川崎重工業二輪車の米国販売会社の設立と、中・大型車に絞った北米市場への傾斜

国内で原付を追うか、海外で大型車を売るか——重工業の会社が消費者に顔を持つまで

時期 1966年3月
意思決定者(推定) 川崎航空機工業 経営陣
論点 二輪車事業の市場選択とブランド
概要
1966年3月、川崎航空機工業が米国に American Kawasaki Motorcycle Corp. を設立し、国内で主流であった原付第一種を追わず、中・大型車の需要が厚い北米へ販売の足場を置いた判断。1981年12月には米国生産にも踏み込み、二輪車は重工業の会社が持つ唯一の消費財事業として育った。
背景
敗戦で航空機の生産を禁じられた川崎航空機工業は、明石の設備を民需へ振り向ける過程でモーターバイクとエンジンに手を伸ばした。しかし国内二輪車市場の主流は排気量50cc以下の原付第一種で、この帯を持たない川崎は台数でも販売店網でも先行3社に大きく後れを取っていた。
内容
1966年3月に米国へ販売会社を設け、中・大型車を軸に輸出比率が8割を超える事業構造をつくった。1981年12月にはネブラスカ州リンカーンで現地生産に入り、仕様も価格も顧客が決める受注生産の会社のなかに、カタログとブランドで売る商売が一つだけ立ち上がった。
含意
1983年には米国販売会社が債務超過に陥り、本社は118億2800万円の特別損失で無配へ転落した。それでも二輪車は「あのカワサキ」として社名を消費者へ届ける唯一の事業となり、二輪出身の社長が全社方針を語るまでになったが、事業自体は2021年10月にカワサキモータースへ承継された。
筆者の見解

勝てる場所を選ぶ前に、勝てない場所を降りている

原付第一種の国内シェア0.09%という数字は、国内の二輪車市場に川崎が事実上いなかったことを示している。国内販売の72%を占める帯を持たないまま中・大型車だけで会社の顔をつくるには、その帯が厚い場所へ出るほかなかった。1966年に米国へ販売会社を置いた選択は、勝てる場所を選んだというより、勝てない場所を降りたところから始まっている。輸出比率が8割を超える構造は、その裏返しであったとみられる。

ただ、降りた先が安全だったわけではない。1983年にKMCは資本金を上回る債務超過に陥り、本社は118億2800万円の特別損失で無配へ落ちた。在庫を月ごとに報告させてすらいなかったという事実は、遠い市場に賭けることが、売り方だけでなく見張り方まで作り替える仕事であったことを示している。「ああ、あのカワサキですか」と言われる会社になるまでに、そこからさらに6年かかった。重工業の会社が消費者に顔を持つ代償は、決して小さくなかったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

航空機を禁じられた会社の民需転換

1945年8月の終戦とともに航空機の生産は禁じられた。川崎航空機工業の総務部長であった砂野仁氏は、航空機がつくれない以上この会社に存続の意義はないとして、親会社である川崎重工業の幹部の間で解散論が持ち上がったと後年に記している。若手幹部の再建論に押されて会社は残り、従業員は約3,000名まで減って焼け残った設備と資材の整備に当たった。1946年5月に川崎産業へ社名を改め、航空機で鍛えた技術を民需品へ振り向けるところから再建が始まった[1]

民需への転換は明石の工場から広がった。自動車用の歯車に始まり、紡糸ポンプから化合繊機械、ガス機器、小型エンジンへと品目が増え、そのなかにモーターバイクとエンジンがあった。1963年4月には製品別の事業部制を敷き、航空機・単車・発動機・機械・自動車の五事業部が並んだ。1968年の記録では、川崎航空機工業はオートバイのメーカーとして日本最大の車種を揃えるまでになっていた[2]

国内市場に居場所がなかった二輪車

もっとも、国内の二輪車市場で川崎の位置は低かった。1988年の国内販売台数175万台のうち72%は排気量50cc以下の原付第一種で、この帯を手がけない川崎の原付第一種シェアは0.09%にとどまった。中・大型バイクでは12.7%を占めながら、二輪車全体に占めるシェアは2.6%という極端に小さい数字になった。本田技研工業・ヤマハ発動機・鈴木自動車工業の3社が国内販売の7割以上を原付第一種に頼るなかで、川崎は8割以上を中・大型車が占めていた[3]

販売網の差はさらに大きかった。全国におよそ3万ある二輪車販売店のうち、本田技研工業が2万店、ヤマハ発動機が1万4000店を押さえたのに対し、川崎の販売店は1100店に届かず、桁が一つ違った。量産品である原付を数で押す競争に入れば、店の数がそのまま結果を分けることになる。国内で正面から戦う条件は、当時の川崎に揃っていなかった[4]

決断

国内ではなく、米国に売り先を置く

1966年3月、川崎航空機工業は米国に American Kawasaki Motorcycle Corp. を設立した。のちの Kawasaki Motors Corp., U.S.A. にあたる販売会社で、国内で原付を追う代わりに、中・大型車の需要が厚い米国へ販売の足場を先に置く形になった。この二輪車事業は、1969年4月に川崎重工業が川崎航空機工業と川崎車輌を合併したことで、総合重工業の一部門へ移った[5]

