東京ガス東京府瓦斯局の払い下げ引き受けと東京瓦斯会社の創立
赤字のまま安く受けるか、黒字にしてから受けるか——官営ガス事業の払い下げをめぐる四年
- 概要
- 1885年10月1日、東京府が営んできた瓦斯局の払い下げを受けて東京瓦斯会社が創立された。渋沢栄一氏と藤本精一氏が総代となって東京府から払い受け、資本金は27万円。日本で最初の民間ガス会社であった。
- 背景
- 東京のガス事業は1874年に東京会議所の手で始まったが使用者が伸びず、1876年5月に東京府へ移された。1877年からは街灯費を東京府が税で賄って業績を下支えする状態が続き、渋沢栄一氏が東京府瓦斯局長として運営にあたっていた。
- 内容
- 1881年に東京府議会が民間への払い下げを決議したが、渋沢栄一氏は公費で支えてきた事業を赤字のまま安価に手放すことに反対し、決議はいったん見送られた。1883年に設備を増強し上海の瓦斯会社へ技術者を派遣するなどして黒字化させたうえで、1885年に民営化した。
- 含意
- 民営化後は自らの判断で設備投資と営業を進められるようになり、街灯は1917年に5,793基まで増え、千住・深川・大森と製造所が建った。一方で料金と増資は行政の判断から離れず、1929年には東京市が増資を拒む紛糾が起きている。
安く買う機会を、四年分の手間と引き換えにした
1881年に東京府議会が決議した払い下げを止めたのは、それを受け取る側になりうる渋沢栄一氏本人であった。安く買える機会をその場で使わず、屋内需要の開拓と設備増強、上海への技術者派遣に四年を費やし、黒字にしてから27万円で引き受けている。順序を入れ替えれば、税で支えた分の値打ちを府民から民間へ移す取引になっていた。公益事業を民間が引き受ける条件を、引き受ける当人が先に整えた例といえる。
ただ、民間に移ったからといって、行政との距離が開いたわけではない。1929年に東京市が増資を拒みガス料金の値下げを求めた場面では、89歳の渋沢栄一氏が商工大臣との面談に出て調停に立たねばならなかった。料金も投資も、公の判断と切り離せないまま残ったことになる。都市ガスがその後も規制と自由化の線引きに向き合い続けたことを思えば、1885年に決着したのは所有の形だけであった、とみることもできる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
税で支えられた街の照明
1872年に高島嘉右衛門氏とフランス人技術者アンリ・プレグラン氏が横浜で日本初のガス事業を興し、翌年その高島嘉右衛門氏が東京府にガス燈建設を申し出たことから、東京でも計画が動き出した。1874年12月18日、金杉橋から芝、銀座を経て京橋まで85基のガス燈がともる。担い手は東京会議所で、渋沢栄一氏は同年11月に取締、翌年には会頭となっていた[1][2]。
灯数は1877年頃までに356基まで増えたものの、使用者はなかなか増えず経営は厳しいままであった。東京会議所が解散すると、1876年5月にガス事業は東京府へ引き継がれ、渋沢栄一氏は東京府瓦斯局長として運営を続ける。1877年からは東京府がガス街灯費を税で賄って業績を下支えするようになり、事業は公費に支えられた官営として立った[3][4]。
街路から屋内へ、需要を移す
経営基盤が安定すると、東京府瓦斯局は大口需要家に屋内ガス燈の設置費用の一部を分割で支払わせる営業策を展開し、室内照明の需要を取りにいった。新富座や鹿鳴館、日報社といった施設から商店、一般家庭へと屋内ガス燈が入り、ガスの販売量は徐々に広がっていく。街路をまとめて照らすための設備が、需要家それぞれが料金を払って使う商品へ変わり始めた[5]。
あわせてガス製造設備を増強するための投資も進められた。街灯は東京府が税で費用を持つ公共の照明であり、そこに頼るかぎり収支は税の付属物にとどまる。屋内の需要は使った分だけ料金が入る商いで、その比重が増すほど公費に頼らない採算が見えてくる。払い下げを受ける前の数年で進んだこの需要の入れ替えが、民営化の前提を作っていったとみることができる[6][7]。
決断
決議された払い下げを、自ら止める
