1873年4月、杉浦六三郎氏が東京麹町に小西屋六兵衛店[1]を開き、写真および石版印刷の材料を扱った。小西屋六兵衛は人名ではなく屋号であり、創業家は杉浦家にあたる[2]。当時、商品の仕入れはすべて横浜の外国商館を経由しており、日本の商人が海外と直接取引することはまず考えられなかった。小西屋六兵衛店は外国商館を通さない仕入れを求め、1884年にイギリスのイルフォード社と直接契約を結び[3]、以後は海外の著名各社とも直接取引している。ただし創業年をめぐっては記録が分かれる。『会社銀行八十年史』は『明治九年六月 杉浦六右衞門氏が東京日本橋に小西本店を開設』[引用元]と記し、日本橋へ進出した1876年を創業の年としている。会社自身は1873年を創業年として扱い、1973年に創立100年の記念行事を営んだ[4]。
輸入品を売るだけの商いから抜け出したのは1882年である。東京本所に石版機械、神田に写真暗函、本郷[5]に写真台紙とメッキ・革張・金工・木工の設備を備えた小工場をそれぞれ設け、木製暗函の製造から始めた。1903年には国産初の手提型写真機『チェリーカメラ』の製造に成功している[6]。仕入れて売る商店が、自ら作る側へ回った。自製できたのはカメラの箱や台紙といった機械部分までで、写真の中身を決める感光材料——乾板・印画紙・フィルム——はなお輸入に頼っていた。同社が本当に写真材料メーカーになるには、さらに四半世紀を要している。
1902年5月、東京淀橋角筈に工場六桜社を建設し、当時は実現不可能とされていた乾板と印画紙の製造研究に着手した。印画紙は成功し、1905年に白金タイプを発売[7]して国産感光材料の先駆けとなる。一方の乾板は、原料の入手と価格の両面で輸入品に対抗できず[8]、いったん製造を中止した。中止は無駄にならなかった。乾板の研究で蓄えた乳剤の技術は、後年のさくらフヰルムへ引き継がれている。1919年5月には六桜社を拡張して市内に分散していた小工場を集約し、化学部門を充実させた。1921年10月には合資会社小西六本店へ改組している。
1925年に発売したベスト判カメラ『パーレット』は、国産カメラを一般に普及[9]させる契機となった。カメラが売れても、フィルムは輸入品のままだった。1926年時点で映画用フィルムだけで年間約250万円[10]、写真用品全体では年間800万円から1,000万円の外貨が国外へ流れていたと推定されている。乾板は東洋乾板が1921年にST乾板を出して軌道に乗り、印画紙も国産[11]が受け入れられていたのに対し、ロールフィルムの開発だけが進まなかった。1929年10月、同社はわが国初の国産写真フィルム『さくらフヰルム』を発売する[12]。輸入品の販売で利を得ていた商店が、その輸入を自社製品で置き換えた。
5年後に設立される競合は、生い立ちからして違った。富士写真フイルムが大日本セルロイドの写真フィルム部を分離して発足したのは1934年1月、資本金300万円・従業員340人である。前年の1933年に政府が120万円の工業助成金の交付を決め、それを受けて国産化計画が動き出した。[13]国産化を政策が後押しするなかで生まれた会社である。小西六はそれより5年早く、助成金も持たずにフィルムを世に出している。事業の基盤が固まったところで、1936年12月に東京日本橋室町へ資本金700万円[14]の株式会社小西六本店を設立し、合資会社から株式会社へ組織を改めた。
1937年2月に株式会社小西六へ改称して合資会社を吸収合併し[15]、同年7月には東京府下日野町に六桜社分工場を設けてフィルム部門を移した。輸入に頼っていたフィルムベースの自家製造にも踏み込み、1940年にはさくらカラーフイルムを発売している[16]。この時期の事業拡大を支えたのは民需だけではない。1925年に陸海軍から各種航空カメラ・ガンカメラの試作[17]を命じられ、1934年ごろから量産に入り、太平洋戦争が終わるまで唯一の供給会社として軍に納めた。写真材料をつくる会社が、精密光学機器の量産まで引き受けている。
