決断
売る機能は外へ預け、生産を縛る協定だけは拒んだ。1901年5月、神戸出張所裏書の約束手形10万7,615円を取引先の宗像商店に私用され、損害は16万3,311円にのぼった。笠井順八社長は私財の全部を差し出して辞任する。同年12月21日、会社は三井物産合名会社と製品の一手販売契約を締結して販売を全面委託し、製造だけを自社に残した。三井物産が伸ばした輸移出により、日露戦争の市況不振でもフル操業を保つ。一方で1934年、増産の是正を伴わない協定では市況は戻らないとして、笠井真三社長は商工省の裁定案を拒み、関東州と朝鮮に別法人を設立して4工場を統制の外へ出した。外地の生産高比は1937年に64.0%へ達し、業界シェアは1932年の19.3%から25.6%へ戻った。
1934年11月 セメント聯合会への不参加
1901年12月 三井物産との一手販売契約
1881年5月 金禄公債を担保に設立