秩父セメント常務会が決めた新工場建設案を翌日に覆し、既設工場の若返りを選ぶ

朝鮮動乱の増設競争に加わらず、5年かけて回転窯5基の並列運転へ——1949年の決定

時期 1949年4月
意思決定者(推定) 諸井貫一 社長
論点 新工場建設か既設設備の全面改造か
概要
1949年上期、戦後復旧が回転窯3基の運転まで進んだ段階で、常務会は新工場建設案で決着した。翌日、諸井貫一社長がこれを覆し、秩父工場の若返り整備計画に着手する。核心工事の期別番号から社内では⑧工事と呼ばれた。
背景
秩父工場は回転窯5基に対しボイラーが実質3基分しかなく、共通煙道の操作で運転していた。増産にはほとんど新設に等しい大改造が要る状態だった。
内容
諸井社長の理屈は、ここで新工場に取りかかれば旧工場の再建整備の機会は永久に失われる、いま若返り整備を講じれば能力は倍増し、そのうえで新工場にかかれば準備と余裕をもって当たれるというものだった。
含意
1952年秋に回転窯5基の並列運転を実現し、1954年5月には月産7万2,000トンで国内最大の工場となった。資金はすべて社内に留保した利益でまかなった。
筆者の見解

常務会を覆すという決め方について

4常務が賛成して出た結論を、翌日に社長が一人で覆した。手続きとしては危うい決め方である。それが正当化されるのは、覆した側が理由を数字で示したからだった。若返りなら能力は倍増する。新工場を先にすれば旧工場の改造機会は失われる。順序を入れ替えるだけで両方が手に入る、という論理に反論は出なかった。

判断の当否は、結果からだけでは測れない。朝鮮動乱で増設に走った同業は短期の需要増を捉え、秩父セメントの生産高の伸びは同業他社をやや下回った。若返りを選んだ側が得たのは、月産7万トンの工場と、新工場を建てる資金と時間である。1954年に着工した秩父第二工場が回転窯4基・月産10万トンに達したのは1958年で、動乱の需要にはとうてい間に合っていない。速い方法を捨てた判断だったことは記録しておいてよい。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

回転窯5基にボイラーが3基分しかない工場

終戦時の秩父工場の設備は、戦時中の酷使と修理不能でほとんど使用の限界を越えていた。乏しい資材をかき集めて回転窯1基の運転態勢を整えるのが精一杯で、全休転またはそれに近い月もあった。石炭も質量ともに悪化し、北海道炭・九州炭・常磐炭など40種類近い銘柄を混炭して使ったため、混炭作業も原料成分の調整も煩雑をきわめている。1946年5月の進駐軍特需を転機に生産環境の改善が進み、1948年10月には回転窯3基の運転が可能な状態まで戻った[1][2][3][4]

3基までは戻ったが、そこから先が塞がっていた。工場には回転窯が5基あるのに、ボイラーは小型6缶で実質3基分の容量しかない。共通煙道があり、どの回転窯を焚いてもいずれかのボイラーへ排気が回って蒸気が上がる仕組みで運転を続けていた。この構成のままではこれ以上の増産は不可能で、ほとんど新設に等しい大改造が要る。設備能力に対するこの考え方自体、1930年以降つねに50%から69%という高率の生産制限が続き、各焼窯系統のスライド運転が常態だったセメント聯合会時代のカルテル統制が馴致した結果でもあった[5][6][7]

決断

4常務が賛成した結論を、翌日の社長が覆す

1949年上期の常務会で、大改造を行うか新工場を建設するかが議論の焦点になった。大改造を選べば共通煙道を取り壊してボイラー全部を大型のものに入れ換え、発電所のタービンと発電機も新設し、原料仕上ミルの減速機も数台入れ替えることになる。しかも運転を継続しながらこの大工事をやらなければならない。甲論乙駁の末、議論は山内常務が提案した新工場建設案に傾き、少なくとも4常務がこれに賛成した。出席者は結論が出たものと考えていた[8][9][10]