同じ時期、光学ガラスの内製にも手を付けている。光学機械のなかでも難題とされた分野だが、1935年ごろから研究に着手し、1942年1月に六桜社内へ設けた炉の火入れを行った[18]。1945年にはSK4のような優秀品を完成させ、軍関係の高い評価を得ている。1943年4月に社名を小西六写真工業へ改め、翌1944年3月には昭和写真工業を合併して小山工場[19](乾板)と富永工場(印画紙、のちの小田原工場)を傘下に収めた。終戦時には資本金1,650万円、7工場、光学・化学の2研究所[20]を持つ総合写真器材メーカーになっている。1873年に輸入材料を売っていた商店が、70年で自前の研究所と工場群を抱える製造業へ姿を変えた。
戦後は飯能・山形の両工場を閉鎖し、残る事業所で平和産業へ復した。1949年4月に戦時中は中止していたカラーフィルムを再発売し、1949年5月には東京証券取引所へ上場している[21]。1951年3月には資本金4,000万円の日本色彩映画を設立して発色現像を担わせ、1953年11月にコニカラーによる東映作品『日輪』、[22]1955年5月には日活作品『緑はるかに』を世に出した。カメラでも1947年のコニカ、1950年の新型パール、1953年のコニフレックスとコニレットを相次いで発売し、1952年6月には米国フィラデルフィアに代理人を置いて[23]、現地のドイツ製品との競争に備えている。
ただし、感光材料の主導権は握れていない。1954年度の総売上高は51億3,000万円で、内訳はフィルムが約51%、印画紙とカメラが各18[24]%だった。同じ年、富士写真フイルムは87億円を売り上げ、フィルムが70.4%を占めている。全国生産高に対する富士のシェアは映画フィルム96%、レントゲンフィルム64%、一般フィルム61%、印画紙41[25]%に達し、業界第一位を占めていた。国産フィルムを5年早く出した小西六は、フィルムの量産では後から来た会社に追い越されている。カメラと印画紙に厚みを持つ構成は、フィルム一本に絞れなかった結果でもある。1956年8月には米国にKonica Photo[26] Corporationを設立し、海外販売の足場を築いた。
1963年7月に東京八王子へ新工場を建て、淀橋工場[27]を移した。しかし1960年代後半には、新工場を建てながら配当を出せなくなっていた。1968年3月期に無配へ転落し[28]、無配は8期にわたって続いている。1968年春に社長へ就いた西村龍介氏[29]は技術担当の常務からの登用で、初代から3代目まで世襲が続いた同社にとって初めての非同族社長だった。西村氏はのちに『私は実は技術担当の常務だったが、それが思いがけない事情から社長に就任した。それから再建計画を立て、厳しい経営を実施し今日に及んでいる』[引用元]と振り返っている。
業績不振の原因のひとつは労使関係にあった。発祥の地が新宿で、代々木のすぐ近くに工場があったこともあり、戦後まもない時期から激しい労働争議が繰り返され、『小西六といえば年中赤旗が立てられている』[引用元]と言われるほどだった。西村氏は就任時に組合三役と会い、一般従業員の首は切らないと宣言している。自身が工場長時代に人員整理を2度経験していたためである。そのうえで部課長には厳しく臨み、15%にあたる40名へ格下げまたは退社を求めた[30]。45歳の役員が生まれたのはこのときが初めてだった。組合との対話を重ねた結果、ストライキは止まっている。
再建の中身は品質管理の徹底だった。製品単体の検査にとどめず、統計を経営全体へ織り込むトータルQCを敷き、カメラ[31]の組み立て工程ではレンズ班・距離計班ごとにQCサークルを組んで、リーダーを組長、課長を横からの助言役に据えた。成果発表の場には西村氏自身が出席している。人事では、半年ほど空くポストを下位の従業員から公募するチャレンジ・ポスト制度を設け、就任1年目には約300人の従業員と面接した。復配は1972年3月期の6%から始まり、同年9月期に10[32]%、1973年3月期には記念配2%を含む12%まで戻している。
1971年1月、電子複写機U-Bixの製造販売[33]を始めた。写真材料一本だった会社が、事務機という別の市場へ出た判断である。伸び方は急だった。U-Bixの売上は1971年下期19億円、1972年上期34[34]億円、同下期53億円と半期ごとに増え、1973年9月期には65億円から70億円が見込まれた。発売から2年半で、全社売上高に占める比率は20%へ達している[35]。西村氏は『電子複写機はわずか2年くらいのうちにこのように伸びてきたものである』[引用元]と述べた。輸出比率も56%と高く、国内の事務機市場だけを相手にした製品ではなかった。
