伊藤家の始祖祐広は織田信長に仕えた小姓だった。その子祐道は本能寺の変に遭って志を捨てて退き、慶長16年(1611年)、名古屋本町で呉服小間物の小売商[1]を開いた。ただし創業については資料が食い違う。会社が1955年に外部へ示した沿革はこの慶長16年・名古屋本町とするのに対し、16代当主の伊藤次郎左衛門祐茲は自伝で、祐広と祐道はともに大坂の陣で戦死し、それに懲りて武士を嫌った家が万治2年に茶屋町で店を開いたと述べている。[2]48年の開きがあり、祐道が戦死したかどうかまで違う。有価証券報告書の【沿革】は一貫して慶長16年創業[3]を採ってきたので、本稿もこれに従う。戦国の世に武士をやめた家が名古屋に居着いたところから、この店の歴史は始まる。
二代祐基の代に店を名古屋茶屋町へ移し、呉服小間物問屋を兼ねた。元禄年間に店の基礎が固まり、享保年間には問屋業をやめて呉服太物の小売商へ戻している[4]。卸の利幅より店頭の商いを選んだ判断で、以後この家は最後まで小売から離れなかった。延享2年(1745年)には京都に仕入店を置き[5]、産地から直接引く体制をつくっている。江戸期の伊藤家は呉服商にとどまらなかった。尾張藩の呉服御用を命じられ、金銭入帳役を務め、明治維新の直後には府県為替方を担当[6]している。商人としての信用が藩と新政府の双方から使われた形で、名古屋における伊藤家の位置は、店の規模よりも公の仕事を任される度合いに表れていた。
明和5年(1768年)、伊藤家は江戸・上野の松坂屋を買収[7]して関東支店とし、これを松坂屋いとう呉服店と称した。『松坂屋』は伊藤家がみずから掲げた屋号ではなく、江戸へ出るために買い取った他人の店の名である。名古屋の家が江戸で使ったその看板は、157年後の1925年に会社そのものの商号となり[8]、統合後の2007年まで生き延びた。名古屋では戦前まで『いとうさん』と呼ぶ客が多かったといい[9]、社名と通称は長く並走している。買い取った屋号のほうが本家の名より長持ちしたことになる。江戸の店は寛永寺の僧侶の衣や前田家の御用を務め、藩と寺社に支えられた商いを続けた。名古屋の本店とは客層も品目も異なる二本立てで、この構造は昭和に入っても変わらなかった。
家の統治には別家という仕組みがあった。伊藤家には恒産を持つ別家が10軒あり、これが最高首脳として店を支えた。別家の長男は伊藤家では使わず外へ出し、別家の長女には伊藤家の番頭のうち秀才を養子に迎える[10]。その養子に娘ができれば、また番頭を養子に取る。血縁ではなく商才で首脳部を再生産する装置で、16代当主は『伊藤家の長く続いたのもこの別家制度に負うところが大いにある』[引用元]と述べている。制度は明治維新後の長子相続制の施行とともに崩れはじめ[11]、百貨店の開業とともに消えた。300年続いた店が近代企業へ移るとき、最初に失われたのは統治の仕組みだった。
15代伊藤次郎左衛門祐民は1909年8月、渡米実業団の一員として約3[12]か月アメリカを回り、そこで初めて外国の百貨店を見た。帰国するとすぐ上野の店で経営の切り替えにかかっている。父の祐昌は維新を経た尊皇攘夷の人で、購買力を挑発して売るような商業道はだめだと反対した。祐民は上野でこっそり試し、成功を確かめてから名古屋[13]へ持ち込んでいる。本店ではなく支店で先に試すという順序が、この転換を家の内紛にせずに済ませた。翌1910年2月、300年にわたる営業の一切を継承して資本金50万円の株式会社いとう呉服店が設立され、本店[14]を名古屋・栄町に、支店を東京上野と京都に置いた。
