川崎重工業昭和金融恐慌下での鉄道車両・航空機事業の分離独立

十五銀行の取り付けで資金繰りが詰まった川崎造船所は、なぜ比較的よく稼いでいた部門から先に切り出したのか

時期 1928年5月
意思決定者(推定) 松方幸次郎氏・鋳谷正輔氏 川崎造船所 社長(1928年の車輌分離当時)・川崎造船所 社長(1937年の航空機分離当時)
論点 経営危機下の事業分離と資金繰り
概要
昭和金融恐慌で経営難に陥った川崎造船所が、1928年5月に兵庫工場を分離して川崎車輌を、1937年11月に飛行機部門を分離して川崎航空機工業を設立した判断。造船の本体を残すため、比較的業績の安定した部門を別会社として切り出した。
背景
1922年のワシントン海軍軍縮条約で加賀・愛宕の工事が中止となり、艦艇に依存した事業構成が痛む。1927年には主取引銀行の十五銀行に取り付け騒ぎが起こって資金繰りが詰まり、従業員17,000名を抱えたまま新聞に「頻死」と書かれる状態に至った。
内容
1928年5月18日、兵庫工場を独立分離して資本金1,200万円の川崎車輌を設立し、これを担保に再建資金の融資を受けた。1937年11月には飛行機部門を分離して資本金5,000万円の川崎航空機工業を設立している。分離後も資本と社長人事は本体が握り続けた。
含意
事業を育てるための分社ではなく、担保と信用をつくるための切り出しであった。分離された車輌・航空機は戦時に独自に膨張し、造船本体とあわせた3社が再び一つの会社になるのは1969年4月である。
筆者の見解

担保にするために切り出した部門が、40年の分立になった

川崎車輌の分離は、伸ばしたい事業を独立させる話ではなかった。会社銀行八十年史が危険の分散と金融上の操作と書いたとおり、比較的業績の安定した兵庫工場を切り出して担保に供し、再建資金を引き出すための手当てであった。従業員17,000名と神戸の盛衰を抱えたまま造船の本体を残すには、稼げる部分を外へ出して別の信用をこしらえるほかなかったのだとみられる。切り出す順序に、当時の資金繰りの切迫が表れている。

ただ、切り出しても資本と人事は本体に残った。川崎車輌の社長は終戦直後まで造船所の社長が兼ね、分離した会社の株式も本体が全て持っていたため、1939年に日本銀行の持ち株が狙われたときは造船所ごと海運の手に渡りかねない状態になっていた。危険の分散という当初の狙いが働いたのは資金繰りの面に限られ、経営の独立は戦後を待つことになる。急場でとった一手が、40年に及ぶ分立の始まりとなったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

好況で整えた陸海空の形と、軍縮

川崎造船所は、第一次世界大戦の好況で日本の二大造船所の一つに数えられるまでになっていた。1919年4月には川崎汽船を設立し、同じ年に兵庫工場内へ飛行機科を置いて航空機の試作研究にも入っている。1919年1月の大阪新報は、同社を松方幸次郎社長の資質と欧州で重ねた4年の研鑽が具体化したものとし、経営は整然として乱れがなく、いまや東洋唯一の大工場であると書いた。造船を軸に車両・航空機・製鉄まで抱える形は、この好況期に整えられたものであった[1][2][3]

1922年のワシントン海軍軍縮条約は、艦艇の建造需要を直撃した。同社が受けていた加賀・愛宕の工事も中止となる。会社側は同年2月、職工はすでに他の仕事へ向けてあるので一名の失職者も出さない、加賀・愛宕の代わりに特務艦2隻の建造を内命されているから当分は影響を受けないと説明していた。艦艇に頼る事業構成の弱さは、この時点ではまだ表に出ていない[4]

十五銀行の取り付けと「頻死」

軍縮から5年後、金融恐慌の余波が資金繰りを襲った。半期利益は1926年下期の356万円から1927年下期には3,346万円の損失へ転じ、主取引銀行であった十五銀行に取り付け騒ぎが起こって借入の道が細る。行き詰まりの処理として主たる債務は優先株に振り替えられ、債権者であった十五銀行はその優先株40万株を日本銀行へ担保に入れて借り入れ、整理資金に充てた。40万株は全株式の25%にあたる[5][6]

1927年5月24日の東京朝日新聞は、思い設けぬ財界大恐慌の余波を食ってひん死の状態に陥った川崎造船所の救済問題として、経済上の立場に加えて国防上の影響と17,000名の従業員の死活を並べ、政府が斡旋を重ねてもなお解決の兆しがないと伝えた。翌25日の大阪朝日新聞も、造船所の死活は神戸の盛衰に重大な関係を持つと書いている。一社の資金繰りが、都市と軍備の問題として扱われていた[7][8]

決断

兵庫工場を切り出し、担保に充てる

1928年5月18日、川崎造船所は兵庫工場を独立分離し、資本金1,200万円で川崎車輌を設立した。この工場は1906年9月の創設で、輸入に頼っていた鉄道車両の国産化に乗り出した部門にあたる。1914年の鉄道国有化で車両規格が統一されると量産が可能になり、大正末期には国内自給の域を脱して一部をアジア地域へ輸出するまでになっていた。本体が傾くなかで、比較的業績の安定した部門であった[9][10]