1973年3月期の売上高は266億円(前期比8%増)、経常利益15[36]億8,200万円(同16.2%増)、税引利益6億500万円(同14.6%増)だった。売上構成はフィルム40%、カメラおよび交換レンズ19%、電子複写機20%、印画紙11[37]%、写真薬品その他10%である。祖業のフィルムがなお最大だが、参入3年目の複写機がカメラを上回った。会社は1972年4月に八王子工場を電子複写機の工場として整備し、カメラとレンズの生産を山梨コニカ・甲府[38]コニカへ移している。工場の使い道そのものを、写真から事務機へ入れ替えた。
U-Bixの開発は、他社の特許を避けて設計する作業から始まっている。乾式電子複写機は米ゼロックスが押さえた技術であり、同社は約900件の特許[39]を持っていたが、小西六はその一件にも触れずに製品を設計している。半年を費やしたのは特許の調査ではなく、ゼロックスの利用者が何に不満を抱いているかの聞き取りだった。栗田善一郎常務は『まるまる半年、その調査に明け暮れたために、感光性の向上や解像力の強化に開発の焦点を絞ることができた』[引用元]と語っている。生産は月産500台から1,000台、1,500台へと増強され、1976年までに7万台以上を出荷[40]した。同年時点で売上の4分の1を占め、米国で2%、欧州で5%のシェアを得ていた。
事務機へ出たのは、写真材料に伸ばす先が見えなかったからである。西村氏は感光材料事業について『歴史的に見ても後発会社はどこも成功していない』[引用元]と述べ、米スリーエムのフェラニア買収、デュポンのシュロイスナー買収、英ICIのイルフォード買収がいずれもうまくいっていないことを挙げた。原因として、コダックが大き過ぎること、そして秘密性が高く技術者を数人引き抜いても事業が興せないことの2点を挙げている。参入障壁の高さは、後発を寄せつけない一方で、自社が伸ばせる範囲も狭めていた。1973年正月には小西六とコダックの提携が新聞に報じられ[41]、否定に追われる一幕もあった。
カメラでも同じ構えを取っている。1973年11月に社長へ就いた冨岡弘氏は、正面からの競争を避ける考えを『巨大企業には抜け穴がある。そのスキを突くんですよ』[引用元]と表現した。[42][43]当時のカメラ市場では、残るのは一眼レフの高級機とカセット型フィルムの普及機で、中級機は消えるという見方が支配的だった。小西六はその中級機を主戦場としており、1975年に世界初のストロボ内蔵カメラ『ピッカリコニカ[44]』、1977年に世界初の自動焦点カメラ『ジャスピンコニカ』を出している。ピッカリコニカは月産5万台を超えた。富士写真フイルムもストロボ内蔵を研究したが中断していた。
それでも規模の差は埋まらなかった。1975年度の売上高は小西六870億円に対し、富士写真[45]フイルム1,921億円、キヤノン750億円である。税引利益では小西六25億円、富士61億円、キヤノン8億円と、利益率ではキヤノンを上回った。輸出比率は39%で富士の20%の約2倍に達し[46]、円高の影響を受けやすい構造でもあった。自己資本比率は18%前後にとどまり、1974年と1975年に転換社債を発行して資金を手当てしている。冨岡氏は再建の要点を『もっとも安易な手段は、人員整理をして縮小均衡をとることでしょうが、それをやらないままで、合理化や省力化を徹底し、それをテコに再建する道を選んだ』[引用元]と述べた。
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|---|---|---|---|---|
| 1873〜1936年小西屋六兵衛店から六桜社へ——輸入商が感光材料を自製するまで | 東京麹町に小西屋六兵衛店を開設 | ★★ | ||
| カメラ・台紙・石版器材の自社製造販売を開始 | ★★ | |||
| 東京淀橋角筈に工場六桜社を建設 | ★ | |||
| 国産初の手提型写真機チェリーカメラの製造に成功 | ★ | |||
| 六桜社を拡張し市内に分散していた小工場を集約 | ★ | |||
| 小西六本店に改組 | ★ | |||
| ベスト判カメラ「パーレット」を発売 | ★ | |||
| 国産初の写真用フィルム「さくらフヰルム」を発売 | ★★ | |||
| 東京日本橋室町に小西六本店を設立 | ★ | |||
