伊勢丹は1886年11月[1]、東京神田の伊勢屋丹治呉服店として[2]始まった。創始者の小菅丹治氏は神奈川県に生まれ[3]、上京して本郷湯島の伊勢庄呉服店に勤めた[4]のち、神田佐久間町の米穀商・伊勢屋小菅又右衛門の養子となり、分家して神田旅籠町二丁目に店を開いた[5]。社名は養家の屋号"伊勢屋"の伊勢と、自身の名の丹治から一字ずつを取っている[6]。社章の枠の丸は太陽と人間的な円満さを表し[7]、枠内の"伊"は店名の頭文字を採ったもので、書体は初代が自ら考え出した[8]。同じ呉服店を前身とする同業では、いとう呉服店が1611年、白木屋が1662年、越後屋が1673年、大丸が1717年、高島屋が1831年の創業にあたり[9]、伊勢丹の出発は江戸期の老舗より200年以上遅かった。
わが国の百貨店は、当初から近代的な百貨店として発足したものではない[10]。百貨店事業の創始は1904年末に三越呉服店が資本金50万円の株式会社として設立された[11]ときで、創立者は三井銀行支配人から越後屋呉服店に入った日比翁助氏である。明治維新以後、大呉服店の経営は洋服部の設置、座売りから商品陳列式売場への転換、合名会社組織の採用[12]といった形で変わり、店舗も木造平家建から黒塗りの土蔵造りへ移った。三越が百貨店施設の整備を進めると各店がこれにならい、大正初頭までに建物を土蔵造りから鉄筋コンクリートの洋風建築へ改築した[13]。
小菅丹治氏の店は、忠実服業の精神のもとで積極的な販売政策と斬新な宣伝方策をとり、商勢圏を広げる[14]とともに店舗を拡大した。呉服の全般ではなく帯と柄という限られた品目で、店は"帯と模様の伊勢丹"という名声を得た[15]。百貨店にとって第一の発展期は欧州大戦前後にあたり[16]、大戦による好景気で高級奢侈品の売行きが伸び、富裕階級の愛顧を受けた。各店はこの好況の波に乗って全国主要都市へ支店・分店網を広げ、地方の一流呉服店も次第に百貨店へ転じた[17]。大戦後には電鉄会社が百貨店経営へ乗り出し[18]、ターミナル・デパートが昭和年代にかけて現れた。
1916年に初代が没すると、二代目の小菅丹治氏が襲名し、翌1917年には個人商店から合名会社へ改組して[19]百貨店化へ向かった。同じ道をたどった三越の前身の越後屋呉服店は、1893年9月に合名会社へ改組し、1904年12月に資本金50万円の株式会社三越呉服店として独立している[20]。伊勢丹の合名会社への改組はその24年後にあたり、二代目はここから本格的な百貨店の形への脱皮を図った[21]。当時の百貨店は土足での出入りができず、下足番を置いて客に上履をはきかえさせており[22]、この慣行が改まるのは関東大震災のあとだった。
1923年の関東大震災で、伊勢丹は壊滅状態に陥った[23]。翌1924年4月に復興再建して百貨店形態の店舗を開いた[24]が、この店は地の利が悪く、同社は再建の直後から次の進出地を探し始めた[25]。同じ震災で本店と丸ノ内別館を焼失した三越は、応急策として市内各地にマーケットを開設し、これがのちに新宿・銀座両支店を開く機縁となった[26]。三越の災害損失高は737万5,000円に達し、700万円への減資[27]に追い込まれている。震災による一般小売商の打撃を受けて百貨店は応急策に乗り出し[28]、従来の下足預り制度の廃止によって一段と大衆化した[29]。
探していた土地は、新宿のもと三福の地で見つかった[30]。借地権買収の交渉が成立したことを受けて、伊勢丹は1930年9月に株式組織へ改組し[31]、東京神田に資本金50万円をもって株式会社伊勢丹を設立した[32]。会社の形を変えた理由は、新店舗の用地取得にあった[33]。二代目はこの株式会社で近代的な商法を取り入れた百貨店を開こうとした[34]。震災後の都市計画とあいまって、近接郊外地域への交通機関が発達していた[35]。三越はこの時期、1924年10月に資本金1,500万円へ増資し[36]、1927年4月に本店全館の修築を終えて、1928年6月に商号を三越と改めている。
1933年9月、新宿の本館が竣工すると同時に神田店を廃止し[37]、本社を新宿へ移して営業を始めた[38]。新館は地上7階・地下1階、売場面積1万6,500平方メートル[39]の本格的なデパートメントストアだった。創業から47年を過ごした神田の土地[40]を新店舗の開業と引き換えに手放し、二店を並べて様子を見る形は採らなかった。神田店の廃止は、震災で壊れた店を1924年4月に再建してから9年後[41]にあたる。同じころ三越は1928年から1933年にかけて新宿・銀座の両支店をはじめ神戸・高松・仙台・札幌に支店を開き[42]、支店網によって信用を全国へ広げていた。
