森永製菓の出発は、1899年8月に森永太一郎氏が東京・赤坂溜池の二坪の職場に構えた森永西洋菓子製造所[1]である。太一郎氏は滞米11年で洋菓子製造法を修得して帰国し[2]、創業の8カ月後に溜池表通り、3年後に赤坂田町へ移った[3]。当時の日本の菓子は見た目の形が整っていればよい家内工業の域を出ておらず[4]、太一郎氏は原料の配合に細心の注意を払い、嗜好品にすぎなかった菓子に栄養価を持たせた『子供のための菓子』を安く量産する道[5]を選んだ。創業の年の暮れには日本で最初のキャラメルを作った[6]。1904年には衛生に配慮して業界に先駆けて従業員の制服を採用[7]し、1905年にはエンゼルマークを商標登録[8]した。
1905年1月には松崎半三郎氏が支配人として入店して経営全般を担い[9]、森永・松崎のコンビが生まれた。1907年には芝田町へ新工場を建てて移り、翌1908年には大阪支店を設けた[10]。1910年2月には資本金30万円で株式会社森永商店を設立して森永太一郎氏が社長に就き、同年4月には資本金を50万円へ引き上げた[11]。1912年11月には森永製菓へ改称[12]し、翌1913年にミルクキャラメルを発売した[13]。キャラメルはばら売りが常識の時代だったため、1914年3月に出したポケット用の紙サック入りが人気を呼び[14]、森永の名を一挙に広げた。
1915年にはビスケットを輸出向けに作りはじめ[15]、1918年9月には芝田町工場にチョコレート製造機械を据えて翌10月から国産第1号のミルクチョコレート[16]を売り出した[17]。1919年にはミルクココアを発売し、同じ年に業界へ先駆けて8時間労働制を敷いた[18]。1920年7月には日本煉乳を合併して三島工場を引き継いだ[19]。販路は内地のほか中国・朝鮮・満州・南洋・インドへ伸び、工場設備の拡張が避けられない状態[20]になった。その準備として松崎半三郎氏は1918年と1921年に米国および欧州各国の業界を視察し、各種の新式機械を輸入して帰った[21]。
輸入した機械により鶴見・塚口の両工場が完成し、1925年6月には塚口に続いて鶴見工場が開かれて最新設備による菓子の量産に入った[22]。設備購入のため資本金は1923年5月に300万円、1924年5月には払込600万円を含む1500万円へ増えた[23]。1923年3月には自社品の販売会社である森永製品販売を設立し、以降は全国各地に同名の販売会社を置いた[24]。同年5月にはビスケットの大量生産を始め、新築の丸ビルへ森永キャンデーストアを開いて森永商事を設立した[25]。同年9月の関東大震災ではミルクと菓子類を大量に放出して罹災者へ提供し[26]、1928年には販売網として森永ベルトラインストアーを整えた[27]。
拡張の代償は1930年の金解禁の後に表れ、財界の不況が深刻となるなかで設備の拡張で増えた生産を消化することができず、経営は難局に直面した[28]。1931年9月期から1932年上期までの3期は無配となり、1933年8月には半額減資して資本金を750万円とし、同じ年の3月期からようやく6分の配当を復活した[29]。減資の後に事業は次第に安定へ向かったが、そこへ戦時体制の強化が続いた[30]。1923年にはマリーを[31]、1931年9月には森永チューインガム・タップガムを発売した[32]。1935年4月には森永太一郎氏と名コンビをうたわれた松崎半三郎氏が二代目社長に就いた[33]。
1937年には日本に母の日を広めた『森永母の日大会』を開いた[34]が、その後は戦時体制の強化で商いの自由が失われた。1940年5月には砂糖の切符制度が始まり、同年10月には会社経理・銀行資金の運用・賃金のすべてが統制下に入った[35]。1941年6月には麦類の販売が国家管理となり、太平洋戦争へ突入すると原材料・動力・労力といった生産上の条件が軒並み制約された[36]。1942年10月には森永乳業・森永食品工業・東海製菓・森永関西牛乳の4社を合併し、中京工場と小山工場を引き継いだ[37]。1943年11月には社名も森永食糧工業へ改めた[38]。
戦争末期の1945年4月には鶴見工場が空襲で約6割を焼失した[39]。1946年には森永太平氏が三代目社長に就任し、経済統制の続くなかで、まず乳業部門から再出発した[40]。戦後は統制下の経営から自由経済への転換と戦争被害の復旧、生産力の復元に力を注ぎ、戦災を免れた塚口工場へまず応急の増産設備を入れた[41]。資本金は1948年9月に1520万円から5000万円へ、1949年10月の倍額増資で1億円まで引き上げた[42]。砂糖・水飴・小麦粉などの自由販売と一般消費力の回復もあって、業績は年を追って好転した[43]。
1949年の半年で、同社は4月に森永乳業を設立し、5月に東京・大阪・名古屋の各証券取引所へ上場、8月には販売部門を森永商事として独立させ、10月に乳業部門を森永乳業へ譲渡したうえで社名を森永製菓へ戻した[44]。1943年に強制された社名を6年ぶりに戻したことになる。独立した森永商事は全国主要都市に支店・出張所を80カ所設け、製品一切の販売にあたった[45]。菓子事業へ経営資源を絞り込んだこの判断は、三代目・森永太平社長のもとで実行された[46]。社名の復旧はキャラメルの自由販売の許可と重なり、同社は量産と量販に努めた[47]。
菓子の自由販売が許された1949年9月期の総売上高24億円は、1955年3月期には71億円余へ伸びた[48]。米・英・独・仏・スイスから最新式機械を輸入し、キャラメル・チョコレート・ビスケット・ドロップの4大製品で業界第一位の実力を確立した[49]。この設備拡張に投じた資金は15億円[50]に達した。1952年7月には鶴見工場へキャラメルの一貫製造設備を新設し[51]、1954年7月には売店部門を分離して森永キャンデーストアを設立した[52]。資本金も1952年3月の無償増資で2億円、1953年10月に5億円、1955年10月の無償増資で7億5000万円まで積み増した[53]。
