江崎グリコ栄養菓子の一本足からアイス・チョコ・ガム・カレーへ広げた総合食品化
栄養菓子の看板をどこまで伸ばせるか——上場を機に問われた品目の広げ方
- 概要
- 大阪証券取引所への上場を果たした江崎グリコが、1957年のアイスクリームを皮切りに、チョコレート、チューインガム、カレーへと4年のうちに製造品目を広げ、菓子・冷菓・食品を束ねる総合食品会社の骨格を作った経営判断。
- 背景
- 栄養菓子グリコとビスコの二本柱で戦後の復興を果たし、1953年の株式公開と1954年の大証上場で資本市場から資金を調達できる会社になった。一方、菓子は嗜好品であり、栄養で社会に奉仕するという創業以来の理念を広げる先として、菓子以外の食品が視野に入っていた。
- 内容
- 1957年にアイスクリーム、1958年にチョコレート、1960年4月にチューインガム、同年9月にカレーの製造販売を相次いで始めた。1961年5月には東京証券取引所にも上場し、各地の農家と組んで設けた乳業会社は1966年にグリコ協同乳業として7社が一つになった。
- 含意
- 品目は広がったが、稼ぎ頭は菓子に残った。1970年代半ばの江崎グリコは菓子部門が売上高の9割超を占め、生産品種を約30種に絞る少品種大量生産へ向かう。広げた品目を絞り直す作業が、次の10年の主題になった。
広げることと絞ることは、同じ理念の両面だったか
この時期の品目拡大は、市場の伸びに乗るための業容拡大というより、栄養で社会に奉仕するという創業の理念をどこまで運べるかという試みだったとみることができる。薬ではなく健康な人の食品を作るという最初の選択があったからこそ、菓子の外にあるカレーや牛乳も同じ理屈の内側に置けた。逆に言えば、扱う商品を決めていたのは市場調査でも競合分析でもなく、創業者が持っていた一つの物差しであった。この一貫性は強みでもあり、拡大の歯止めを効きにくくする要因でもあったとみられる。
実際、4年で並べた品目は財務の負担として跳ね返り、1960年代半ばには売上債権と借入金の膨張として表面化する。江崎グリコはそこで、広げた品目のうち売れるものだけを残す作業に入った。広げることと絞ることを短い間隔で続けたこの往復は、品目数そのものより、どの商品を自社の設備と広告で作り込めるかを基準に置いていた点に特徴がうかがえる。総合食品会社を名乗りながら、実態は少数の商品に資源を集めた会社であり続けた事実は、多角化という言葉が示す像とは少しずれている。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
栄養菓子の二本柱で戦後を立て直した会社
江崎グリコは、牡蠣の煮汁に含まれるグリコーゲンを菓子に混ぜるという着想から生まれた会社である。創業者の江崎利一氏は1921年に大阪で合名会社江崎商店を興し、翌1922年に大阪の三越で栄養菓子グリコを売り出した。1933年には酵母を配合したビスケットのビスコを世に出し、これを第二の創業と呼んで従業員に創業の苦労を語り継がせた。太平洋戦争の末期に東京・大阪の工場をいずれもほぼ焼失したのちも、全国の消費者に刻まれたグリコの信用は焼けていないとして再建に着手し、資本金は終戦時の250万円から1951年に1000万円まで増えた[1][2]。
復興を終えた江崎グリコは、資本市場からの調達に踏み込んだ。1953年に九州工場を新設するとともに大阪の店頭で株式を公開し、翌1954年3月には大阪証券取引所へ株式を上場した。栄養菓子一本で始めた個人商店が、創業から30年余りで公開企業になった。設備投資と品目拡大の原資を外部から集められる会社になったことが、その後の品目拡大の前提になった[3]。
栄養で社会に奉仕するという創業の理念
品目を広げる方向を決めたのは、江崎利一氏が創業前に立てた理念であった。牡蠣のエキスから取れたグリコーゲンは栄養剤として効くが、薬として病人向けにすれば2割の人にしか使ってもらえない、残り8割の健康な人に広げたほうが意義があると気づいて菓子事業に乗り出した、と江崎利一氏はのちに語っている。健康な人の体位を高める食品という位置に商品を置いた以上、その受け皿は菓子だけに限られない。社是に栄養報国を掲げ、すべての製品をこの社是に基づいて作り売るという方針が、菓子から食品全般へ品目を伸ばす理屈になった[4]。
