東京ガス供給熱量の11,000キロカロリーへの引き上げと、首都圏550万件のガス機器の自社調整
機器の買い替えを客に求めるか、社員が一軒ずつ回るか——外部委託を退けた熱量変更の工程
- 概要
- 1972年6月、東京ガスは埼玉県上尾地区を皮切りに、供給ガスの熱量を5,000キロカロリーから11,000キロカロリーへ引き上げる熱量変更作業に着手した。首都圏550万件(当時)のガス機器を社員が訪ねて一台ずつ調整する工程であり、山梨県甲府地区を最後に1988年10月で終わるまで続いた。
- 背景
- 1969年にアラスカ産LNGの受け入れが始まっても、石炭や石油を原料とする熱量に合わせて設定された既存のガス機器は、そのままでは使えなかった。高カロリーの13Aガスに統一すれば、同じ直径・長さの導管でも供給量は2倍以上に増える。原料を替えた効果を需要家まで届けるには、機器側の設定を一台ずつ変えるほかなかった。
- 内容
- 最大の課題は人手であった。同社は外部に委託せず社員が担う設計を選ぶ。社員であればそれまでの知見を活かせること、顧客と接する機会になることの二つを理由に挙げている。1969年に11名で発足した検討班が数百に及ぶ検討事項を精査し、欧州各国の先行事例を参照しながら地区ごとの工程を組んだ。
- 含意
- 延べ750万人の社員を投じたと同社は記している。作業は「転換地獄」と呼ばれる困難と、安全性への不信から起きた反対運動を伴った。完了後、当時の通商産業省は全国で天然ガス利用を進める「IGF21計画」をまとめ、200以上の事業者が熱量変更に続いた。
訪ねる側が受け取ったもの
一軒ずつ回る作業を外へ出さなかったところに、この事業の性格が表れている。社員なら知見を活かせるという実務上の理由と並べて、同社は顧客と接する機会になるという理由を挙げた。1976年1月に社長となった村上武雄氏は、器具の点検修理が業者任せになりすぎていると述べ、業者に任せてもその後で必ず社員が出向くようにしなければならない、決して二度手間ではない、と語っている。同じ年の4月、520万軒に担当者の名を配る体制が始まった。
17年の作業が滑らかに進んだわけではなかった。技術的な不慣れと機器の老朽化に加えて未登録機器が大量に見つかり、社内には「転換地獄」という言葉が残っている。安全性への不信から起きた反対運動は、マスコミが大きく採り上げるほど熾烈になった。同社自身、高度経済成長期であればこそできた試みでもあったと振り返っている。人手を割ける時代の解法であったとみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
5,000キロカロリーの街に、11,000キロカロリーが届く
1969年11月にアラスカ産LNGの第一船が根岸へ着いても、そのガスをそのまま送り出すことはできなかった。首都圏の家庭・商店・オフィス・工場に据えられた都市ガス機器は、原料となる石炭や石油の熱量に対応するよう設定されていた。天然ガスを原料とする都市ガスでは、熱量が5,000キロカロリーから11,000キロカロリーへ倍以上に上がる。器具を使う側の設定を変えない限り、原料を替えた効果は一軒にも届かない[1][2]。
熱量を上げること自体にも利得があった。高カロリーの13Aガスに統一すると、同じ直径・長さの導管でも供給量が2倍以上に増える。首都圏の人口が膨らみ続けるなかで、導管網を敷き直さずに供給力を積み増せる手立てでもあった。1962年9月に本社地区の熱量を3,600キロカロリーから5,000キロカロリーへ引き上げた経験は、この会社にすでにあった[3][4]。
11名で組んだ工程
工程の設計は、第一船が着いた1969年に始まった。着手のXデーに向けて組まれたのは、わずか11名の少数精鋭であった。安定したガス源をどう確保するか、限られた作業員で膨大な手作業をどう捌くか、どの地区から着手するのが現実的か。数百に及ぶ検討事項を一つずつ精査し、欧州各国とも連携して先行事例から知見を得ながら、テストケースを丹念に積み上げていった[5]。
対象の規模は大きかった。1976年の時点で同社がガスを供給していたのは520万軒であり、作業を終える1988年までに訪ねた件数は首都圏の550万件(当時)に達する。作業は地区ごとに進み、東京東支社が熱量変更を完全に達成したのは1977年、最後に残った山梨県甲府地区が終わったのは1988年10月であった。着手から数えて17年弱の歳月を要している[6][7][8]。
決断
外部に委託せず、社員が回る