栄町に店を建てたのは、市役所が火災で焼け[15]、その建設資金を得るため名古屋市が市有地の買い取りを打診してきたからである。伊藤家はその土地を買い、木造三階建・500坪の店を開いた。従来の座売りを廃して陳列方式を採り、屋根に3つのドームを載せた建物は長く名古屋の名所に数えられた。[16]開店当初の売場はまだ畳敷きで、デパートを知らない客が『デパートというハトはどこにいますか』[引用元]と尋ねたという逸話が残っている。アメリカには女店員がいると聞いた祐民は、別家の娘や未亡人を売場に立たせた。日本における女店員のはしりにあたる。[17]売り方も建物も人の配置も、この1年で入れ替わった。
もっとも、株式会社になっても全株式は伊藤家が保有したままで、個人商店の色彩[18]は依然として濃かった。資本金は1916年に100万円、1918年に200万円[19]、1920年に500万円と増えたが、出し手は変わっていない。1910年の法人化は業態を変えた判断であって、所有を変えた判断ではなかった。所有が動いたのは、財閥解体を受けた1947年の株式公開で、37年後だった。この時間差が、のちに創業家と経営陣の関係を長く複雑にした。経営の実務は当主が握っていたわけでもない。初代専務の鬼頭幸七に父の祐民はほとんど任せきりで、16代祐茲も家督を継いだ際に経営方針をとくに変えず、2代目専務の小林八百吉と3代目の北沢平蔵に委ねている[20]。所有は伊藤家に集中し、執行は番頭が担う。江戸期の別家制度が失われたあとも、その分業だけは残った。
上野店は1916年に木骨れんが四階建てで新築し、翌1917年10月の第二期工事で合計2,000坪にした。その矢先の1923年9月、関東大震災で建物一切を焼失している。会社は同年10月に資本金を1,000万円へ増資して復興に着手し[21]、12月には早くも営業を再開した。震災時、祐民は海軍から駆逐艦を借りて名古屋の店の品物を東京へ送り[22]、市民の救済に当てている。火事と地震に繰り返し遭ってきた家は、復興の手際そのものを家業の一部にしていた。安政の大地震、この関東大震災、1940年の静岡大火と、店は何度も焼けては建て直している。
翌1924年12月、松坂屋は東京・銀座に銀座店[23]を開いた。焼けた上野店の復旧と、新たな商圏への出店を同時に進めたことになる。上野店は寛永寺の僧侶の衣や前田家の御用を務めてきた店で、銀座とは客層も商いの性格も違った。1925年2月には商号を株式会社松坂屋へ統一し、同年[24]5月には名古屋・南大津通の新店舗が完成して本店を栄町から移している。震災から2年足らずのあいだに、東京の新店・全社の商号・名古屋の本店がすべて入れ替わった。名古屋の呉服店が全国規模の百貨店へ姿を変えたのは、この2年に集中している。
店舗はその後も増えた。1921年に横浜で野澤屋呉服店(のちの横浜松坂屋)を設立し、1923年に大阪市日本橋筋へ大阪店を開き[25]、1927年には食料品専門店の栄屋を吸収して資本金を1,200万円としている。1931年に本町支店、1932年11月に静岡店を開いたところで拡大は止まった[26]。戦時統制と、1937年に施行された百貨店法によって店舗の新設と拡張が規制されたためである。同法は戦後の1947年にいったん廃止され、1956年に第二次百貨店法として復活する。この二代にわたる規制が以後の百貨店を競争から守り、1970年代には守りすぎた。1927年に資本金1,200万円、1931年に1,500万円、1937年に2,000万円と増資は続いたが、その資金の向かう先は新店ではなく既存店の改装と戦時の運転資金になった。
1933年、祐民の引退にともない祐茲が16代次郎左衛門を襲名し、社長に就いた[27]。同時に父が持っていた名古屋の会社の重役職も引き継いでいる。伊藤銀行、日本貯蓄銀行、福寿生命、愛知銀行――そのいずれもが戦時の統合で姿を消した。1936年に日本銀行から伊藤銀行副社長として迎えられた佐々部晩穂は、一県一行主義のもとで愛知・名古屋・伊藤の三行合併に奔走し、1941年6[28]月の東海銀行設立に至っている。三行の預金総額は愛知4億円、名古屋3億8,000万円、伊藤も1[29]億円を超えており、いずれも自立できる規模にあった。それでも合併を選んだのは、過当競争を避けて資金コストを下げる狙いによる。伊藤家の金融業はここで終わり、百貨店だけが残った。
