東京ガスアラスカ産LNGの15年長期契約と東京電力との共同調達、根岸基地の建設

単価の高い未知の燃料を、誰と分け合って引き取るか——公害対策が迫った原料転換と、競争相手への共同購入の申し入れ

時期 1967年3月
意思決定者(推定) 安西浩 社長
論点 原料転換とエネルギー調達
概要
1967年3月、東京ガスは東京電力と共同で、マラソン・オイルおよびフィリップス・ペトロリアムとアラスカ産LNG(液化天然ガス)の長期売買契約を結んだ。数量は年間96万トン、期間は15年。1969年11月4日、第一船ポーラ・アラスカ号が根岸の共同基地に到着し、日本で初めてLNGが陸揚げされた。石炭・石油系から天然ガスへ原料を入れ替える転換は、ここから始まった。
背景
高度成長で都市ガスの需要が急増する一方、石炭から石油へのエネルギー革命と火力発電の大型化により、大気汚染は社会問題となっていた。硫黄分を含まないLNGは公害対策の切り札と見られたが、当時は商業規模の液化・輸送技術が世界のどこにも確立されておらず、受入基地もタンカーも前例のない投資を要した。
内容
経済性を立てるには量が要る。安西浩社長は、根岸工場の隣接地に火力発電所を計画していた東京電力に共同購入を持ちかけ、木川田社長との協議を経て契約にこぎつけた。年間96万トンのうち東京ガス分は24万トンで、残る72万トンは東京電力が引き取った。輸入関税の免除を関係官庁に要請して認可を得、延べ23万人を動員して当時世界最大のLNG基地である根岸工場を建設した。
含意
1970年4月には東京電力南横浜火力2号機で世界初のLNG専焼発電が始まり、調達先はブルネイ、サラワクへと広がった。1979年時点でLNGは同社原料の60%を占める。15年、20年という長期契約の形は、その後の日本のLNG調達に引き継がれた。
筆者の見解

量を分け合う相手を、競争相手に求めた

年間96万トンのうち、東京ガスが引き取ったのは24万トンにすぎない。残る4分の3を受け取ったのは、熱と電気をめぐって需要を奪い合う東京電力であった。単価の高い燃料を前例のない規模の設備で受け入れる以上、量をまとめなければ経済性は立たない。その量を、当時LNG火力を1基も持たない相手から引き出したところに、この判断の芯があった。安西浩氏が木川田氏のもとへ何度も足を運んだのは、隣接地に発電所が建つという一点を競争関係よりも重いと踏んだためであろう。

石油ショックの年、同社の原料の半分近くはなお石油系であり、原油価格の急騰は収支を急速に悪化させた。LNGを資源の安全保障の切り札として語るのは、後年の整理にすぎない。村上武雄氏自身、中東の油が不安だったという以上に公害問題の解決という要請のほうが強かったと述べ、ここまで中東の油が不安になるとは夢にも思わなかったと認めている。1967年に踏み切らせたのは資源地図の読みではなく、都民が吸う空気のほうであったとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

石炭から石油へ、その先を探す

都市ガスの原料は、当初は石炭系が9割以上を占めていた。通産省が1953年度から四次にわたって進めた都市ガス事業五ヵ年計画のもとで需要家は189万戸から1,171万戸へ増え、その間に原料は石油系54.6%が石炭系29.1%を上回るまでに入れ替わった。東京ガス自身も1962年9月に本社地区の供給熱量を引き上げ、石炭ガスから石油系ガスへ切り替えている。原料を入れ替える作業そのものは、この会社にとって初めての経験ではなかった[1][2]

原料を外から買うことにも慣れがあった。石炭課長・資材部次長としてLNGの輸入交渉に携わり、のちに社長となる村上武雄氏は、後年こう振り返っている。昭和30年代まで主体だった国内石炭も、強粘結炭や無煙炭は海外から入れねばならず、輸入には早くから慣らされていた。国内炭は品質だけでなく量にも不安があり、石炭産業ではストライキが多発していた。危険分散という発想は当然、底流にあったという[3]

油では解けなかった公害という課題

1960年代に入ると、別の圧力が加わった。石炭から石油へのエネルギー革命と火力発電の大型化が進み、大気汚染が社会問題となる。村上氏は、電力・ガスは同じ公共企業でも運輸・交通などと違ってユーザーが特定多数であり、消費者イコール都民である以上、公害問題は真っ先に取り組まねばならない経営上の課題であったと述べている。中東の油が不安だったという以上に、公害の解決を求める要請のほうが強かった、というのが当事者の総括であった[4][5]

