販路の転換
明治期の製造業は、製品を誰にいくらで販売するかを自社で決めていなかった。販路を自前で持つには、買い手の信用を調査し、代金の回収を待ち、在庫を抱える資金が必要になる。この信用調査の能力と資金を備えていたのは商社と問屋だった。小野田セメントは1901年に三井物産と一手販売契約を結び、販売機能を自社に持たない方針を選んでいる。製造に専念できる代わりに、販売量も価格も自社の外で決まった。
戦後の消費財も構造は変わらなかった。メーカーは卸へ出荷し、卸が小売へ配送する。間に立つ問屋が与信と在庫のリスクを引き受け、その対価として価格決定の主導権を得た。
この構造を崩したのは大量生産である。設備を止めずに稼働させるには、店頭で何がいくつ売れているかを月次で把握しなければならない。ところが問屋の在庫を挟むと、工場から見える数字は出荷量であって販売量ではない。そこで花王は1964年に自社の販売会社を置く制度を敷いて問屋を外し、全国約27万件の小売と直接取引を開始した。同じ年、パナソニックは代理店との会談を経て、その関係を再編している。キユーピーは1972年に中島董商店の販売網を継承し、半世紀続いた製販分離を解消した。いずれも自社の販売会社を全国に配置し、小売までの流通経路を系列に収めた。
産業財の直販は別の理由から選ばれた。機械は仕様が買い手ごとに異なり、使用法の説明なしには販売できない。代理店を挟むと説明が現場へ届かず、粗利の一部も手数料として流出する。アマダの直接販売網、キーエンスの直販が高い粗利を生んだのはそのためである。
転機は1980年代末の円高で、国内の価格体系が崩れ、1990年代半ばには価格破壊が進んだ。大量仕入れと低価格販売を担う量販店が交渉力を持った。系列の販売網は値引きを抑える仕組みとして機能していたため、売り場との取引条件そのものが争点になった。資生堂は1997年に再販価格維持を撤廃し、価格の決定を売り場へ委ねた。以後、メーカーが販売網を維持する理由は、価格の決定ではなく、何がどこで売れたかの把握へ移った。店頭の販売量を把握するという1964年の花王の目的だけが、三十年後も残っている。
財務諸表のどこを見るか
販売費及び一般管理費の内訳を数年並べる。問屋や代理店を外した企業は販売手数料が消える代わりに、人件費・荷造運賃・広告宣伝費が増加する。直販へ移ると売上総利益率も販管費率も同時に上がるため、営業利益率だけを見ても転換は見えない。売上債権回転期間は、取引先が卸から小売・最終需要家へ移るにつれ長短が変わる。関係会社の状況で販売子会社の設立年と数を、主要な販売先の注記で特定の商社・量販店への依存度を確かめる。
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ブランドを軸にした販路の転換16事例
事業モデル転換のほかの論点
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