最も重い課題は、首都圏の一軒一軒を回る人手をどこから出すかであった。論議を重ねた末に同社が置いた結論は、外部に委託せず社員の手で担うという設計であった。社員であればそれまでの知見を活かせる。加えて、この機会は顧客とのコミュニケーションの機会になる。費用と工期だけを見れば外注が早い場面で、同社は二つ目の理由を並べて自前を選んでいる[9]。
掲げられた言葉は「未来をひらく新しい炎をともそう」であった。1972年6月、埼玉県上尾地区から作業が始まる。切り替えは、原料を受け入れる側の整備と並走した。1973年に袖ケ浦工場が稼働し、1976年には袖ケ浦と根岸を結ぶ天然ガス環状幹線が動き出す。ガスを送る側と使う側を、同じ年月のなかで組み替えていく工程であった[10][11]。
転換の最中に組んだ地域責任体制
作業が5年目に入った1976年4月、同社は供給先520万軒すべてに周知カードを配った。カードにはサービス主任の氏名と電話番号が刷られ、そのお宅を担当する責任者であると記されている。ガスに関する要望と相談はこの担当が全責任を持って引き受けると、消費者に約束した体制であった。担当が違うと言って電話をたらい回しにすることは、これでできなくなった[12]。
サービス主任1人が受け持つ区域は平均7万5000軒にのぼる。世田谷営業所には14回線分の専用電話が引かれ、1日に800本、引っ越しの季節には1500本の相談を処理していた。同時代の記事はこの体制を、合理化を追求してきた結果への反省から生まれた、合理化には逆行する仕組みと評している。メーターは屋外に移り、集金の大半は銀行振り込みとなって、消費者との対話は皆無に近づいていた[13][14][15]。
結果
転換地獄と呼ばれた作業
作業が進むにつれて、想定を超える問題が次々に起きた。技術的な不慣れ、ガス機器の老朽化、そして未登録機器の大量発覚。子供が寝静まってから調整に向かうなど、作業は連日、深夜にまで及んだ。社内には「転換地獄」という言葉が生まれている。事務側は作業員の衣食住に至るまで支え、当初は手探りだった手順も、区域を広げるにつれて手順そのものが練り直されていった[16]。
安全性への不信から、反対運動も起きた。運動はマスコミが大きく採り上げるほど熾烈になり、同社は説明を繰り返して協力を仰いでいる。工事の期間は、原料費の高騰とも重なった。1976年10月には平均21.4%、第二次石油ショックを受けた1980年4月には平均46.0%の料金値上げが認可されている。値上げを重ねる会社の作業員が、家々の台所へ上がり込む年月であった[17][18]。
1988年10月の完了と、全国への波及
1988年10月、山梨県甲府地区を最後に熱量変更が完了した。1972年6月の着手から16年4か月、同社が17年と数える歳月であった。訪ねた件数は首都圏の550万件、投じた社員は延べ750万人にのぼると同社は記している。閉所式で統括センター所長の越智氏は、社員の苦労をねぎらう専務の言葉に続けて、このプロジェクトにかけた熱き血潮を新たな職場でさらにたぎらせてほしいと述べた[19][20]。
波及は1社に留まらなかった。同社の成功をきっかけに、当時の通商産業省は都市ガス会社・機器メーカー・消費者それぞれの立場から全国で天然ガス利用を進める「IGF21計画」をまとめる。全国200以上の事業者が熱量変更に加わり、同社は自社の作業を終えたのちも各地の都市ガス会社を支援した。高度経済成長期であればこそできた試みでもあった、というのが同社自身の振り返りでもある[21][22]。
- 東京ガス「社員750万人の熱量が、天然ガスを日本のあたり前に。」(企業情報「未来をつむぐエネルギー」)
- 東京ガス「東京ガスグループ挑戦の歴史」(会社案内)
- 東京ガス 統合報告書2019
- 日経ビジネス 1976年5月24日号「わが社の戦略前線 東京瓦斯の『地域責任体制』相互不理解のカベ崩す企業と社会のパイプ役」
- 日経ビジネス 1976年8月2日号「新社長登場 村上武雄氏(東京瓦斯)「もっとお客さんと触れ合うべきだ」合理性と情実を巧みに使い分ける“村上天皇”」
- 日本産業史 第3巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「大きかった石油ショックの後遺症」
- 日本産業史 第3巻 エネルギー・資源(日本経済新聞社、1994年)「原発時代の幕開けと脱石油への模索」
- 東京ガス 有価証券報告書【沿革】
- 東京ガス 会社年鑑(1976年版・単体業績)