1886年〜 神田の呉服店から、新宿への移転という賭け
- 1886年東京神田で伊勢屋丹治呉服店として創業する
- 1924年百貨店形態の店舗を開設する
- 1930年東京神田に株式会社伊勢丹を設立する
- 1933年神田店を閉店し、新宿に新店舗を開店する
伊勢丹の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
伊勢屋丹治呉服店と「帯と模様の伊勢丹」
伊勢丹は明治19年(1886年)、東京神田の伊勢屋丹治呉服店として始まった。創始者の小菅丹治氏は神奈川県に生まれ、上京して伊勢庄呉服店に入り、のちに神田佐久間町の米穀商・伊勢屋の養子となって分家し、神田旅籠町に呉服店を開いた。社名は養家の屋号「伊勢屋」の伊勢と、自身の名の丹治から一字ずつを取ったものである。社章の枠の丸は太陽と人間的な円満を、枠内の「伊」は店名の頭文字を表す。同じ百貨店の系譜のなかで、越後屋(三越の前身)が1673年、大丸が1717年の創業であるのに対し、伊勢丹の出発は明治に入ってからで、200年以上遅い。 [1][2][3]
- [1]明治19年創業の伊勢丹呉服店に始まる。創始者の小菅丹治は神奈川県に生まれ、上京して伊勢庄呉服店に入り、神田佐久間町の米穀商・伊勢屋の養子となって分家し神田旅籠町に呉服店を開設した
- [2]「現在の伊勢丹の名称は、伊勢屋の「伊勢」と丹治の「丹」を配して店名としたもので、また社章の枠の丸は太陽を表わすとともに人間的な円満さを意味し、枠内の伊は店名の頭文字を採つたものである」
- [3]呉服店起源の系譜はいとう呉服店(松坂屋の前身)1611年、越後屋(三越の前身)1673年、大丸1717年、高島屋1831年
後発の店が名を上げた足場は、品揃えの絞り込みにあった。積極的な販売政策と斬新な宣伝を重ねた結果、伊勢丹は「帯と模様の伊勢丹」という評判を得る。呉服の全般ではなく帯と柄で覚えられた店だった点は、後年に「ファッションの伊勢丹」と呼ばれる性格の最初の形にあたる。大正5年に初代が没し、二代目小菅丹治氏が襲名して翌6年に合名会社へ改組し、百貨店化へ向かった。創業から30年で個人商店から会社組織へ移り、扱う品目を広げる段に入っている。すべてを揃える老舗と正面から競うのではなく、覚えてもらえる一点を作る売り方だった。この一点への絞り込みは、のちの伊勢丹が繰り返す手法にあたる。 [4][5]
- [4]「爾来忠実服業の精神のもとに積極的な販売政策と斬新的な宣伝方策をもつて、漸次店礎の確立強化に努めた結果、「帯と模様の伊勢丹」の名声を得るに至り」
- [5]大正5年に初代小菅丹治が逝去し、二代目小菅丹治が襲名。翌6年に合名会社へ改組して百貨店化へ向かった。大正13年に百貨店形態の店舗を開設した
- [1]明治19年創業の伊勢丹呉服店に始まる。創始者の小菅丹治は神奈川県に生まれ、上京して伊勢庄呉服店に入り、神田佐久間町の米穀商・伊勢屋の養子となって分家し神田旅籠町に呉服店を開設した
- [2]「現在の伊勢丹の名称は、伊勢屋の「伊勢」と丹治の「丹」を配して店名としたもので、また社章の枠の丸は太陽を表わすとともに人間的な円満さを意味し、枠内の伊は店名の頭文字を採つたものである」
- [4]「爾来忠実服業の精神のもとに積極的な販売政策と斬新的な宣伝方策をもつて、漸次店礎の確立強化に努めた結果、「帯と模様の伊勢丹」の名声を得るに至り」
- [5]大正5年に初代小菅丹治が逝去し、二代目小菅丹治が襲名。翌6年に合名会社へ改組して百貨店化へ向かった。大正13年に百貨店形態の店舗を開設した
- [3]呉服店起源の系譜はいとう呉服店(松坂屋の前身)1611年、越後屋(三越の前身)1673年、大丸1717年、高島屋1831年
関東大震災による壊滅と、神田という立地の限界
大正12年の関東大震災で、伊勢丹は壊滅状態に陥った。翌13年4月に復興再建して百貨店形態の店舗を開いたが、この店は地の利が悪かった。『会社銀行八十年史』はその評価を明記しており、伊勢丹は再建した直後から次の進出地を探し始めている。同じ震災で本店を焼失した三越は、被災地に開いた応急マーケットをそのまま新宿・銀座の支店に育てた。両社は同じ災害から反対の結論を引き出している。三越は東京の各所に店を増やす方向へ、伊勢丹は神田を捨てて一箇所に賭ける方向へ進んだ。片方は東京に面を取り、片方は一点に賭けた。どちらが正しいとも当時は言えなかったであろう。 [6][7]