戦時下の百貨店は平和産業として扱われ、圧迫を受けた。建物は強制供出で売場面積を削られ、商品統制で営業は細り、店員は徴用で軍需工場へ取られる。佐々部は当時の店を『単なる配給所に過ぎなくなっていた』[引用元]と振り返っている[30]。1941年には名古屋店が価格統制令違反に問われ、支店長以下が引致された。検事局が社長辞任を条件に会社の罪を問わないと決めたため、祐茲は社長を退いて相談役となり、専務の北沢平蔵が社長を継いだ[31]。会社を守るために当主が退く形をとったことになる。内地の不振を補うため、1944年7月には天津・上海・香港にも支店を設けた[32]。
しかし本土空襲によって名古屋本店・銀座店・静岡店が焼失し、上野店も東館を失った。無事だったのは大阪店だけである。[33]警防団長を引き受けていた祐茲は疎開できず[34]、家族だけを京都へ送って名古屋に踏みとどまった。外国で買い集めた美術史の蔵書は自邸とともに焼けている。名古屋の財界人で戦時中も市内に残ったのは自分だけだった、と本人は書き残している。名古屋の市街は名古屋城を中心とする碁盤割りの町並みごと焼け、広小路から桜通り、城の向こうまで一望の焼け野原になった。1611年から数えて334年目に、店は建物のほとんどを失った。ただし銀座店は戦時中すでに隣地を買って地下室を掘り終えており[35]、上野店の南館も地下工事を済ませていた。鉄骨の供出で止まっていたこれらの工事跡が、戦後の復旧を早めた。
占領軍の財閥解体は伊藤家にも及んだ。地方財閥として持株整理委員会の俎上に載せられ、伊藤家の持ち株は1割以下に制限される[36]。佐々部は英文の資料を何通も作って占領軍と折衝し、松坂屋そのものの解体は免れた。ただし解体を避けた代償として、1947年7月に伊藤家の持株会社であった伊藤産業合名を松坂屋へ吸収合併し、同年12月に株式を公開している。[37]1941年に価格統制令違反で退いた16代祐茲は、同じ1947年に社長へ復帰した[38]。1611年から336年続いた同族会社の性格は、ここで終わった。1948年に受けた過度経済力集中排除法の指定も同年5月に取り消され、1949年5月には東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式を上場している。[39]三越や高島屋と並ぶ上場百貨店として、松坂屋の戦後が始まった。
復興の資金繰りは苦しかった。当時の資金統制令で百貨店は最後回しの丙種に指定[40]されていたためである。佐々部が日本銀行と伊藤銀行で築いた金融機関の人脈が、ここで直接に効いた。売る商品も設備もないまま、各店に振興部を置いて衣料品の配給販売に集中し、東京では都内十数か所に臨時配給所を設けて自転車とトラックで商品を運んだ。1946年末には銀座店に食料品市場、大阪店に鮮魚市場を開いている。1950年5月、絹類の統制解除を機に産地取引網を総動員して全店一斉の繊維まつりを打ち、翌1951年に全商品の統制が撤廃されて[41]、百貨店は発展期に入った。焼け跡の配給所から売場へ戻るまでに6年かかっている。
店は順に戻った。1952年11月に銀座店の新館が完成して延8,300坪となり、1953年に名古屋店の全館復興が成る。同年6月には資本金を10億円としている。終戦時に2,000万円だった資本金は、1948年に1億5,000万円、1951年3月に3億2,000万円[42]、同年12月の再評価積立金の資本組み入れで4億8,000万円、1953年に10億円と、8年で50倍になった。1955年2月期の売場面積は2万4,000坪、売上高は103億8,900万円で[43]、うち小売部門が101億9,200万円を占める。商品別では衣料品が58%と過半を握り、雑貨15%、食料品12%、家具家庭用品10%と続いた[44]。呉服商から出た店の主力は、この時点でもなお衣料にあった。
