富士フイルム富士フイルム創業——大日本セルロイドが分社した写真フィルム専業会社と国策助成金
米コダック・独アグファ依存からの脱却を国策に、大日本セルロイドが写真フィルム部門を分社した富士写真フイルムは、量産失敗による累積赤字をどう立て直して写真専業メーカーへ育ったか
- 概要
- 1934年1月、大日本セルロイドが写真フィルム部門を分社する形で、資本金300万円の富士写真フイルム株式会社が神奈川県足柄上郡(現南足柄市)の足柄工場で発足した。米コダック・独アグファに依存する年1500万円規模の輸入構造を国産で置き換える国策の枠で、政府は資本金の40%にあたる助成金を交付し、専業会社として乳剤化学と精密塗布の習得に踏み込ませた。初代社長には大日本セルロイド出身の春木栄 氏が就いた。
- 背景
- 当時の日本は写真フィルムを米コダック・独アグファに依存し、年1500万円規模の輸入額は国防と経済の両面から課題とされていた。セルロイド国産化の中核だった大日本セルロイドは、1920年代後半から写真フィルムの支持体を米コダックへ輸出しつつ感光材料の自給化研究を続けていた。乳剤化学と精密塗布を要する写真専業の技術文化はセルロイド本業と同居しにくく、助成金を分社の形で受けて独立採算の専業会社を起こす判断に傾いていった。
- 内容
- 1934年1月20日、大日本セルロイド写真フィルム部を母体に富士写真フイルムが発足し、富士山と丹沢を水源とする酒匂川の軟水と低湿度を備えた足柄の地に工場を、東京日本橋に本社事務所を置いた。だが創業翌々年の1936年に量産化へつまずき、累積36万円の赤字を計上して事業継続が危ぶまれた。後に4代目社長となる小林節太郎 氏は社内に去就を問い、再建に協力する者と運命を共にする方針で組織を立て直した。
- 含意
- 1938年2月に小田原工場を新設して量産専用ラインを分離し、同年に国産医療用X線フィルムの量産化へ着手して多品種で原料を回す体制を整えた。1939年の写真感光材料製造事業法施行で陸海軍向けの国家管理品目となり、輸入遮断のもとで需要を取り込んだ。終戦時には従業員約8,000名規模へ達し、1946年のフジカラーサービス設立を経て、1949年5月の東京・大阪証券取引所上場で写真専業の上場メーカーとして再出発した。
母体の技術を継いだ分社が自立するまで
この創業が示すのは、著名な個人創業者に始まる物語ではなく、母体である大日本セルロイドの支持体技術と資本、そして国策の助成金を土台に、写真フィルム部門が独立した法人格を得た経緯である。乳剤化学と精密塗布という写真専業の技術文化を、セルロイド本業から切り離して独立採算で磨く判断が、専業メーカーの出発を支えていたと読める。
もう一つ見えてくるのは、創業からの十数年が輸入代替という一貫した課題のもとにあった点である。米コダック・独アグファに追いつけずに累積赤字を抱えた初期の苦しさは、1939年の事業法施行と戦時の輸入遮断によって国産へ需要が振り向けられ、量産の技術を磨く時間へと転じていったとみられる。特定の個人の決断よりも、母体の技術・国の政策・戦時の需要という外の条件が重なり合って、写真専業メーカーの初期十年を形づくっていったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
写真フィルム国産化という課題と大日本セルロイド
大日本セルロイドは1919年に堺セルロイド・日本セルロイド人造絹糸ほか8社が合同して発足したセルロイド国産化の中核企業で、1920年代後半からは写真フィルムの支持体を米イーストマン・コダックほかへ輸出しながら、写真感光材料の自給化研究を続けていた[1]。当時の日本は映画用・一般用ともに写真フィルムを米コダック・独アグファに依存し、年1500万円規模の輸入額は国防と経済の両面から課題とされていた[2]。