東京ガスがLNG供給の打診を受けたのは1957年、米マラソン・オイルなどからであった。翌年には副社長の安西浩氏が英国とフランスへ渡ってLNG利用の実態を調べ、1959年には世界初のLNG実験船メタン・パイオニア号が米英間の海上輸送に成功する。1960年10月、同社は供給の安定性、クリーン性、高カロリー性を評価してLNG導入の意向を固めた。もっとも当時、商業規模での輸送や冷却の技術は、世界のどこにも確立されていなかった[6][7]

決断

競争相手への共同購入の申し入れ

導入を決めても、経済性が立たなかった。LNGは単価が高く、受入基地も貯蔵タンクも前例のない規模の設備投資を要する。量をまとめなければ引き合わないが、都市ガス1社の需要では量が足りない。東京ガスはLNG導入を前提に横浜市の根岸工場の新設を計画し、1965年8月に着工した。その隣接地に、東京電力が火力発電所を計画していた。1965年7月、同社は東京電力にLNGの共同購入を持ちかけ、東京電力がこれに応じた[8]

相手はまだLNG火力を1基も持たない会社であり、都市ガスと電力は熱と電気をめぐって需要を奪い合う関係でもあった。社長の安西浩氏は東京電力社長の木川田氏に面会し、協議を重ねて1967年3月の契約にこぎつける。マラソン・オイルとフィリップス・ペトロリアムを売主とする年間96万トン、期間15年の長期契約であった。うち東京ガス分は24万トンで、残る72万トンは東京電力が引き取っている。事業化調査と輸入代行業務は三菱商事が担った[9][10][11]

関税の免除と、延べ23万人の基地

契約の外側にも詰めるべき条件があった。輸入するLNGにかかる関税は、もともと高い単価にそのまま上乗せされ、事業の採算を圧迫する。同社は関係官庁に免除を要請し、理解を得るのに骨を折ったうえで認可を取り付けた。未知のエネルギー源をどう安全に扱うかという課題については、東京電力と技術を持ち寄って運用を定めている。原料を海の向こうから買うという新しい形に、制度と運用の両方を合わせていったことになる[12]

基地の建設そのものが未踏の工事であった。天然ガスはマイナス162度まで冷やして液体にする。その温度に耐える貯蔵タンクと、再び気体へ戻す気化器を据えなければならない。東京ガスは延べ23万人を動員し、当時としては世界最大のLNG基地である根岸工場を建設した。根岸工場は1966年5月に操業を始め、LNGを受け入れる基地としては1969年7月に完成している[13][14][15]

結果

第一船から天然ガス転換へ

1969年11月4日、アラスカ産LNGの第一船ポーラ・アラスカ号が根岸に到着した。東京電力南横浜火力発電所と東京ガス根岸工場からなる両社の共同基地への入船であり、日本で初めてLNGが陸揚げされた日であった。硫黄分がゼロという性質から、業界はこれを大気汚染対策としても迎えた。翌1970年4月には東京電力南横浜火力2号機(35万キロワット)で、世界初のLNG専焼発電が始まっている[16][17]

一度通した道の上を、量が流れ始めた。1970年6月には三菱商事とシェルの合弁会社などとの間でブルネイ産LNGの売買契約が成立する。年間365万トン、20年間という、アラスカ契約の3.8倍にあたる数量であった。東京ガスは1971年9月に袖ケ浦工場を着工する。1972年6月には埼玉県上尾地区を皮切りに供給熱量を天然ガスへ切り替える作業が始まり、山梨県甲府地区を最後に終わるまで17年弱を要した[18][19]

10年後の総括と、長期契約という価値

10年後、社長となった村上武雄氏は結果をこう総括している。LNGを採用し、そのウエートは全体の60%を占めるまでになった。供給先もアラスカ、ブルネイの次にサラワクが契約され、豪州の見通しも立ちつつある。都民への供給責任を果たすというところまではメドをつけることができた——1979年末の同氏の言葉は、原料の調達先を複数の国に分ける体制が、この10年で形になったことを示している[20]

同じ場で村上氏は、LNGが評価される理由を契約の長さに求めた。当時問題になっていた原油の契約が非常に短期であるのに対し、LNGは15年、20年という長期契約であり、価格の問題を別にすれば量の面では長期の安定供給が約束されている、という見方であった。もっとも第一次石油ショックのとき、同社の原料構成はLNG29%、石油系48%、石炭系13%、国産天然ガス10%。石油に頼る部分は原料の半分近くを占めており、原油価格の急騰は収支を急速に悪化させた[21][22]

出典・参考

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