コニカ米ロイヤル・ビジネス・マシン社の完全子会社化と、北米事務機販売網の自前化

売る網を借り続けるか、親会社ごと買い取るか——代理店に預けてきた北米の売り場をどう組み替えたか

時期 1986年1月
意思決定者(推定) 井手恵生 社長
論点 北米における販売網の持ち方
概要
1986年1月、小西六写真工業(現・コニカ)が米の事務機販売会社ロイヤル・ビジネス・マシンの残る66%を親会社の西ドイツ・フォルクスワーゲンから買い取り、完全子会社とした買収。1984年の34%資本参加と合わせた二段階で、北米の事務機販売網を自前に切り替えた。
背景
北米では1956年設立のコニシロク・フォト・インダストリーズを拠点に感光材料とカメラを売っていたが、カメラの販売員は提携先の米バーキィ・フォトが抱えたままであった。感光材料の市場は成長が鈍り、販売網の整備も立ち遅れていた。
内容
1984年に34%へ資本参加し、1986年1月に残る66%を取得した。フォルクスワーゲン社との交渉には米山高範常務と井手恵生社長が自ら当たっている。買収後は上飯坂勘副社長を社長として送り込み、月1回のエンプロイズ・ミーティングと社長専用食堂の開放で従業員との壁を取り払い、支店とディーラーの競合を整理した。
含意
支店の機能をむしろ縮小してディーラーの営業余地を広げた結果、リコーやキヤノンについたディーラーが戻り、主力の複写機の販売台数は前期比3割増となった。一方、同じ1986年に全株を取得したフォトマート社では効果が出ず、買収の成否は分かれた。
筆者の見解

半分だけ買っても、網は動かない

34%の資本参加から2年で残る66%を買い取ったのは、販売会社を半分だけ持っても動かせないと見たからであろう。1979年に米国のカメラ販売を代理店から合弁へ移したときも、セールスマンはバーキィ・フォトが担当し、コニカ社独自の販売員はいなかった。同じ持ち方を事務機で繰り返さないために、親会社のフォルクスワーゲンごと相手にする道を選んだとみられる。井手恵生社長が自ら交渉に乗り込んだのも、価格より全株の取得を優先したためである。

買っただけで売れるようになったわけではない。同じ1986年に全株を取得したフォトマート社は「まだ効果は出ていない」と米山高範常務に言わせたままで、買収の当たり外れは分かれている。ロイヤル社で複写機の販売台数が3割増えた要因も、支店の機能を縮めてディーラーに余地を戻した営業政策と、タイミングよく投入できた新製品の両方にあった。買った資産が動き出すまでに、社長専用の食堂を開けて月1回話し合うところから始めなければならなかった事実は、販売網の値打ちが契約書ではなく人にあることを示している。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

代理店に預けていた北米の売り場

小西六写真工業が北米に置いた拠点は、ニュージャージー州のコニシロク・フォト・インダストリーズであった。1956年8月26日に設立され、資本金は3000万ドル、従業員は約100名で日本人の比率は15%、1980年3月期の売上高は6130万ドルである。写真感光材料とコニカカメラを北米で売っていた。米国の35ミリ一眼レフでは日本メーカーがほぼ100%に近いシェアを握っており、売る先はあった[1][2]

売り方には1979年2月に手が入っている。それまで代理店だった米写真業界大手のバーキィ・フォトと組み、コニシロク・フォトが80%、バーキィが20%を出資する合弁会社コニカ・コーポレーションを設けて、カメラの販売をそちらへ移した。判断した上飯坂勘氏は「こうした情勢の中で代理店にまかせておけば後れをとる」と述べている。もっとも合弁の後もセールスマンはバーキィが担当し、コニカ社独自の販売員はいなかった[3][4]

作る場所を移した先に残った問い

1980年には、カラー印画紙の米国現地生産に踏み切る方針を決めている。コネチカット州メリデン市に50エーカーの用地を求め、全米に4000以上の現像店を持つフォトマット社と資本金2500万ドルの合弁会社を設ける計画で、出資比率は小西六51%、投下資金は7000万ドル前後、米連邦政府も800万ドルの融資を決めた。米国のカラー印画紙はコダックが65%を握り、3Mが10%を占め、残る25%を日本と西独からの輸入が埋めていた[5][6]