売場の定番は1950年代から60年代にかけて出そろい、1953年4月には銀座に地球型のネオン塔を掲げた[54]。1956年には冷菓事業、1957年にはホットケーキミックスへ広げた[55]。1960年4月には三島工場が稼働してインスタント食品部門を拡充し、1963年10月の増資で資本金は30億円となり[56]、翌1964年にはハイクラウン・チョコレートを発売した[57]。1961年12月には台湾製菓股份有限公司と資本提携し、1962年から台湾での製造を始めた[58]。1965年3月には大和食品を、同年8月には米国ゼネラルミルズとの合弁で森永ゼネラルミルズを設立した[59]。
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|---|---|---|---|---|
| 1899〜1936年米国仕込みの量産技術を移した創業と、設備拡張が招いた3期無配 | 「森永商店」設立 | ★ | ||
| 「森永製菓」に商号変更 | ★ | |||
| 日本煉乳を合併(これにより三島工場を承継) | ★ | |||
| 自社品販売会社森永製品販売設立(以降全国各地に設立) | ★★ | |||
| 1937〜1965年戦時統制で失った菓子と、乳業を切り離して菓子専業へ戻した1949年 | 森永乳業・森永食品工業・東海製菓・森永関西牛乳を合併 | ★ | ||
| 「森永食糧工業」に商号変更 | ★ | |||
| 森永太平 | 森永乳業設立 | ★★ | ||
| 森永太平 | 東京・大阪・名古屋証券取引所に上場 | ★ | ||
| 森永太平 | 乳業部門の分離による「菓子専業」への絞り込み 1949年、戦時に『森永食糧工業』へ改称していた同社は、4月に乳業部門を森永乳業として新設分離し、5月に東京・大阪・名古屋の3証券取引所へ上場、8月に商事部門を分離、10月に乳業を森永乳業へ譲渡して社名を『森永製菓株式会社』へ復した。半年のうちに会社分割・再上場・社名復元を畳みかけ、経営資源を菓子事業へ絞り込んだ判断であった。三代目・森永太平社長のもとで実行された。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 森永太平 | 「森永製菓」に復称 | ★ | ||
| 森永太平 | 売店部門を分離し森永キャンデーストアを設立 | ★ | ||
| 森永太平 | 台湾製菓股份有限公司と資本提携 | ★ | ||
| 森永太平 | 大和食品を設立 | ★ | ||
| 森永太平 | ゼネラルミルズとの合弁で森永ゼネラルミルズを設立 | ★★ | ||
| 1966〜1987年400種まで膨らんだ品種と、戦後初の赤字・脅迫事件が迫った作り直し | 森永太平 | 森永商事(旧)を合併 | ★ | |
| 森永太平 | 森永開発を設立 | ★ | ||
| 森永太平 | 森和商事を設立 | ★ | ||
| 稲生平八 | 森永デザートを設立 | ★ | ||
| 松崎昭雄 | 小山新工場が竣工 | ★ | ||
| 1988〜2025年ぬ〜ぼ〜とinゼリーで作り直した稼ぎ方と、持ち合い解消・海外への振り向け | 森永剛太 | 菓子事業の社内分社と「エンゼルの森」構想の見直し 1996年12月から1997年にかけて、森永製菓が菓子事業本部を5つの独立採算の事業単位『森永ビジネスユニット』へ分け、現場への権限委譲と本業集中で立て直しを図った組織改革。1997年3月期に11年ぶりの無配へ転落した経営責任をとって松崎昭雄社長が会長へ退き、創業者・森永太一郎氏の孫にあたる森永剛太専務が社長に就いて改革を主導した。バブル期に構想した理想都市『エンゼルの森』は、この過程で新規投資を止め、1999年に開発事業から撤退した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 森永剛太 | 森永開発を合併 | ★ | ||
| 森永剛太 | レストラン森永より営業権を譲り受け、エンゼルフードシステムズを設立 | ★ | ||
| 森永剛太 | 摩利哪呷(上海)食品有限公司を設立 | ★ | ||
| 森永剛太 | エンゼルフードシステムズの株式を譲渡 | ★ | ||
| 矢田雅之 | ディユーアソシエイツを子会社化 | ★ | ||
| 矢田雅之 | 米国森永製菓を設立 | ★★ | ||
| 矢田雅之 | 森永食品(浙江)有限公司を設立 | ★ | ||
| 新井徹 | 塚口工場閉鎖 | ★ | ||
| 新井徹 | 森永キノインドネシアを設立 | ★ | ||
| 新井徹 | 森永キノインドネシアの株式を譲渡 | ★ | ||
| 新井徹 | 森永アジアパシフィックを設立 | ★ | ||
| 太田栄二郎 | 森永スナック食品を合併 | ★ | ||
| 太田栄二郎 | 森永乳業株の政策保有縮減と、プライム移行に合わせたガバナンス改革 2022年2月28日、森永製菓が保有する森永乳業の普通株式430万株を売却すると発表し、翌3月1日、森永乳業が立会外買付取引(ToSTNeT-3)で1株5,760円・総額約247億円の自己株式として買い取った経営判断。太田栄二郎社長のもと、2022年4月の東証プライム市場移行を控えて政策保有株を縮減し、資本効率とガバナンスの説明責任を高める資本政策の一環であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 太田栄二郎 | プライム市場に移行 | ★ |
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事実根拠:出所(森永製菓)