松田重次郎

マツダ・元取締役社長(第2代)

Matsuda Jujiro(敬称略)

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社長就任 1921年3月
生年月日 —
学歴 —
出自 —
社長就任までの出自
出自

1917年9月、郷里の広島県安芸郡仁保村に株式会社松田製作所を設立し、広島の機械工業に先鞭をつけた。翌1918年4月、日本製鋼所からの事業提携の申し入れを受けて仁保村の土地を提供し、松田製作所は広島製作所と改称して同社の傘下に入った。松田重次郎氏は常務取締役として経営の一端を担ったが、その立場に飽き足らず1919年11月に事業から身を引いた。1920年1月に設立された東洋コルク工業には取締役として加わり、45歳から77歳で没するまでをこの会社に費やした。

社長に選ばれた経緯
抜擢

1921年3月14日の重役会で初代社長の海塚新八氏が病気を理由に辞任を申し出、互選の結果、取締役だった松田重次郎氏が後任に選ばれて東洋コルク工業の第2代社長に就任した。松田氏を除く取締役4名はいずれも別の企業を主宰するか他社の経営に深く関わっており、東洋コルク工業の経営に専心したのは松田氏ただ一人だった。同年5月、設立時の筆頭株主だった清谷角八氏が原料代前渡金をめぐる紛争で会社との関係を断たれ、その持株が松田氏らへ移って松田氏が筆頭株主となった。

在任中の主な施策
施策

就任早々に圧搾コルク板の製造を主張して実行したが、コルクは製氷・冷蔵用の断熱材で需要の季節変動を免れず、メーカー乱立と為替相場の低落による原料高の製品安に苦しんだ。1927年9月17日の臨時株主総会で商号を東洋工業へ改め、機械部門は日本製鋼所の下請として呉・広両海軍工廠の機械金物やゲージの製造から出発した。1945年8月6日の原爆で死者119名を出しながら約4か月で三輪トラックの生産を再開し、1951年12月26日に松田恒次氏へ社長を譲って会長へ就任した。

在任の評価
評価

執筆予定

経歴 1920〜1951年
在任中の業績
就任前-
退任時-
変化-
就任前-
退任時-
変化-
参考文献 1件

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