1960年度、小売業の売上高上位10社は三越・高島屋をはじめ、すべて百貨店が占めていた。それが1967年度にはダイエーが580億円で5位、西友が320億円で10位に入る。1972年度にはダイエーが3,052億円と、2,924[45]億円にとどまった三越を抜いて小売業の首位に立った。ダイエーの創業は1957年で、創業15年の企業が創業300年の老舗を追い越した計算になる。1974年度には業態別の販売額シェアでもスーパーが12.7%と、百貨店の11.0[46]%を上回った。松坂屋が名古屋で盟主であり続けたこの時期、百貨店という業態そのものが小売業の主役の座から降りている。
逆転の理由は、通説では百貨店法にある。1956年施行の第二次百貨店法は企業単位で売場面積を規制したため、スーパーはフロアごとに別会社を立てて網をくぐり[47]、疑似百貨店として大型店を運営した。だが産業史の記述はもう一段踏み込む。『百貨店法以上に大きいのは百貨店の保守化だ。百貨店は百貨店法によってライバル百貨店の進出が少なくなり、同法の保護の中でかつての事業拡大意欲が衰えた』[引用元]。[48]規制は競争から守ると同時に、守られた側の出店意欲を奪った。百貨店が郊外や衛星都市に中小型店を出していれば後発のスーパーはこれほど伸びなかった、という見方が有力とされる。1932年の静岡店から1971年の岡崎店まで、松坂屋が国内で新店を開かなかった39年間は、この空白と重なっている。
松坂屋が何もしなかったわけではない。1971年4月に岡崎店、1974年10月にくずは店、同年11月に名古屋駅店[49]、1979年11月に高槻店を開き、1972年12月にはスーパーマーケット業の中部松坂屋ストアと関東松坂屋ストアを設立している。[50]1973年3月には会員組織の松坂屋友の会を発足させた。ただしスーパー子会社の設立は、ダイエーが三越を抜いた年と同じ1972年にあたる。業態の逆転が起きてから追いかけた形で、この差は最後まで縮まらなかった。なお1955年から1990年代半ばまでの松坂屋の売上高・利益の年次データは、本サイトの手元に残っていない。この40年間の業績推移を数字で追うことは、現時点ではできない。
交代は経営の刷新として始まったが、副作用を残した。『経営をめぐる内紛、ゴタゴタの中に、芳賀容疑者が『付け入るスキあり』と目算したことは明らかだ』[引用元]と後年報じられた。この接点が12年後に事件となって表れた。なお解任の理由を伝える同時代の記録は、手元の資料からは見つかっていない。鈴木の側にどのような経営上の主張があったのかは、現時点では確かめられない。
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|---|---|---|---|---|
| 1611〜1910年武士をやめた家の呉服商から、江戸で買い取った屋号まで(1611〜1910) | 伊藤祐道が名古屋本町に呉服小間物商を開業 | ★ | ||
| 江戸・上野の松坂屋を買収 | ★ | |||
| 株式会社いとう呉服店への改組と、座売りを廃した名古屋・栄町での陳列方式の百貨店開業 1910年(明治43年)2月、伊藤家が慶長16年(1611年)創業のいとう呉服店を改組し、300年にわたる営業の一切を継承して、百貨店業を主目的とする資本金50万円の株式会社いとう呉服店を設立した経営判断。本店を名古屋市栄町に置き、従来の座売りを廃して陳列方式の売場を開いた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 名古屋・栄町に陳列方式の百貨店を開業 | ★★ | |||