もう一つの土台は、菓子メーカーには珍しい製菓機械の開発設計部門であった。江崎グリコは独創的な商品を出そうとすれば生産設備そのものの開発に乗り出さざるをえないという考えから、製造機械をほとんど自社で作ってきた。江崎利一氏は、グリコの機械は機械屋に聞いても世界一で欧米にもないと言われる、と述べている。他社が模倣するまでの時間を稼ぎ、生産効率の高い設備で競争力の差をつけるこの仕組みは、冷菓やチョコレートといった性格の異なる品目へ移るときの支えになった[5][6]。
決断
4年で並べたアイス・チョコ・ガム・カレー
上場の3年後、江崎グリコは菓子の枠を越える動きに入った。1957年3月にアイスクリームの製造販売を始め、翌1958年2月にはチョコレートの製造販売に乗り出した。冷菓は季節と流通が菓子と大きく異なり、チョコレートはカカオ豆の調達と温度管理を要する。いずれもそれまでのビスケット・キャラメル系の生産とは別の設備と販路を必要とする品目であり、栄養菓子の会社が扱う商品の幅はこの2年で一段広がった[7]。
続く1960年に、品目の広がりは菓子の外へ出た。同年4月にチューインガムの製造販売を始め、9月にはカレーの製造販売を開始した。カレーは菓子でも冷菓でもなく、食卓に並ぶ加工食品である。栄養菓子から出発した会社が、菓子・冷菓・食品の三つを並べる構えを取ったのがこの年であった。翌1961年5月には東京証券取引所にも株式を上場し、関西発祥の製菓会社は全国の資本市場に姿を現した[8]。
乳業への進出と原料の内製
品目の拡大は、原料の側にも及んだ。江崎グリコは動物性たんぱく質の供給と自社製菓への原料確保をねらい、各地の農家と組んで乳業会社を設けた。牛乳・乳製品はアイスクリームとチョコレートの双方に欠かせない原料であり、外部からの調達に頼るかぎり、冷菓と洋菓子の生産量は仕入先の都合に縛られる。乳業への進出は、新しく手がけた品目を支えるための後方の投資にあたる[9]。
各地に散らばった乳業会社は、1966年10月に7社が合併してグリコ協同乳業となった。牛乳・乳製品は、菓子・冷菓と並ぶ事業の柱に据えられた。1957年のアイスクリームから数えて10年足らずのうちに、江崎グリコの事業構成は栄養菓子とビスケットの二本柱から、冷菓・チョコレート・ガム・カレー・乳製品を含む多品目の構えへ移った。手を汚さずに食べられる棒状の菓子群も、この総合食品化の時期に育った[10]。
結果
広がった品目と、菓子に残った稼ぎ頭
品目は増えたが、収益の中心は菓子から動かなかった。1970年代半ばの江崎グリコでは、菓子部門が売上高の90%以上を占めていた。生産品種は約30種で、100種以上を並べる明治製菓・森永製菓の3分の1から4分の1にとどまる。多角化で扱う商品は広がる一方、実際に稼ぐ商品はごく限られた品種に集まっていた。広げた品目のうちどれを残すかという問いは、1965年前後の減量経営で正面から扱われることになる[11]。
残った品種の中身は、この時期に手がけた新しい品目と結びついていた。アーモンドを菓子に使ったのは江崎グリコが最初だと江崎利一氏は語っており、その延長にあるアーモンドチョコレートは同社がもっとも得意とする商品となった。棒状ビスケットのプリッツ、それにチョコレートをかけたポッキー、チョコレートで絵を描いたペロッティといった商品も相次いで生まれた。1958年に始めたチョコレートの生産が、のちに海外生産の主力となるポッキーの母体になった[12][13]。
- 日本経済新聞「私の履歴書」江崎利一(1963年)
- 日経ビジネス 1976年2月2日号「江崎グリコ」ケーススタディ
- 日経ビジネス 1977年5月9日号「頭はいくら使っても減らない」江崎利一(江崎グリコ会長)インタビュー
- 江崎グリコ 有価証券報告書【沿革】