| 1936〜1962年小西六写真工業——軍需で広げた技術と、戦後の総合写真材料メーカー | 社名を小西六に商号変更 | ★ | ||
| 東京府下日野町に六桜社分工場を新設しフィルム部門を移転 | ★ | |||
| さくらカラーフイルムを発売 | ★ | |||
| 六桜社内に光学ガラスの溶解炉を火入れ | ★ | |||
| 社名を小西六写真工業に商号変更 | ★ | |||
| 昭和写真工業を吸収合併し小田原事業場に | ★ | |||
| 東京証券取引所に上場 | ★ | |||
| Konica Photo Corporationを設立 | ★ | |||
| 1963〜1978年八王子と電子複写機——無配八期からの再建と、写真材料一本からの脱却 | 東京八王子に新工場を新設し淀橋工場を移転 | ★ | ||
| 西村龍介氏が社長に就任 | ★ | |||
| 電子複写機U-Bixの発売による事務機市場への参入と、八王子工場のカメラからの転換 1971年1月、写真材料とカメラを主力としてきた小西六写真工業が電子複写機U-Bixを発売し、事務機市場へ参入した判断。米ゼロックスが張りめぐらせた約900件の特許に一つも触れない設計で製品をまとめ、あわせて八王子工場をカメラから電子複写機の専門工場へ衣替えした。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 八王子工場を電子複写機工場に整備 | ★ | |||
| カメラ・レンズ生産を山梨コニカ・甲府コニカへ移管 | ★ | |||
| Konishiroku Photo Industry (Europe) GmbHを設立 | ★ | |||
| 本社事務所を東京西新宿に移転 | ★ | |||
| 1979〜2003年買収で広げた事務機、「コニカ」への改称、そして統合 | 兼松ユービックス販売の全株を取得 | ★ | ||
| 米ロイヤル・ビジネス・マシン社の完全子会社化と、北米事務機販売網の自前化 1986年1月、小西六写真工業(現・コニカ)が米の事務機販売会社ロイヤル・ビジネス・マシンの残る66%を親会社の西ドイツ・フォルクスワーゲンから買い取り、完全子会社とした買収。1984年の34%資本参加と合わせた二段階で、北米の事務機販売網を自前に切り替えた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 独にKonica Business Machines Manufacturing GmbHを設立 | ★ | |||
| 印画紙製造工場Konica Manufacturing U.S.A.を設立 | ★ | |||
| Powers Chemco, Inc.を設立 | ★ | |||
| 輸出ブランド「コニカ」への商号変更と、社名からの「写真工業」の削除 1987年10月、小西六写真工業は商号をコニカ株式会社へ改めた。輸出向け製品ブランドとして定着していた『コニカ』を社名に据え、業種を示す『写真工業』を社名から外している。感光材料の市場成長が鈍り、販売網の整備も遅れていた会社が、事務機・情報機器まで含めて名乗れる呼称へ移した商号変更である。 詳細を読む | ★★★ | |||
| アナログ複写機の開発を打ち切りデジタル高速機に集中 | ★★ | |||
| ミノルタと事務機器で業務提携 | ★★ | |||
| 国内機器生産子会社を統合しコニカテクノプロダクトを設立 | ★ | |||
| 純粋持株会社制へ移行し4事業会社・2共通機能会社に分社 | ★★ | |||
| 委員会等設置会社へ移行 | ★ | |||
| ミノルタとの株式交換による経営統合と、持株会社コニカミノルタホールディングスの設立 2003年1月7日、精密業界大手のコニカとミノルタが持株会社方式による経営統合を発表し、同年8月に株式交換で統合してコニカミノルタホールディングスが発足した。上場精密会社で4位の1兆円企業となり、精密業界で両社が自ら仕掛けた初の統合であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| コニカミノルタHDに商号変更 | ★ |
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事実根拠:出所(コニカ)