移転の判断は増床の速さに表れ、1935年6月には隣接のほてい屋を買収し、同年12月に資本金を400万円へ増やして、1936年3月に増築工事を終え[43]、営業面積は1万余坪に達した。1937年7月には第三期の増築工事へ着手したが、日華事変の進展にともなって商業部門への統制が強化され、1938年4月に4階までで工事を中止した[44]。同じ1937年には百貨店法が施行され、以後は統制の強化と売場の供出が業界に及んだ[45]。三越では売場面積の8割が供出の対象となり、銀座・高松・仙台の各支店が空襲で焼失した[46]。
終戦にともない、伊勢丹は本店の3階以上を進駐軍に接収された[47]。接収が解けるまでは、使える売場を限られた縮小均衡型の経営が続いた[48]。売場の大半を使えない状態のまま、1948年5月に資本金を2,000万円へ増やし、同年12月には横への発展を期して池袋駅東口に支店建設地を購入した[49]。1952年2月には立川市曙町に立川店を開き[50]、同年3月には本店隣接地1,700余坪を買収した[51]。三越も大阪・札幌の両支店を接収されたうえ在外支店を失い[52]、1951年に本店全館を再び使えるようになるまで営業は苦しい立場に置かれた。
1953年4月、接収は10年ぶりに解除され、同年10月に全館の新装開店にこぎつけた[53]。その後の動きは速く、1954年6月に本店隣接地へ老舗街売場を開き、同年9月に本店駐車場を整備して、1955年2月には本店西側の増築工事へ着手した[54]。完成すれば営業面積は1万6,000余坪となり、東京山の手随一の百貨店が出現する見込み[55]だった。資本金は数次の増資を経て1953年12月に2億円となり、1955年5月期の売上高は40億7,000万円[56]だった。同じ時期の三越は資本金18億6,000万円、1954年の年間総売上高は248億円で、本支店の店舗面積は延べ4万2,800坪[57]と全国百貨店の11%強を占めていた。
新宿への集中は増資の連続として表れ、1956年9月に倍額増資で資本金4億円、1959年に8億円、1962年3月の半額増資と1964年9月の3分の2増資を経て20億円となった[58]。1965年5月期には創業以来はじめて半期の売上高が200億円を超え[59]、増収増益となった。株式は1950年3月に東京証券取引所の店頭市場へ登録し[60]、1961年10月に市場第一部へ上場した[61]。三越が東証開設と同時に上場したのは[62]1949年5月で、伊勢丹の第一部上場は12年遅れている。1960年4月には新宿店の西側にパーキングビルを設けており[63]、これは業界で最初のパーキングビル[64]にあたる。
1966年、伊勢丹は隣接する丸物を傘下に収めた[65]。旧丸物跡には日本で初めての紳士専門百貨店を建て[66]、1968年9月に新宿店の新館として開設した[67]。この新館は、のちにメンズ館と呼ばれる建物[68]にあたる。1967年9月には他社に先がけて割賦販売方式"伊勢丹ロイヤル・サークル"を始め[69]、信用販売の面を厚くした。1968年時点の資本金は20億円、従業員は4,069名で、年商は初めて500億円を超える見通しだった[70]。多店舗の長期計画も動き出し、1969年5月に八王子支店、1970年末に吉祥寺支店の開店を予定していた[71]。
1976年11月期、伊勢丹の売上高は1,800億2,700万円で前年比5.6%増、経常利益は53.1%増の59億4,500万円[72]となり、1974年11月期・1975年11月期と続いた2期連続の減益から立ち直った。経常利益の増加分20億6,200万円のうち、営業部門の貢献度は78.6%、金融部門は21.4%[73]だった。同じ計算を三越に当てはめると営業部門28.9%・営業外部門71.1%となり[74]、両社の比率はちょうど逆になっていた。伊勢丹の差益率26.3%は業界最高水準にあった[75]。