銀塩写真フィルムの量産化には、ゼラチンと硝酸銀から調整した感光乳剤を支持体へ均一に塗布する精密工程と、暗室での品質管理という写真専業の技術文化が欠かせない[3]。セルロイド本業との同居では研究と量産の両立が難しく、大日本セルロイドは政府からの助成金を分社の形で受け、専業会社として写真フィルム事業を独立採算で運営する道を選んだ[4]。母体の技術と資本を土台に、写真専業の会社を切り分ける構想が固まっていった。
決断
足柄での分社設立と立地選定
1934年1月20日、大日本セルロイド写真フィルム部を母体に、神奈川県足柄上郡南足柄村大字怒田の足柄工場で資本金300万円の富士写真フイルム株式会社が発足した[5]。初代社長には大日本セルロイド出身の春木栄 氏が就き、後に4代目社長となる小林節太郎 氏ら技術陣が乳剤・塗布工程を担った。国産フィルム自給を促す国策の枠で、政府からは資本金の40%にあたる助成金が交付されている[6]。
写真乳剤の塗布工程は、わずかな塵埃や水質の不純物、湿度の変動が製品の歩留まりを直に左右する。大日本セルロイドは用地選定で、富士山と丹沢を水源とする酒匂川の伏流水、湿度変動の小さい盆地状の気候、京浜市場と東海道線への近接を満たす足柄上郡を選んだ[7]。米コダックがロチェスター郊外、独アグファがウォルフェンに工場を置いたのと同じ発想であり、本社事務所は東京日本橋に構えて販売と原料調達を担う二拠点体制を組んだ[8]。
結果
量産失敗と再建の訴え
創業翌々年の1936年、富士写真フイルムは量産化につまずき、累積36万円の赤字を計上した[9]。資本金300万円に対して不良品の処理損失がかさみ、事業の継続そのものが危ぶまれるところまで追い込まれた。乳剤の感度・粒状性・保存性が外国品に追いつかず、現像所での評価でも国産は「絶望視」(読売新聞 1938/7/24)される水準にとどまっていた[10]。
後に4代目社長となる小林節太郎 氏は、資本金の40%に及ぶ助成金を得てフィルム国産に踏み切ったと述べ、「外国品を駆逐するのが使命」と考えて経営してきたと振り返っている[11]。累積赤字で会社が憂慮すべき状態になったなか、氏は「やめたいものは遠慮せずに去ってほしい」(私の履歴書 小林節太郎 1977)と社内に去就を問い、再建に協力する者と運命を共にする方針を示した[12]。技術陣は乳剤研究と工程管理を一段と強める段階へ入った。
戦時下の量産と写真専業の上場
1938年2月、富士写真フイルムは小田原工場を新設し、足柄に乳剤研究を残しつつ量産専用ラインを小田原へ分離した[13]。同年には日本初の国産医療用X線フィルムの量産化に着手し、写真用・映画用・X線用と多品種で原料を回す体制が整い始めた。読売新聞は1938年7月、「今までアメリカから年に1500万円も輸入していた映画用フイルムを今年中に完全にシャット・アウトする」(読売新聞 1938/7/24)と伝え、輸入停止を前提に国産フィルムへの切替を国策として打ち出した[14]。
日中戦争以降の外貨制約と1939年の写真感光材料製造事業法の施行で、写真フィルムは陸海軍向けを優先する国家管理品目に組み込まれた[15]。富士写真フイルムは足柄・小田原の二工場に加えて1944年に大日本セルロイドの一部事業を吸収合併し、終戦時には従業員約8,000名規模へ達している[16]。戦後は1946年4月にフジカラーサービスを設立して販売網を再構築し、1949年5月に東京・大阪の両証券取引所へ株式を上場して、写真専業の公開メーカーとして再出発した[17]。
- 有価証券報告書(沿革)
- 私の履歴書 小林節太郎(日本経済新聞社, 1977)
- 読売新聞 1938/7/24「フイルム・輸入ご無用・来年からは国産品」
- 富士写真フイルム50年のあゆみ(1984)
- ダイヤモンド 1963/9/16「着実な需要増加が続く・富士写真フイルム」