- [6]「しかし十二年の関東大震災により壊滅状態に陥り、翌十三年四月復興再建したが地の利が悪く、このため鋭意発展への進出地を物色中」
- [7]三越は関東大震災の応急策として市内各地にマーケットを開設し、これがのちに新宿・銀座両支店を開設する機縁となった
探していた土地は、新宿のもと三福の地で見つかった。借地権買収の交渉が成立したことを受け、伊勢丹は昭和5年9月に株式組織へ改組し、資本金50万円で新発足した。会社の形を変えた理由が新店舗の用地取得だった点に、この時期の判断の順序が出ている。組織を整えてから出店先を探したのではなく、出店先が決まったから株式会社にしている。1930年の新宿は、震災後の郊外電車の発達によって人の流れが変わりつつある途中にあった。すでに確立した商業地ではない場所へ、会社の全額を賭ける判断だった。借地権の買収という形をとったのは、自前の土地を買う資力が震災後の伊勢丹に無かったためとも読める。 [8][9]
- [8]「たまたま新宿もと三福の地に借地権買収の交渉が成立したので、昭和五年九月株式組織に改組し、資本金五十万円をもつて新発足した」
- 有価証券報告書(株式会社伊勢丹・第123期)【沿革】
- [9]昭和5年9月、東京神田に資本金50万円をもって株式会社伊勢丹を設立した
- [6]「しかし十二年の関東大震災により壊滅状態に陥り、翌十三年四月復興再建したが地の利が悪く、このため鋭意発展への進出地を物色中」
- [8]「たまたま新宿もと三福の地に借地権買収の交渉が成立したので、昭和五年九月株式組織に改組し、資本金五十万円をもつて新発足した」
- [7]三越は関東大震災の応急策として市内各地にマーケットを開設し、これがのちに新宿・銀座両支店を開設する機縁となった
- 有価証券報告書(株式会社伊勢丹・第123期)【沿革】
- [9]昭和5年9月、東京神田に資本金50万円をもって株式会社伊勢丹を設立した
神田店の閉店と、新宿へ本社を移した1933年
昭和8年9月、新宿の本館が竣工すると同時に神田店を廃止し、本社を新宿へ移して営業を始めた。創業から47年を過ごした土地を、新店舗の開業と引き換えに手放している。二店を並べて様子を見る形は採らず、神田を閉じることで新宿へ資源を集めた。後年の伊勢丹が新宿本店に売上と粗利の過半を集める構造は、この一度の移転で決まっている。震災で壊れた店を再建し、その再建した店を9年で閉じるという二段の判断があってはじめて、新宿の伊勢丹が成立した。創業の地を残したまま新店を試す余裕は、震災で壊滅した会社に無かったとも読める。退路を断つ形の移転だった。 [10][11]
- [10]昭和8年9月、本館の竣工とともに神田店を閉店し、本社を新宿へ移転して営業を開始した
- 有価証券報告書(株式会社伊勢丹・第123期)【沿革】
- [11]昭和8年9月に神田店を閉店し、新宿に新店舗を開店した
移転の判断が正しかったかどうかは、その後の増床の速さに表れている。昭和10年6月に隣接のほてい屋を買収し、同年12月に資本金を400万円へ増やして11年3月に増築工事を終え、営業面積は1万余坪に達した。新宿へ移ってからわずか3年で、売場は本館竣工時の規模を大きく超えている。12年7月には第三期の増築へ着手したが、日華事変の進展にともなう商業部門の統制強化を受け、13年4月に4階までで工事を中止した。拡大の速度は会社の判断ではなく、外の事情で止められた。隣接する競合を買い取って売場に変える手法は、のちの岩田屋の子会社化にも通じる。 [12]
- [12]昭和10年6月に隣接のほてい屋を買収、同年12月に資本金400万円へ増資し、11年3月に増築工事を完了して1万余坪の営業面積を擁した。12年7月着手の第三期増築は13年4月に4階までで中止した
- [10]昭和8年9月、本館の竣工とともに神田店を閉店し、本社を新宿へ移転して営業を開始した
- [12]昭和10年6月に隣接のほてい屋を買収、同年12月に資本金400万円へ増資し、11年3月に増築工事を完了して1万余坪の営業面積を擁した。12年7月着手の第三期増築は13年4月に4階までで中止した
- 有価証券報告書(株式会社伊勢丹・第123期)【沿革】
- [11]昭和8年9月に神田店を閉店し、新宿に新店舗を開店した