収益の質に対して店舗の広がりは限られ、支店の売上高を合計しても全体の25%にとどまり[76]、本店の比重が圧倒的に高い一店豪華主義の構えだった。立川店を除けば出店はいずれも1969年以降で、八王子・松戸・吉祥寺・立川・浦和はすべて首都圏にあり、自己所有物件は立川だけだった[77]。最大規模の吉祥寺店でも1976年11月期の売上高は135億円で、後発の東急百貨店のあおりを受けていた[78]。
関係会社の運営でも構えは変わらず、群馬県高崎市の藤五とは1969年3月に資本・業務提携し、1973年には社名を藤五伊勢丹へ改めて系列会社とした[79]。しかし子会社ユニバーサル販売に対する約12億円の不良債権が生じ、藤五伊勢丹は1975年1月期に6億4,900万円の赤字を出した[80]。伊勢丹は包装紙からエレベーターガールの服装、陳列、商品まで伊勢丹色に染めたが、1976年11月期の売上高は前期比6.3%減の112億4,300万円へ下がり[81]、新宿の伊勢丹を前面に出した商法は地元消費者の反感を買った[82]。熊本の岩田屋伊勢丹では出資比率を35%にとどめ、岩田屋に過半数の55%を委ねた[83]。伊勢丹の子会社・関連会社21社の1976年度販売額747億円は業界10位[84]で、首位のダイエーの3,313億円とは開きがあった。
1972年1月、伊勢丹は海外第一号店としてシンガポール伊勢丹を開いた[85]。資本金150万シンガポールドル、出資比率は伊勢丹40%・現地資本60%、売場面積4,600平方メートル、従業員250人[86]で発足している。値切りが当たり前の市場に日本式の商売を持ち込んだため、開店後の数年は値切られることに苦しんだ[87]。筒井義雄店長は『伊勢丹は定価以外ではお売りいたしません』と言って押し通し[88]、定価販売はその積み重ねで浸透した。1979年時点で売上は3年ほど前年比30%程度の増加を続け、1978年度は6,000万シンガポールドルに達する見込みで、繁華街のオーチャード通りへの第2店の進出も内定していた[89]。
国内では出店の間隔が空き、1971年11月に吉祥寺店、1974年4月に松戸店、1977年10月に田中屋伊勢丹の新店舗[90]、1981年4月に浦和店、1984年4月に新潟伊勢丹を開いた。1985年9月には新宿へパークシティイセタン1[91]、1988年11月に同2を完成させ、1986年11月に創業百周年を迎えた。1987年6月に導入した新クレジットシステム"アイカード"[92]は、データ処理業務を信販会社などに任せず自社で顧客データを蓄積する仕組みで、1997年時点の会員数は約120万人に達した[93]。1989年2月には決算期を11月期から3月期へ変更している[94]。
拡大の準備は1989年9月に始まり、伊勢丹は米国の高級衣料品専門店バーニーズと包括契約を結んだ[95]。東京と横浜にバーニーズの店舗を誘致する一方、米国子会社のイセタン・オブ・アメリカがニューヨーク・シカゴ・ビバリーヒルズの3か所にビルを建ててバーニーズへ賃貸し、投融資額は合計616億円に達した[96]。国内では1990年3月期から中期経営5カ年計画が始まり、1994年3月期に営業利益300億円という目標を掲げた[97]。1990年9月の相模原店を皮切りに、府中・京都駅ビル・臨海副都心の台場・川口・横浜が出店候補に挙がり、3年間で800億円超、5年間では3,000億円の投資を予定した[98]。1990年10月にはクアラルンプール伊勢丹を開いている[99]。
投資の資金は借入金と普通社債[100]に頼るほかなかった。大手不動産会社の秀和が伊勢丹株を買い集め、1992年2月時点で5,738万5,000株[101]、1993年には発行済株式の約28%にあたる6,175万株を握った[102]ため、新株発行をともなう資金調達が証券業界の自主ルールで認められなかった[103]からである。有利子負債は1990年3月期末の483億円から1993年3月期末には1,183億円へ膨らみ[104]、1993年3月期の利払いは75億円に達した[105]。メーンバンクの三菱銀行は、秀和の買い占めで株価が異常な高値に張り付いているとして支援に乗り出すのは時期尚早と判断し[106]、売場面積10万平方メートルという横浜店の出店構想にも慎重論を強めた[107]。