翌日、諸井貫一社長から前日の結論への反対論が出た。いまの状態では骨が折れても大改造をやるべきで、新工場は後まわしにすべきだという主張である。ここで新工場に取りかかれば旧工場の再建整備の機会は永久に失われる。いま若返り整備補強策を講じれば生産能力は明らかに倍増し、そのうえで新工場の建設にかかれば資金的にも技術的にも十分な準備と余裕をもって当たれる。大友恒夫氏は後年、この場面を社報特集号(1968/6)に書き残し、経営者の判断と決定が企業の将来に重大な影響を及ぼす事例だと記した[11][12][13]

大友恒夫 社長
1968年ごろの当事者の証言
これをやらなければいつの日にやれるか,これを今やれば能力が倍増する。その苦労をおそれて将来のことを誤ってはいけない等々……。我々は一議に及ばず社長説に従ったのであった。

動乱の増設競争に加わらないという選択

計画が発足した翌年、朝鮮動乱が需要を跳ね上げた。同業各社はいち早く回転窯の増設による即効的な生産増強に走り、1950年から1954年の業界の回転窯の異動は復旧11基・改造21基・増設23基を数えている。そのなかで既設設備の若返りに傾倒した秩父セメントの動向は対蹠的だった。既定方針を堅持して計画内容の充実を図り、完工に傾倒する。工事は第1期から第15期に分かれ、核心となる第1・2号ボイラの解体と新設が第8期にあたったため、社内では若返り整備工事全体が⑧工事と呼ばれるようになった[14][15][16]

結果

5年で能力は倍増し、国内最大の工場になった

工事の主目標は回転窯の機能強化と並列運転体制の実現に置かれた。第1〜4号回転窯の胴体を延長し、第1〜5号回転窯にエアクエンチングクーラを取り付ける。採用したスミス社のフォーラックスクーラはわが国で初めて使われ、急冷性と熱回収性で焼成能率を高めた。並列運転の実現に向けた中心課題はボイラの更新強化で、当初は回転窯4基の並列運転を目標にしていたが、朝鮮動乱の需要増を受けて5基並列へ改訂されている。1952年秋に5基並列運転を実現し、1954年5月には7万2,000トンの生産実績を上げて月産能力7万トンの本邦最大の工場になった[17][18][19][20]

資金は外に頼らなかった。年次別に計画を立てて資金計画と照らしながら進めるうちに若返り効果が現れ、資金も次第に潤沢になって工事は円滑に進んだ。工事に要した莫大な資金はすべて社内に留保した利益でまかない、その間に多額の償却も続けている。生産を継続しながら大規模な改造を進める困難はあったが、1950年から1954年の生産高は年平均約23%増え、1954年度には70万トンを超えた。回転窯の新設を伴わないため生産高の伸びは同業他社をやや下回っている[21][22][23]

順序を守った先にあった第二工場

若返り整備が完工に近づいた1953年5月9日、創立30周年記念式典の式辞で諸井貫一社長は新工場建設の意図を公にした。近い将来に最新式の新工場を建設して戦後の最も新しい技術を導入し、そのためまず関係者を海外へ派遣して調査と準備を進めるという内容である。秩父第二工場の建設は1954年11月に起工し、1956年4月に第1号回転窯が火入れされた。1949年の決定から数えて7年、社長が示した「そのうえで新工場の建設にかかれば」という順序がそのまま実行された[24][25][26]

社史は、この時期に若返り整備を完工したことがその後の工場新設計画を安定軌道に乗せただけでなく、長期にわたって効果をもたらしたと記す。大友恒夫氏の回想も、この方針によって力を蓄え、その間に技術の進歩と機械輸入が容易になる時間を稼げたのは予期以上の利点であり、次の段階での秩父第二工場の建設への布石になったと述べている。1949年に新工場を選んでいれば、旧工場は月産7万トンではなく回転窯3基のまま残ったことになる[27][28]

出典・参考
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第5章第2節 再出発 1.生産復旧
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第3節 秩父工場若返り整備計画
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第3節(社報特集号 1968年6月 大友恒夫「重大なデシジョンの瞬間」)
  • 秩父セメント五十年史(秩父セメント、1974年)第6章第4節 創立30周年

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