この選択は、輸出に大きく傾いた事業構造をつくった。中・大型バイクは米国をはじめ海外の需要が多く、川崎の二輪車戦略は必然的に海外中心へ動いて、輸出比率は8割を超えた。現地の仕事を担ったのは若い技術者であった。1958年に川崎航空機工業へ入った田崎雅元氏は、29歳であった1965年につなぎの作業服と工具箱を携えて渡米し、シカゴに二輪車の部品・サービスセンターを立ち上げている[6][7]

カタログとブランドで売る商売への踏み込み

重機の商売は、仕様も納期も値段も一切を顧客が決め、それに生産技術力でコスト面から応じるものであった。これに対し二輪車を中心とする汎用機はカタログ商売で、ブランド力を含む商品力と市場を見る目、世界に張った販売・サービス網がものを言う。同じ会社のなかに、受注生産とはまったく性格の異なる商売が一つだけ立ち上がった。米国に販売会社を置くという判断は、この違いを社外で引き受けることでもあった[8]

商品でも他社の主流を外す選び方をした。大型車で400ccが流行しているときに550ccを出し、2気筒エンジンが主流のときに3気筒を出す——技術面では常に先んじてきたという自負を、CP事業本部長の高橋鐵郎常務は語っている。1981年12月には Kawasaki Motors Manufacturing Corp., U.S.A. を設け、ネブラスカ州リンカーンで現地生産に入った。売るだけでなくつくる場所まで米国へ移し、進出は後戻りのきかない段階に入った[9][10]

結果

1983年、米国販売会社の債務超過

先行した国際化は、1983年に手ひどい形で跳ね返った。米国販売会社カワサキ・モーターズ・コーポレーション(KMC)は、不況による需要減と高金利で得意の大型オートバイの売れ行きを落とし、そこへ本田技研工業とヤマハ発動機の販売合戦の余波が重なった。残ったのは在庫の山と値引き合戦であった。KMC社長の田崎雅元氏は、この2、3年やってきたことといえば銀行に金利を払うことだけだった、と述べている[11]

1982年12月期にKMCの累積赤字は資本金4299万ドルを上回り、債務超過に陥った。川崎重工業は1983年3月期に子会社等投融資損失として118億2800万円の特別損失を計上し、経常利益23億3800万円の黒字が最終60億円近い赤字へ転じて無配となった。長谷川謙浩社長は、思い切って一気にウミを出したと語っている。同社はそれまで在庫を月ごとに報告させておらず、小型車や東南アジア市場へ戦線を広げた結果、肝心の大型車と米国市場が手薄になっていた[12][13]

消費財ブランドとしての定着と、その後

立て直しは、国内市場の作り直しと重なった。造船不況と円高が続くなかで川崎重工業は1987年に全社でおよそ4,000名の人員削減に踏み切り、二輪車部門でも約500名を減らして2,000名体制とし、1988年度にようやく黒字へ戻した。1989年4月に発売した400cc「ゼファー」は、風防付きの高性能車が主流のなかでエンジンをむき出しにした車体で、目標3,000台に対し初年に7,000台、1991年には1万7000台を売った[14][15]

1989年1月から6月までの自動二輪車(251cc以上)の国内登録台数で、川崎重工業は1万2500台とヤマハ発動機を抜き、9年ぶりに国内2位へ戻った。それ以上に効いたのは、社名が消費者に通じたことであった。大庭浩社長は、会社の説明を尽くしても伝わらない相手が、二輪車を持ち出した途端に「ああ、あのカワサキですか」と理解したと述べ、90カ国へ供給する二輪車という、エンドユーザーに直結した部門を持つ意味を語っている[16][17]

二輪車の商売の型は、やがて全社の方針として語られるようになった。二輪車部門を経て社長になった最初の人物は1987年6月に就いた大庭浩氏で、2000年6月には二輪車事業の生え抜きとして田崎雅元氏が社長へ就き、受注型企業から提案型企業への転換を全社員に説いた。もっとも事業としての安定は続かず、2021年3月期はモーターサイクル&エンジン部門も赤字へ転落する見通しとなり、同年10月に同事業はカワサキモータース株式会社へ承継された[18][19][20]

出典・参考
  • 川崎重工業 有価証券報告書【沿革】
  • 日経ビジネス 1983年8月8日号「リポート 海外でほころび目立つ“国際派”企業。現地経営の不振が本社の屋台骨揺るがす 川崎重工業、赤井電機、ソニー、パイオニア」
  • 日経ビジネス 1989年7月31日号「企業戦略 川崎重工業、二輪車で猛ダッシュ 名門復活の牽引車になるか」
  • 日経ビジネス 1992年5月18日号「リストラ 川崎重工業 原点回帰のバイク快走 買い取り制定着に好循環」
  • 週刊東洋経済 2000年9月2日号「[トップの履歴書]川崎重工業社長 田崎雅元 二輪車の文化生かし“柔”工業への進化を」
  • 週刊東洋経済 2021年1月23日号「【第1特集 製造立国の岐路】PART2 川崎重工業 新社長が矢継ぎ早の大変革」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「川崎航空機工業」
  • 私の履歴書 経済人12「砂野仁」(日本経済新聞社, 1980)

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