伊勢丹神田店の閉店と新宿本店への全面移転、株式組織への改組
再建した神田を残すか、捨てて新宿へ移るか——「地の利が悪く」と記された店をめぐる選択
- 概要
- 昭和8年(1933年)9月、伊勢丹は新宿の本館竣工と同時に神田店を廃止し、本社を新宿へ移して営業を始めた。大正12年の関東大震災で壊滅し、翌13年4月に復興再建した店を「地の利が悪く」として9年で閉じ、二店を並べる形を採らずに新宿の一店へ移った判断にあたる。用地の借地権買収が成立したのを受け、昭和5年9月に株式組織へ改組している。
- 背景
- 明治19年に東京神田で開業した伊勢屋丹治呉服店は「帯と模様の伊勢丹」の評判を得て、大正6年に合名会社へ改組し百貨店化へ向かった。大正12年の震災で壊滅し、翌13年4月に復興再建したが、『会社銀行八十年史』はこの店を「地の利が悪く」と記し、伊勢丹が再建直後から次の進出地を探していたことを伝えている。
- 内容
- 新宿もと三福の地について借地権買収の交渉が成立し、昭和5年9月に資本金50万円で株式組織へ改組した。8年9月の本館竣工と同時に神田店を廃止して本社を移し、10年6月には隣接のほてい屋を買収、同年12月に資本金を400万円へ引き上げ、11年3月の増築完了で営業面積1万余坪を擁するに至った。
- 含意
- 同じ震災で本店を焼失した三越が市内各所の応急マーケットを新宿・銀座の支店に育てたのに対し、伊勢丹は創業の地を手放して売場を一箇所に集めた。拡張が止まったのは経営の判断によるものではなく、昭和12年の百貨店法施行と日華事変にともなう統制で、13年4月に第三期増築を中止している。
自分で建て直した店を、自分で閉じたこと
大正13年4月に建て直した店を、伊勢丹は昭和8年9月に閉じた。同じ会社が同じ土地について、9年の間に正反対の決定を二度下している。効いたのは、再建した店を「地の利が悪く」と早い時期に見切った点にあるとみられる。いったん投じた金を惜しんで神田に留まる道はあり、資本金50万円という規模なら、そちらの方が安全でもあった。二代目小菅丹治氏が退路を残さない移転を選べたのは、震災で店を失った経験が、建物より土地を疑う目を残していたからかもしれない。
新宿が東京有数の商業地になることを、1930年の伊勢丹は知らない。既存の商業地としては銀座や日本橋の後にくる場所であり、人の流れを変えつつあった郊外電車の発達も進行中の出来事にすぎなかった。移転が正しかったと言えるのは、その後を知っているからにすぎない。売場を1万余坪まで広げた勢いも、昭和13年4月の第三期増築の中止によって外から止められた。判断の当否を決めたのは伊勢丹の読みだけではなかったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
「帯と模様の伊勢丹」という後発の売り方
伊勢丹は明治19年、東京神田の旅籠町に伊勢屋丹治呉服店として開業した。創始者の小菅丹治氏は神奈川県に生まれ、上京して伊勢庄呉服店に入り、のちに神田佐久間町の米穀商・伊勢屋の養子となって分家している。店名は養家の屋号から「伊勢」を、自身の名から「丹」を取って組み合わせたものであった。積極的な販売と斬新な宣伝を重ねた結果、やがて「帯と模様の伊勢丹」と呼ばれる評判を得た。呉服の全般ではなく、帯と柄で覚えられた店であった[1][2]。
大正5年に初代が没し、二代目小菅丹治氏が襲名すると、翌6年に合名会社へ改組して百貨店化へ向かった。呉服店から百貨店への転身は当時の業界に共通する道筋で、松坂屋の前身いとう呉服店は1611年、三越の前身越後屋は1673年、高島屋は1831年に遡る。明治19年に出発した伊勢丹は、この系譜のなかで200年以上の後発にあたる。しかも大正初頭には各百貨店がデパートメント・ストアーとしての態勢を整えており、伊勢丹の百貨店化は追う側の動きであった[3][4]。
震災による壊滅と、再建した店の「地の利」