現地生産を選んだ理由を、上飯坂氏は「今のままで、輸出量を増やしていけば、貿易摩擦を起こしかねない。量がある程度まできたら現地生産する必要がある」と指摘している。新会社の人事は全面現地化とし、社長は小西六からもフォトマット社からも出さずに外部から採る。日本人は経営方針への参画者のほか技術者が20人程度で、全従業員約600人の約4%にとどまる見込みだった。作る場所も人も現地へ移す一方、事務機の売り方にはまだ手が付いていない[7][8]

決断

7社のうち、最大の一件

1983年に井手恵生氏が社長へ就いてから、買収の件数が増えた。過去4年間に国内外で大小7社を買い取った。感光材料では富士写真フイルムに次ぐ大手でありながら、市場の成長は鈍り、販売網の整備は立ち遅れている。井手社長は「このままでは21世紀をにらんだ展望が開けない」と語り、「滲み出し」と「取り込み」を主眼に買収を重ねた。ソニーやブリヂストンのような派手さはないが、国内でM&Aがブームになる前から買収を重ねてきた会社である[9]

最大の案件が、米の事務機販売会社ロイヤル・ビジネス・マシンであった。1984年に34%の資本参加を行い、1986年1月に親会社の西ドイツ・フォルクスワーゲンから残る66%を買い取って完全子会社としている。フォルクスワーゲン社との交渉には、米山高範常務と井手社長自らが乗り込んでトップ交渉に当たった。34%の少数株主にとどまらず、2年後には全株を取りにいっている[10][11]

買ったのは、人の抜けた販売会社であった

買った相手は、そのままでは売る力を出せない会社であった。米山常務は買収前のロイヤル社について「それまでのマネジメントが悪過ぎた」と振り返っている。オーナーがひんぱんに替わり、経営者が替わるたびに会社の施策が変わるため、優秀な人材がどんどん流出していく状態にあった。販売網という資産は、そこで働く人が抜ければ地図だけが残る。全米の支店とディーラーを買い取っても、それだけでは複写機は売れなかった[12]

コニカがロイヤルの社長として送り込んだのは、上飯坂勘副社長である。1979年に米国のカメラ販売を代理店から合弁へ切り替える判断を下したのが、この上飯坂氏である。北米で売り方を組み替えた経験を持つ者を、買ったばかりの販売会社の頭に据えている。製品や技術を移すためではなく、売る現場を立て直すために人を送っている[13][14]

結果

食堂を開け、支店を縮める

上飯坂副社長がまず手をつけたのは、経営側と従業員の間の壁を取り払うことであった。毎月1回、トップと従業員がエンプロイズ・ミーティングを開き、前月の経営成績と今月の目標について時間をかけて話し合う。買収前は社長の専用だった食堂も、ミーティングルームとして社員に開放した。米山氏は「特に目新しいことは何もやっていないが、従業員の経営への参画意識が高まって現地人のモチベーションが非常に上がっている」と語っている[15]

営業政策では、支店とディーラーの販売が競合しないよう全米の販売網を整理した。複写機の官庁入札などで州の支店と有力ディーラーがバッティングし、ディーラー側がコニカ製品を売る意欲を殺ぐ結果になっていたためである。そこで支店の機能をむしろ縮小する方向で、ディーラーの営業活動の余地を広げた。「ちょうど新製品もタイミングよく投入できて、リコーやキヤノンについたディーラーが戻ってきた」。主力の複写機の販売台数は前期比で3割増となった[16]

当たらなかった買収と、残った販売網

同じ時期の買収がすべて実を結んだわけではない。1986年に株式公開買付けで全株を取得した写真現像チェーンのフォトマート社について、米山氏は「残念ながらまだ効果は出ていない。今後の課題」と述べている。1987年4月には三和銀行のあっせんで信和デジタル機器の株式41%を取得した。プリンターやファクシミリなど情報機器を手がけるベンチャー企業であり、こちらは販売網ではなく新技術を求めた出資であった[17]

コニカのM&Aの主眼は、何よりも販売・流通チャネルの拡大に置かれていた。ロイヤル社はコニカ ビジネス・マシンと名を改め、北米の事務機事業は販売代理店経由から自前の販売網へ移っている。1980年のカラー印画紙工場が現地生産の入口であったとすれば、1986年1月の全株取得は現地販売の入口にあたる。作る場所に続いて、売る場所も自前になった[18][19]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1988年6月13日号増刊「コニカ 販売網拡充が主眼」
  • 日経ビジネス 1980年9月8日号「コニシロク・フォト・インダストリーズ(米) 印画紙の現地生産でコダックに挑戦」
  • コニカ 有価証券報告書【沿革】
  • 小西六写真工業 有価証券報告書【沿革】

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