コニカ輸出ブランド「コニカ」への商号変更と、社名からの「写真工業」の削除
感光材料の成長が止まったとき、写真材料メーカーという名乗りを降ろすことに何ができたのか
- 概要
- 1987年10月、小西六写真工業は商号をコニカ株式会社へ改めた。輸出向け製品ブランドとして定着していた「コニカ」を社名に据え、業種を示す「写真工業」を社名から外している。感光材料の市場成長が鈍り、販売網の整備も遅れていた会社が、事務機・情報機器まで含めて名乗れる呼称へ移した商号変更である。
- 背景
- 写真用フィルムや印画紙などの感光材料で富士写真フイルムに次ぐ大手でありながら、市場の成長は鈍化していた。1983年に就いた井手恵生社長は「このままでは21世紀にらんだ展望が開けない」との危機意識から、過去4年間に国内外で大小7社を買収し、販売・流通チャネルの拡大に主眼を置いていた。
- 内容
- 1987年10月の改称は単独の出来事ではない。同じ年の1月に西独へ事務機の製造会社Konica Business Machines Manufacturing GmbH、2月に米国へ印画紙の製造工場Konica Manufacturing U.S.A.、9月に米国へPowers Chemcoを設けている。国内外の販売会社と製造拠点を一つの呼称で束ねる作業と同時に進んだ。
- 含意
- 社名から写真が消えても、写真事業は残った。改称の2年後に稼いだのは12年ぶりのヒットとなったコンパクトカメラ「ビッグミニ」であり、事務機が全社売上の4割を超えるのは1998年度である。名乗りと事業構成のずれは、10年をかけて縮んだ。
名を先に変えるということ
「このままでは21世紀にらんだ展望が開けない」と語った井手恵生社長が社名から取り去ったのは、「写真工業」という業種名であった。一方、同じ1987年に米国では印画紙の製造工場が建っている。事業の入れ替えを予告する改称ではなく、国内外で買い集めた販売会社と製造拠点を一つの呼称で束ねるための実務であったとみられる。
名と事業の食い違いが埋まるまでには10年余りを要した。改称の2年後に稼いだのはビッグミニで、社名から外したはずの写真の側である。情報機器が全社売上の42%を占めるのは1998年度であり、その間も会社は感光材料を手放さなかった。植松富司社長が10周年に「社名ブランドをコニカに統一して」と振り返ったとき、統一されていたのは名であって事業の構成ではない。名を先に変えても事業の入れ替えは早まらなかった。ただ、どちらへ向かう会社かを社内外へ示す働きはあった。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
感光材料の成長が止まったところで
1980年代半ばの小西六写真工業は、写真用フィルムや印画紙などの感光材料で富士写真フイルムに次ぐ大手であった。ただし市場の成長は鈍り、販売網の整備も同業に後れをとっていた。1983年に社長へ就いた井手恵生氏は「このままでは21世紀にらんだ展望が開けない」との危機意識を語り、就任からの4年間に国内外で大小7社を買収している。国内でM&Aがまだ珍しかった時期の動きである[1]。
井手社長のM&A戦略は、販売・流通チャネルの拡大と強化に主眼を置いていた。同時に、買収を手がかりとする新技術・新規事業への進出も探っている。1987年4月には三和銀行のあっせんで信和デジタル機器の株式41%を取得した。プリンターやファクシミリを手がける情報機器のベンチャー企業である。買い足そうとしたのは、いずれも写真材料の外側にある事業だった[2]。
社名が指す範囲と、事業構成の食い違い
「小西六写真工業」という社名が指す範囲は、事業の実態より狭くなっていた。1971年に始めた電子複写機U-Bixは伸びが速く、1973年3月期には売上構成比で20%を占め、カメラ・交換レンズの19%を上回っている。写真材料一本だった会社に、事務機という第二の主力が育っていた。社名を読んだだけでは、その2割が見えない。その状態が10年以上続いた[3]。
一方で、社名に残った写真の側は稼げていなかった。カメラ部門について、社員は「万年赤字で黒字になったのはジャスピンコニカがヒットした時だけだった」と後年に打ち明けている。1975年の世界初のストロボ内蔵カメラ「ピッカリコニカ」、1977年の世界初の自動焦点カメラ「ジャスピンコニカ」は大きく売れたものの、他社の対抗機種が相次いで投入され、シェアの上昇は一時的なものに終わった[4][5]。
決断
輸出ブランドを社名に据える