切り出しの狙いは、事業の育成ではなかった。会社銀行八十年史は、昭和初年の経済恐慌で造船所が危殆に瀕したため、危険の分散と金融上の操作を主たる目的として新会社の設立となったと記している。兵庫工場は担保に供され、再建資金の融資を引き出す役に充てられた。資本の面では依然として造船所の支配下にあり、社長も初代の鹿島房次郎氏から平生釟三郎氏、鋳谷正輔氏まで、終戦直後まで造船所の社長が兼ねている[11]

和議を挟んで、航空機も切り離す

分離だけで本体は収まらなかった。1928年5月に松方幸次郎社長が辞任し、鹿島房次郎氏が後任、石井清氏が社長代理として社業の挽回にあたるが、1931年7月には和議を申請するに至る。1932年に和議法の適用を受けて再建を図ることとなり、1933年3月に平生釟三郎氏、1935年12月に鋳谷正輔氏が社長へ就いた。自社が1936年に編んだ四十年史も、昭和2年から8年を「整理時代」と章立てしている[12][13]

1937年11月、今度は飛行機部門を分離し、資本金5,000万円の川崎航空機工業を設立した。この部門は1919年4月の飛行機科に始まり、1922年9月に飛行機部、1927年5月に飛行機工場と改組を重ね、1934年には各務ケ原に機体工場を新設して神戸工場を発動機の専門工場としていた。分離は成熟した部門を独立させただけのものではない。飛行機部門は陸軍、造船部門は海軍と結びついており、双方の要請へ一つの会社で応じることが難しくなっていた[14][15]

結果

独り立ちした2社の膨張

川崎車輌は、設立直後こそ昭和初年の不況で沈滞したが、1933年以降は内需の増大と大陸方面からの需要増を受けて動き出す。国鉄のほか朝鮮・台湾・樺太、さらに満州・中国・シャムへ蒸気機関車などを送り、最盛期には輸出が全生産量の60%を占めるに至った。資本金も1937年12月に2,000万円、1940年5月に3,000万円へ増やしている。大井川の鉄橋、永代橋、勝鬨橋といった橋梁も同社の仕事であった[16]

川崎航空機工業も軍用機の専門工場として設備を広げた。各務ケ原工場は1939年2月に岐阜工場と改称し、1940年9月に明石工場、1944年4月に都城工場を開いて、数次の増資を経て1943年11月には資本金3億円に達する。試作機の数では1919年以来この分野の第一位にあり、生産機数でも中島飛行機に次ぐ第二位を占めた。1945年1月以降の空爆で明石・岐阜の両工場は壊滅的な損害を受け、航空機の製造はそこで途切れた[17]

本体の回復と、40年の分立

本体は1930年代半ばに息を吹き返した。海運の船舶拡充策である優秀船建造助成施設の実行と、海軍が無条約状態への移行を前に必要艦艇の建造を始めたことで受注が戻る。1936年8月31日の大阪毎日新聞は「大“川崎”に栄光燦たり」と見出しを立て、ここ数年来の川崎にはかつてない殷盛が訪れたと書いた。1939年12月には社名を川崎重工業へ改め、日華事変以後の拡充態勢に入っていく[18]

分離した会社の株式は本体が全て持っており、資本の上では一体のままであった。それを外から突かれたのが1939年4月で、山下汽船社長の山下亀三郎氏が大阪商船社長の村田省蔵氏と組み、日本銀行が持つ川崎造船所株40万株の買い取りを計画する。狙いは傘下の川崎汽船を収めて海運界の首位に立つことにあったとみられる。幹部社員は社員会を結成して関係方面へ陳情し、新株主が3年間は経営に介入しないという契約で収めた[19]

資本と人事の面で分離が実を結ぶのは戦後であった。川崎車輌は1947年3月に4代社長として向笠金吾氏を迎え、ここで初めて名実ともに独立の姿を整える。航空機の側は財閥解体と航空機製造の禁止を経て第二会社へ三分割され、独立回復後の1953年から1954年にかけて再び一つの会社にまとまった。造船・車両・航空機の3社が同じ社名のもとへ戻るのは、分離から40年余りを経た1969年4月である[20][21]

出典・参考
  • 大阪新報(1919年1月13日)「川崎造船所の権威」
  • 大阪時事新報(1922年2月8日)「失職者は一名も出さぬ」
  • 東京朝日新聞(1927年5月24日)「頻死の川崎救いの手は何処から」
  • 大阪朝日新聞(1927年5月25日)「川崎救済で知事の初仕事」
  • 大阪毎日新聞(1936年8月31日)「大“川崎”に栄光燦たり」
  • 川崎造船所四十年史(川崎造船所, 1936年)
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955年)「川崎重工業」「川崎車輌」「川崎航空機工業」の項
  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980年)
  • 川崎重工業株式会社社史(川崎重工業, 1959年)
  • 川崎重工業株式会社 有価証券報告書【沿革】

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