1993年1月21日、イトーヨーカ堂による秀和保有の伊勢丹株取得が表面化し、同社の株価は前日比150円安の3,500円へ急落した[108]。伊勢丹の不動産を狙った買収と受け取られた[109]ためである。ヨーカ堂の狙いは商品力の強化とグループ拡大にあり、新宿本店が新製品の売れ行きを探るアンテナショップの役割を果たしていた[110]点が評価されていた。三菱銀行が難色を示したことで秀和との交渉は前年末に白紙撤回されたが、ヨーカ堂は条件次第で交渉再開に意欲を残した[111]。メーンバンクの三菱銀行は社長更迭に重要な役割を果たし、秀和による株買い占め問題への対応の不手際と折からの百貨店不況によって、小菅氏への信頼は社内でも失われていた[112]。
1993年3月期の決算は、売上高4,428億円で前期比5.4%減、営業利益は半減し、経常利益は64%減の50億円[113]だった。1993年5月10日、創業者一族の小菅国安社長が突然辞任して名誉会長へ退き[114]、後任には営業畑が長い小柴和正専務が昇格した。株式買い占めと業績悪化のために人心を一新したかった、引責辞任ではない——記者会見での小菅氏の弁である[115]が、名誉会長は定款になく代表権も返上したポストだった[116]。人事は三菱銀行出身の向井重陽会長が提案し、代表権を持つ役員5人の全員一致で決まった[117]。三菱銀行からは城森倫雄専務が副社長として送り込まれている[118]。
1993年7月20日、小柴和正社長は役員と幹部を前に、完全買い取りなどの手法を強化・拡大して他社との差異化を図り、自分でリスクを負って利益を上げる小売業本来の姿に戻る[119]と宣言した。新生3カ年計画と名づけたこの計画は、百貨店本業の再構築と投資計画の見直しを柱とした[120]。新社長の初仕事は、採算に合わない台場地区への出店を撤回するため関係者に詫びて回ること[121]だった。新宿店では1997年3月期をめどに、売上高に占める買い取り商品の比率を1割から2割へ引き上げる[122]方針を立てている。伊勢丹全体の粗利益率は過去10年、25.9%から26.5%の間を上下していた[123]。
1994年1月、全業用クレジット推進部長だった鈴木勝雄氏が吉祥寺店長に任じられた[124]。当時の店長のポストは新宿本店を入れて6つしかなく[125]、この人事に前例はなかった。吉祥寺店は1990年と1991年の大規模リニューアルがバブル崩壊で失敗し、固定費の負担で赤字幅が年間売上高約200億円の1割弱まで広がっていた[126]。鈴木氏は若者の街という通説を捨て、衣料品売上高に占める45歳以上の比率を25%程度から1年で32〜33%へ引き上げ、購買単価を2%上げた[127]。同じ期間の全国百貨店平均では購買単価が5%下がった[128]。吉祥寺店は1996年3月期に売上高213億円で黒字化し、社員数は1994年2月の255人から195人へ減っている[129]。
1996年2月、新潟伊勢丹社長を6年務めた加賀谷久司常務が新宿本店長に、鈴木氏が本店次長に着任し、お買い場革命を打ち出した[130]。店内を売り場と呼ばず、店員がモノを売る場所から顧客がモノを買う場所へ意識を転換する[131]という趣旨である。同年9月の大改装では、アイカードの購買データから顧客の買い回りの順を読み取り、商品とショップの配置を組み替えた[132]。新館地下1階の紳士雑貨売場は、改装後の半年で売上高が前年同期比17%増となった[133]。同年10月には高島屋が年商800億円を目指す店を新宿へ開いて新宿百貨店戦争が始まったが、伊勢丹の売上高は10月に前年比9.6%増、11月に5.2%増となり[134]、その後も前年実績を上回った。
バーニーズは1996年1月に連邦破産法の適用を申請し、同時に伊勢丹が契約を不履行だとして5,000万ドルの家賃返還を求める訴訟を起こした[135]。伊勢丹はオーナーのプレスマン兄弟へ逆提訴し、1997年3月にニューヨーク州上級裁判所から1億9,700万ドルの返還命令を得た[136]。1996年3月期にはバーニーズ関連で343億円の特別損失を計上し、1961年の上場以来はじめての当期損失を出した[137]。特別損失は1996年と1997年の決算で合計474億円に達している[138]。1997年9月に香港のディクソン・コンセプツが約2億5,000万ドルで51%の株式を握る買収に合意した[139]。
2005年2月には株式の公開買付により岩田屋を連結子会社とした[140]。2007年8月に三越との経営統合で合意し、11月の臨時株主総会の承認を経て、2008年4月1日の共同株式移転で三越伊勢丹ホールディングスが発足し、伊勢丹は上場を終えた[141]。会社としての伊勢丹は2011年4月1日に三越と合併し、株式会社三越伊勢丹となった[142]。