1881年、東京府議会が民間への払い下げを決議した。ところが渋沢栄一氏は、公費で運営を支えてきたガス事業を赤字のまま安価に払い下げることに反対し、払い下げはいったん見送られる。当時の渋沢栄一氏は東京府瓦斯局長として事業を預かる側にあり、同時に民間で数多くの会社を興していた。受け取る側に立ちうる人物が、自ら受け取りを先送りさせた形であった[8]。
反対の論点は値段に置かれている。税で支えた分が価格に乗らないまま民間へ移れば、負担したのは府民で、果実を得るのは引き受けた側になる。渋沢栄一氏は1873年に大蔵官僚を辞して民間に転じ、第一国立銀行をはじめ生涯で500社を超える事業の設立育成に関わった人物であり、民営化そのものを退けたわけではない。退けたのは、その時期と条件であった[9][10]。
黒字にしてから引き受ける
1883年、東京府瓦斯局はさらに設備を増強して販売量の増加に対応するとともに、上海の瓦斯会社へ日本人技術者を派遣して実地研修を行った。輸入した設備と外国人技術者に頼っていた運転を、自前の人間で回せるようにする手当てである。民営化に向けた準備は、払い下げ条件の交渉ではなく事業そのものの立て直しとして進められた[11]。
短期間で黒字化に成功し、1885年10月1日に東京瓦斯会社が創立された。渋沢栄一氏と藤本精一氏が総代となって東京府から払い受け、資本金は27万円。『会社銀行八十年史』はこれを民間ガス会社の最初と記している。渋沢栄一氏は初代の会長に就き、引き続き事業を率いた。1881年の決議から4年、引き受ける側の条件を自分で作ってからの創業であった[12][13][14][15]。
結果
自前の判断で設備を建てる
民営化により独自に設備増強と営業を進められるようになると、街灯の数は伸び、1917年にはピークの5,793基に達した。府の予算や府議会の議決を通さずに投資を決められる立場になったことが、増設の速度を変えている。あわせて欧州から瓦斯機関を輸入し、印刷機や織機、各種工場の動力・発電用途へ利用を広げた。85基の街灯から始まった事業が、照明を売る事業から都市産業の動力を売る事業へと幅を広げていった[16][17]。
製造設備も相次いで建った。街の発展に伴う需要に応えるため、1890年に千住の第二製造所の建設を決め、1893年から操業、1898年には深川の第三製造所が動き出す。1908年には大森に製造所を設け、鉄道の上にかかる品川八ッ山橋にガス管を渡し、太い管への入れ替えも進めて東京南部へ供給網を延ばした。1893年7月には商法の施行に伴い、商号を東京瓦斯へ改めている[18][19]。
民間に移っても残った公との折り合い
渋沢栄一氏は1909年6月、古希を迎えたのを機に、他の多くの企業の役職とともに東京瓦斯の取締役会長を降りた。1874年に東京のガス事業へ関わってから35年になる。会社は創業時の資本金27万円から供給圏と製造設備を広げ、街の照明と工場の動力を担う都市インフラの事業者になっていた。実業から身を引いた後も、東京のガス事業が行政などとの間に問題を抱えると、渋沢栄一氏は自ら両者の間に立つことがあった[20]。
民間の会社になっても、公との折り合いは終わらなかった。1929年、増大する需要に応えるため設備投資に向けた資本増強を東京市に申請すると、市は増資を拒むとともにガス料金の値下げを強く要求する。紛糾は政府も巻き込み、89歳の渋沢栄一氏が請われて当時の俵商工大臣と面談し、市と会社の調停役を担った。増資は認められず、積年の紛糾だけが一応の決着をみた[21][22]。
- 東京ガス ガスミュージアム「渋沢栄一とガス事業-「公益追求」実践の軌跡-」(プロローグ/エピソード1「夜を明るく」)
- 東京ガス ガスミュージアム「渋沢栄一とガス事業-「公益追求」実践の軌跡- エピソード2「商いを明るく」」
- 東京ガス ガスミュージアム「渋沢栄一とガス事業-「公益追求」実践の軌跡- エピソード3「都市の経済を力強く」」
- 東京ガス ガスミュージアム「渋沢栄一とガス事業-「公益追求」実践の軌跡- エピローグ」
- 東京ガス ガスミュージアム「東京ガスの設立」(ガス燈の歴史)
- 東京ガス「東京ガスグループ挑戦の歴史」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)2篇 日本会社史 10 ガス「東京瓦斯」
- 東京ガス 有価証券報告書【沿革】