| 1910〜1945年座売りを捨てた300年目の店 ── 株式会社化と東京進出(1910〜1945) | 関東大震災で上野店を焼失 | ★ | ||
| 関東大震災で焼失した上野店の復旧と、東京・銀座への新規出店 1924年(大正13年)12月、株式会社いとう呉服店(翌年に商号を松坂屋へ統一)が東京・銀座に銀座店を開いた経営判断。前年9月の関東大震災で上野店の建物一切を焼失し、同年10月に資本金を1,000万円へ増やして復旧に着手した直後の出店であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 商号を松坂屋に統一 | ★ | |||
| 北沢平蔵 | 名古屋店の価格統制令違反で伊藤次郎左衛門社長が引責辞任 | ★★ | ||
| 北沢平蔵 | 空襲により名古屋本店・銀座店・静岡店を焼失 | ★ | ||
| 1945〜1985年同族会社の終わりと、業界の主役から降りた百貨店(1945〜1985) | 伊藤次郎左衛門祐茲 | 東京・名古屋・大阪の各証券取引所に株式を上場 | ★ | |
| 伊藤次郎左衛門祐茲 | 名古屋本店の全館復興が完成 | ★ | ||
| 伊藤次郎左衛門祐茲 | 上野店の全館が完成 | ★ | ||
| 伊藤次郎左衛門祐茲 | 大阪店を京橋に移転 | ★ | ||
| 伊藤次郎左衛門祐茲 | 岡崎店を開店 | ★ | ||
| 伊藤次郎左衛門祐茲 | スーパーマーケット業の中部松坂屋ストア・関東松坂屋ストアを設立 | ★ | ||
| 伊藤次郎左衛門祐茲 | 名古屋駅店を開店 | ★ | ||
| 伊藤次郎左衛門祐茲 | 高槻店を開店 | ★ | ||
| 鈴木正雄 | 鈴木正雄会長が伊藤洋太郎社長を解任 | ★★ | ||
| 鈴木正雄 | 鈴木正雄氏が社長に就任 | ★ | ||
| 1985〜2007年拡大の10年と縮小の10年 ── 統合で幕を引くまで(1985〜2007) | 齋藤喜幸 | 2000年までに直営店14店・グループ年商1兆3,000億円を目指す長期計画を発表 | ★ | |
| 齋藤喜幸 | 齋藤喜幸氏が社長に就任 | ★ | ||
| 齋藤喜幸 | 12年ぶりの新規出店となる四日市店を開店 | ★ | ||
| 伊藤旺 | 総会屋への利益供与事件を受けた経営陣の退任と、不採算店舗の閉鎖・人員削減 1997年10月20日、松坂屋の取締役広報室長兼秘書室長が総会屋への利益供与の疑いで愛知県警に逮捕された。社長と実力相談役が退き、後任の岡田邦彦社長のもとで子会社の整理、香港からの撤退、希望退職、四日市店・大阪店の閉鎖が続いた。事件の処理と負の遺産の整理を一体で進めた経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 伊藤旺 | 1975年に出店した香港から撤退 | ★★ | ||
| 伊藤旺 | 開業以来一度も黒字にならず累積損失188億円を抱えた四日市店の閉鎖を決定 | ★★ | ||
| 茶村俊一 | 松坂屋HDを設立し持株会社体制へ移行 | ★★ | ||
| 茶村俊一 | 大丸との経営統合を発表 | ★ | ||
| 茶村俊一 | 大丸と松坂屋ホールディングスの経営統合と共同持株会社J.フロント リテイリングの設立 2007年3月、百貨店4位の大丸と8位の松坂屋ホールディングスが経営統合の検討で合意し、同年9月3日、株式移転による共同持株会社J.フロント リテイリングを設立した経営判断。両社を傘下にぶら下げ、売上高1兆円超で百貨店業界の首位級に立った。大丸会長兼CEOの奥田務氏が主導した。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(松坂屋)