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|---|---|---|---|---|
| 1886〜1920年神田の呉服店が「帯と模様」で名を得るまで | 東京神田で伊勢屋丹治呉服店として創業 | ★ | ||
| 1921〜1955年震災が決めた新宿への移転と、接収下の十年 | 百貨店形態の店舗を開設 | ★★ | ||
| 東京神田に伊勢丹を設立 | ★ | |||
| 新宿本店への本拠の全面移転と、あわせて進めた株式組織への改組 昭和8年(1933年)9月、伊勢丹は新宿の本館竣工と同時に神田店を廃止し、本社を新宿へ移して営業を始めた。大正12年の関東大震災で壊滅し、翌13年4月に復興再建した店を"地の利が悪く"として9年で閉じ、二店を並べる形を採らずに新宿の一店へ移った判断にあたる。用地の借地権買収が成立したのを受け、昭和5年9月に株式組織へ改組している。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 新宿に新店舗を開店 | ★★ | |||
| 東京証券取引所の店頭市場へ株式を登録 | ★ | |||
| 立川店を開店 | ★ | |||
| 1956〜1990年一店豪華主義と、出遅れた多店舗化の代償 | 新宿店の西側にパーキングビルを設置 | ★ | ||
| 小菅丹治 | 東京証券取引所市場第一部に株式を上場 | ★ | ||
| 小菅丹治 | 新宿店の新館を開設 | ★ | ||
| 小菅丹治 | 吉祥寺店を開店 | ★ | ||
| 小菅丹治 | 海外第一号店としてシンガポール伊勢丹を開店 | ★★ | ||
| 小菅丹治 | 松戸店を開店 | ★ | ||
| 小菅丹治 | 田中屋伊勢丹が新店舗を開店 | ★ | ||
| 小菅丹治 | 浦和店を開店 | ★ | ||
| 小菅丹治 | 新潟伊勢丹を開店 | ★ | ||
| 小菅丹治 | 新宿にパークシティイセタン1が完成 | ★ | ||
| 小菅丹治 | 新クレジットシステム「アイカード」を導入 | ★ | ||
| 小菅丹治 | 決算期を11月期から3月期に変更 | ★ | ||
| 小菅丹治 | 相模原店を開店 | ★ | ||
| 小菅丹治 | クアラルンプール伊勢丹を開店 | ★ | ||
| 1991〜2008年拡大路線の破綻と、三越を迎えた経営統合 | 小菅丹治 | バンコク伊勢丹を開店 | ★ | |
| 小柴和正 | 上海華亭伊勢丹を開店 | ★ | ||
| 小柴和正 | ジェイアール京都伊勢丹を開店 | ★ | ||
| 武藤信一 | 新宿本店ブランド区画の撤去、本館改装への150億円の投入 2003年9月、伊勢丹は新宿本店のメンズ館を増床せずに全面改装し、館ごとロゴと什器を統一してブランドごとの仕切りを取り払った。武藤信一社長は取引先ブランドの反対を押して壁を崩し、2006年2月には当面2年の売上高の伸びをゼロと置く"10年ビジョン"を公表して、本館の改装に150億円を充てる計画を示した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 武藤信一 | ブランドの仕切りのないメンズ館を開業 | ★★ | ||
| 武藤信一 | 連結子会社化を選ぶ一方での、丸井今井への出資の見送り 2005年2月、伊勢丹が株式の公開買付により福岡の岩田屋を連結子会社とした経営判断。同じ年に支援を求めてきた北海道の丸井今井には資本参加を見送り、情報システムの提供と幹部級社員の派遣による業務支援にとどめた。武藤信一社長の主導による。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 武藤信一 | 三越との株式移転による共同持株会社の設立に合意 | ★★ | ||
| 武藤信一 | 両社を束ねる持株会社の発足による百貨店同士の統合の完成 2007年8月、百貨店4位の三越と5位の伊勢丹が経営統合で合意し、2008年4月に共同持株会社"三越伊勢丹ホールディングス"を設立。売上高約1兆5000億円の業界首位グループが誕生した案件。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(伊勢丹)