原付第一種の国内シェア0.09%という数字は、国内の二輪車市場に川崎が事実上いなかったことを示している。国内販売の72%を占める帯を持たないまま中・大型車だけで会社の顔をつくるには、その帯が厚い場所へ出るほかなかった。1966年に米国へ販売会社を設立した選択は、競争優位を築ける場所を選んだというより、競争優位を築けない場所を降りたところから始まっている。輸出比率が8割を超える構造は、その裏返しであったと思われる。
ただ、降りた先が安全だったわけではない。1983年にKMCは資本金を上回る債務超過に陥り、本社は118億2800万円の特別損失で無配へ転落した。在庫を月ごとに報告させてすらいなかったという事実は、遠い市場に経営資源を集中することが、売り方だけでなく見張り方まで作り替える仕事であったことを示している。『ああ、あのカワサキですか』と言われる会社になるまでに、そこからさらに6年かかった。重工業の会社が消費者に顔を持つ代償は、決して小さくなかったといえる。