マツダマツダ創業——広島のコルク再建会社から三輪トラック「マツダ号」への転身

設立翌年に経営難へ陥った広島のコルク再建会社を、機械発明家・松田重次郎 氏はどう工作機械・三輪自動車メーカーへ立て直したか

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時期 1920年1月
意思決定者 松田重次郎 氏 東洋コルク工業 2代目社長・東洋工業=現マツダの実質的創業者
論点 コルク再建会社の事業再構築(機械メーカーへの転身)
概要
1920年1月、広島県内のコルク製造業者を再建する目的で地元の有力者が東洋コルク工業株式会社を設立したが、大戦終結でコルク代替需要が縮小し設立直後から経営難に陥った。翌1921年に機械発明家の松田重次郎 氏が2代目社長として再建を引き受け、1927年9月に東洋工業株式会社へ改称して工作機械と三輪自動車を二本柱とする機械メーカーへ転じた。1931年10月に三輪トラック「マツダ号DA型」を投入し、後の自動車メーカーへの道を開いた。
背景
第一次世界大戦中の欧州からのコルク輸入途絶を受けた代替需要を狙って東洋コルク工業は設立されたが、大戦終結で輸入が回復すると需要は急速に縮小した。松田重次郎 氏は大阪で「松田式」と冠したポンプや信管を手掛けた機械発明家で、海軍向けの精密機械という受注を携えて、地元の要請のもと経営難のコルク会社の再建に迎えられた。
内容
1922年から圧搾コルク板を量産したものの、1925年の工場火災と、海軍向け航空機エンジン部品・精密機械の繁閑の差に苦しんだ。松田重次郎 氏は荷馬車に代わる商用車の需要を見込み、1927年9月に東洋工業へ改称して1929年4月に工作機械、1931年10月に三輪トラックの生産を開始した。海軍向け精密機械と三輪・オートバイの一貫量産のため、府中村の猿猴川沿いに1万坪の河川埋立地を坪約10円で買収して主力工場の用地とした。
含意
単一素材のコルクに依存した再建会社が、外部から迎えた発明家の構想で工作機械と三輪自動車の二本柱へ転じ、機械メーカーとしての土台を初期十数年で築いた。創業者・松田重次郎 氏の姓を冠した「マツダ号DA型」は全国の小口輸送業者に広まり、社名の東洋工業を上回る通名として商品ブランドのマツダが市場に定着し、後の総合自動車メーカーへの基盤となった。
筆者の見解

発明家に託した再建が生んだもの

この創業が示すのは、単一の素材であるコルクに賭けた再建会社が、外部から迎えた技術者の構想によって事業の土台をつくり替えていった経緯である。大戦終結で消えたコルクの代替需要に代えて、海軍向けの精密機械で培った工作機械の技術と、荷馬車に代わる商用三輪車という新しい市場を組み合わせた転換が、コルク専業の行き詰まりを越える二本柱を用意したとみられる。

もう一つ見えてくるのは、社名よりも商品名が先に広く知られていった経路である。創業者・松田重次郎 氏の姓を冠した「マツダ号」が全国の小口輸送業者に広まるにつれ、東洋工業という社名以上に、商品ブランドのマツダが市場での通名として定着していった。発明家を経営者として迎えた再建の選択が、後年に社名そのものを塗り替えるブランドの土台になっていったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

コルク再建会社の発足と発明家・松田重次郎

東洋コルク工業株式会社は1920年1月、広島県内のコルク製造業者を再建する目的で、地元の有力者の出資によって設立された[1]。第一次世界大戦中に欧州からのコルク輸入が途絶え、その代替需要を見込んだ設立であったが、大戦の終結で輸入が回復すると需要は急速に縮小し、初代の経営陣のもとで設立直後から経営難に直面した。単一の素材であるコルクに依存した事業構成は、輸入回復という外部環境の変化に耐えられず、早くから行き詰まりを見せていた。コルク以外に確たる主力を持たない再建会社にとって、次の収益の柱をどこに求めるかが、設立当初からの課題となった。

松田重次郎 氏は1875年に広島県安芸郡仁保島村(現広島市南区向洋)に生まれ、大阪で機械工としての修練を積み、海軍向けの信管やポンプで「松田式」と冠した一連の機械を世に送り出していた[2]。経営難に陥った東洋コルク工業は、地元の要請を受けたこの機械発明家を、翌1921年に2代目社長として迎え入れた[3]。単一素材のコルクの再建会社に、機械技術を持つ人物を経営者として据えたこの人選が、後の工作機械・自動車メーカーへの転身につながる初期の判断であった。

決断

コルクから工作機械・三輪自動車への転換

東洋コルク工業は1922年から圧搾コルク板の量産で業容を広げたが、1925年の工場火災で設備の一部を焼失する打撃を受けた[4]。並行して引き受けた海軍向けの航空機エンジン部品や精密機械の仕事は、品目と数量が一定せず時期による繁閑の差が激しく、量産ラインを安定して稼働させにくい悩みを抱えていた。コルクという単一素材と、時期によって波のある軍需の受注だけでは、量産を主体とする事業の土台が定まらないままであった。

松田重次郎 氏は、当時の貨物輸送の主役であった荷馬車に着目し、「荷馬車にエンジンをつけろ」「あれくらいのスピードなら、たいした馬力もいるまい」(日経新聞 私の履歴書 1965/10)と息子の松田恒次 氏らにオート三輪車づくりを促していた[5]。松田恒次 氏は当時の自動車市場について、「わが国でも1918年に軍用自動車補助法が公布されてからというもの、ようやく本格的な動きを見せてきていた」(日経新聞 私の履歴書 1965/10)と後年に振り返っている[6]。こうした見通しのもと、東洋コルク工業は1927年9月に社名を東洋工業株式会社へ改め、1929年4月に工作機械、1931年10月に三輪トラックの生産を順に始めた[7]

結果

府中への工場移転とマツダ号DA型

海軍向けの精密機械とオート三輪・オートバイの一貫した量産体制を整えるには、広島市街地の3,000坪では手狭であった。松田恒次 氏は後年、「3000坪くらいの敷地ではいかにも手狭であった」とし、安芸郡府中村(現府中町)の猿猴川沿いに造成された1万坪の河川埋立地を「坪あたり約10円で買収した」(日経新聞 私の履歴書 1965/10)と述べている[8]。広島市街地から府中村へ移したこの1万坪の用地が、以後の本社と主力工場の土地の母体となった。松田恒次 氏は「当時購入したこの1万坪の土地は、いまでこそ現工場のごく一部にしか過ぎない」(日経新聞 私の履歴書 1965/10)とも記し、その後の工場の広がりを振り返っている[9]

三輪トラックは、創業者・松田重次郎 氏の姓「松田」をローマ字読みした「MAZDA」を冠し、「マツダ号DA型」として市場へ投入され、低価格の商用三輪車として全国の小口輸送業者に広まった[10]。量産の規模が広がるにつれ、市場では三輪車メーカー「マツダ」として通名が定着し、後年の経済誌も「かつて三輪車メーカー“マツダ”として世に知られた」(新日本経済 1966/12)自動車メーカーと振り返っている。社名の東洋工業より、商品名のマツダのほうが広く知られる状態が長く続いた[11]

出典・参考
  • 有価証券報告書(沿革)
  • 日経新聞 私の履歴書 松田恒次 1965/10
  • 大阪経済評論 1952/08
  • 新日本経済 1966/12

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