1987年10月、小西六写真工業は商号をコニカ株式会社へ改めた。「コニカ」は輸出向け製品のブランドとして長く使ってきた呼称で、1956年8月に米国へ設けた販売会社もKonica Photo Corporationを名乗っている。海外で通っていた名を、国内の法人名にも据えた。同時に、創業家に由来する「小西六」と、業種を示す「写真工業」が社名から消えた[6][7]。
改称は単独の出来事ではなかった。同じ1987年の1月、西独に事務機の製造会社Konica Business Machines Manufacturing GmbHを設けている。2月には米国に印画紙の製造工場Konica Manufacturing U.S.A.、9月にも米国へPowers Chemcoを設立した。事務機と感光材料の生産拠点が同じ年に建ち、その多くが「Konica」を冠している。呼称の統一と海外拠点の整備は、並行して進んだ[8]。
名から外したものと、外さなかったもの
社名から「写真工業」が抜けたことで、会社は感光材料に限らない社名を得た。井手社長のM&A戦略の主眼が販売・流通チャネルにあった以上、国内外で買い集めた販売会社を一つの呼称で束ねる必要も生じていた。販売会社を増やすほど、名の不統一は現場の負担になる。商号変更は、写真材料メーカーと名乗るのをやめる決定であると同時に、販売網の整備と対になる実務でもあった[9]。
ただし、写真から降りる決定ではなかった。改称の8カ月前にあたる1987年2月、会社は米国に印画紙の製造工場を建てている。社名の指す範囲を事務機・情報機器まで広げながら、感光材料の設備は増やしている。外したのは「写真工業」という業種名であって、事業そのものではない。この時点で写真をやめる計画はなく、以後も銀塩の技術に資源を割き続けた[10]。
結果
改称の2年後に当たったのは、カメラだった
1989年2月、コニカはコンパクトカメラ「ビッグミニ」を発売した。開発に着手したのは改称と同じ1987年である。市場の65%が多焦点タイプへ向かうなかで単焦点を選び、幅117ミリ・高さ63ミリ・厚さ36ミリ、重さ195グラムという世界最小最軽量に絞り込んだ。開発チームのリーダーだった石井静雄氏は「コンパクトさを追求すれば売れるという思い込みから開発がスタートした」と振り返っており、市場調査のデータによる裏づけはなかった[11][12]。
売れ方は計画を大きく超えた。当初は月1万台で採算がとれれば上出来という見立てだったが、1989年末には当初計画の8倍にあたる月産8万台の体制を敷いている。国内のコンパクトカメラ出荷台数400万台の1割を1機種で占め、ジャスピンコニカ以来12年ぶりのヒットとなった。万年赤字だったカメラ部門は、この年度に黒字化する見込みとなる。社名から写真を外した2年後に稼いだのは、その写真の側の商品であった[13][14]。
10年後の総括
社名に事業構成が追いついたのは、事務機の側からであった。1992年、情報機器の責任者となった岩居文雄氏は、当時主流だったアナログ複写機の開発を打ち切り、研究開発費の大半を白黒の高速デジタル機へ振り向けた。1998年には毎分45〜69枚の高速デジタル機で世界シェア23.9%、日本市場で40.3%を占めている。同年度の情報機器分野の連結売上高2,494億円は、全社の42%にあたる[15][16]。
1998年1月、植松富司社長は「昨年、社名ブランドをコニカに統一してちょうど一〇周年の節目を迎えた」と述べ、新しいコニカビジョン「Touching your Heart」を制定したと語った。同じ談話では、デジタル化の加速に商品開発の速度を合わせる必要があるとも述べている。それでも会社は写真を手放さなかった。植松氏は後年、カラーフィルムからの撤退提言を西村龍介社長が拒んだ過去を挙げ、「弱いものに明日はない」という考え方は正しくないと語っている[17][18]。
- 日経ビジネス 1988年6月13日号増刊「コニカ 販売網拡充が主眼」
- 日経ビジネス 1990年1月1日号「コニカ 小型軽量への“思い込み”が生んだ大ヒット」
- 日経ビジネス 2000年4月17日号「コニカの複写機事業 高速デジタル機で善戦、早い特化が奏功」
- 日経ビジネス 2001年11月12日号「有訓無訓 植松富司[コニカ会長]大切なのは『見えない力』」
- 週刊東洋経済 1998年1月31日号「ザ・トーク コニカ・植松富司社長」
- 週刊東洋経済 2001年9月22日号「トップの履歴書 コニカ社長 岩居文雄」
- 証券アナリストジャーナル 1973年11月号「小西六写真工業 高技術水準を誇る」(西村龍介)
- コニカ 有価証券報告書【沿革】