座にあった稲垣早苗氏は代表権を持つ会長へ移った
- 1993年1月に北城恪太郎氏へ社長を譲って会長に就き、同年3月に最高経営責任者を退いた。在任は17年11カ月にわたる
- 会長就任後の取材では、構造変革には3年ほど前から着手しており分社もその一環であるとしたうえで、リストラクチャリングはまだ緒についたところだと語っている
就任前(FY73)1,966億円
退任時-
変化-
就任前-
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椎名武雄の経歴社長就任に至るキャリア
所属・役職1953年1960197019901999年╱╱
日本アイ・ビー・エム
1953年入社(内定後にカナダIBMで2〜3カ月の実習、入社直後に新工場のレイアウトを担当)
1950年糀谷工場 副工場長
1960年千鳥町工場長
1962年取締役(営業担当)
1965年常務(人事・生産担当)
1967年副社長(営業担当)
1970年副社長(オペレーション担当)
1973年副社長(コーポレート・スタッフ/人事・管理全般)
1975年代表取締役社長
1978年最高経営責任者を兼任
1993年代表取締役会長
1993年最高経営責任者を退任
1999年最高顧問
経済同友会
1990年経営問題委員長
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