大正12年の関東大震災で、伊勢丹は壊滅状態に陥った。翌13年4月に復興再建し、百貨店形態の店舗を開いている。ところが『会社銀行八十年史』は、その再建した店について「地の利が悪く」と記し、伊勢丹が「鋭意発展への進出地を物色中」であったと続けている。建て直した店で商いを始めた直後から、会社は次の土地を探していた。焼けた場所へ戻ったことそのものを、経営がすでに誤りと見なしていたことになる[5][6]。
同じ震災で本店と丸ノ内別館を焼失した三越は、応急策として市内各地にマーケットを開き、それがのちに新宿・銀座両支店を開設する機縁となった。震災は百貨店の扱う品を奢侈品中心から実用必需品へ広げ、都市計画と近接郊外への交通機関の発達を伴って、東京の人の流れそのものを組み替えた。神田で商圏が戻らなかった具体的な事情を史料は書き残していない。ただ、伊勢丹が「地の利」という言葉で問題にしたのは、店の中身ではなく土地の側であった[7][8]。
決断
借地権が決まってから、会社の形を変えた
進出地は新宿で見つかった。もと三福の地について借地権買収の交渉が成立すると、伊勢丹は昭和5年9月に株式組織へ改組し、資本金50万円で新発足した。この順序に判断の性格が出ている。会社の形を整えてから出店先を探したのではなく、出店先が決まったから会社の形を変えている。無限責任の社員が出資し合う合名会社のままでは、借地権の取得と本館の建築に要る資金を集めきれなかったとみられる[9][10]。
1930年の新宿は、既存の商業地としては銀座や日本橋の後にくる場所であった。人の流れを変えつつあった郊外電車の発達も、まだ進行中の出来事にすぎない。しかも昭和4年以降の世界恐慌と浜口内閣の緊縮政策で一般小売商は不振に陥り、百貨店と小売商の対立は社会問題になっていた。伊勢丹はその時期に、資本金50万円の会社を新たに立て、商業地としてまだ定まらない土地へ本館を建てる側へ回った[11]。
神田店の廃止という、退路を残さない形
昭和8年9月、新宿の本館が竣工すると、伊勢丹は同時に神田店を廃止し、本社を新宿へ移して直ちに営業を始めた。株式会社としての設立地は神田であり、創業から数えれば47年を過ごした土地にあたる。有価証券報告書の【沿革】も昭和8年9月の項に「神田店を閉店し、新宿に新店舗開店」と一行で並べて記している。新店の開店と旧店の閉店は別々の決定ではなく、一つの決定の表と裏であった[12][13]。
神田と新宿の二店を並べて様子を見る案が検討されたかどうかは、史料が語らない。書かれていないのは資料が残らなかったためであって、そうした議論が無かったためとは限らない。判断できるのは条件の方である。改組時の資本金は50万円で、次の増資は移転から2年余り後の昭和10年12月まで行われていない。震災で一度壊滅した会社が、二つの百貨店を同時に抱える体力を持っていたとは考えにくい[14][15]。
結果
ほてい屋の買収と、1万余坪までの増床
移転の答えは、増床の速さに表れた。昭和10年6月、伊勢丹は隣接するほてい屋を買収する。同年12月には資本金を400万円へ引き上げ、翌11年3月に増築工事を完了して、営業面積1万余坪を擁するに至った。改組時の50万円から8倍に増えた資本金が、そのまま売場に変わっている。新宿へ移って2年半で隣の百貨店を買い取った速さは、この移転が用地の確保にとどまる話ではなかったことを示している[16]。
拡張が止まったのは、会社の判断によるものではなかった。昭和12年7月に第三期増築工事へ着手したものの、日華事変の進展にともなって商業部門への統制が強化され、13年4月に一応4階までで工事を中止している。同じ12年には百貨店法が施行され、店舗の拡張と新設そのものが制限を受けた。神田を捨ててから4年半で、伊勢丹は自力で売場を増やせる時期の終わりに行き当たった。ここに集めた売場が、以後の同社の本店として残った[17][18]。