二度の業態転換を並べると、捨てたものと残したものの線引きがはっきりする。消火器も火工品もステンレスも、商品としては互いに無関係にみえる。それでも社内に残り続けたのは、火薬を扱うために必要だった高温と反応の制御であり、これが炉の運転を通じて鋼へ受け継がれた。1935年10月に溶かした18-8ステンレスを、木型の代わりのおかめの面へ注いだという逸話は、技術者が手元にある道具で新しい素材を確かめた記録として読める。
もうひとつ目を引くのは、転換の速さより、転換後に手を止めなかったことにある。1936年の稼動から1938年・1939年と増設が続き、戦後も1950年の酸素製鋼法、1962年と1968年の電気炉大型化へつながった。工場を建設した時点で終わりにせず、20年30年の単位で同じ場所へ投資を重ねたことが、90年稼働という数字になっている。祖業を売って社名を変更するという派手な決断より、大師河原の埋立地に居座り続けた選択のほうが、この会社の性格をよく表している。