森永製菓 の歴史

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創業 1899年
創業者 森永太一郎
創業地 東京都赤坂
創業
1899年8月、森永太一郎氏が東京・赤坂溜池の二坪の職場に森永西洋菓子製造所を創業した。滞米11年で洋菓子製造法を修得しての帰国で、当時の日本の菓子は見た目の形が整っていればよい家内工業の域を出ておらず、原料の配合を管理して栄養価を持たせた菓子を安く量産する道を選んでいる。1905年にエンゼルマークを商標登録し、1910年2月に資本金30万円の株式会社森永商店を設立、1912年11月に森永製菓へ改称した。1913年のミルクキャラメルは、ばら売りが常識だった売り方を1914年3月のポケット用紙サックで変えて広まる。ただし販路が中国・朝鮮・南洋まで伸びた勢いで欧米から買い入れた新式機械の代金は重く、拡張の代償は10年後に表れた。
決断
拡張のたびに無配へ落ち、そのたびに規模を半分へ戻してきた。1925年に鶴見・塚口の両工場を新設して資本金を1,500万円まで積み増したものの、1930年の金解禁後の不況で増えた生産を消化できず、1931年9月期から3期を無配とし、1933年8月に半額減資して資本金を750万円としている。1979年3月期には戦後初となる経常損失8億8,700万円を出し、400種あった品目を200種へ、7工場を5工場へ減らし、900人以上が希望退職に応じた。1997年3月期の11年ぶりの無配も同じ順序をたどり、1996年12月に菓子事業本部を5つの独立採算ユニットへ分け、1999年には三重県で構想した総事業費3,500億円の『エンゼルの森』から撤退する。新製品ではなく、抱えた品目と土地を手放す決定が、三度とも黒字を回復させた。
現況
セグメント利益の9割超は、菓子と健康食品を作る一つの事業から出ている。2026年3月期の連結売上高は2,367億円、営業利益224億円。食料品製造が売上2,252億円・セグメント利益223億円を占め、食料卸売は88億円・7億円、不動産及びサービスは19億円・9億円にとどまる。地域別の売上は日本2,056億円に対し米国191億円・その他119億円である。1994年に発売したinゼリーは1983年に始めた健康事業の延長にあり、2015年から米国で製造を始めたHI-CHEWは海外売上高が日本を上回る規模になった。1979年に半減させた品目のうち生き残った定番と、その後に加えた健康食品が、現在の食料品製造の売上を作っている。
競合
切り離した相手と73年間資本でつながり、2022年にそれを解いた。1949年に乳業部門を森永乳業として新設分離し、4月の新設分離・5月の東京大阪名古屋3市場への上場・10月の社名復称を半年で終えている。以後も両社は株式を持ち合い、2022年3月1日に森永乳業が1株5,760円・総額約247億円の立会外買付取引で自己株式として取得したことで、森永製菓の保有比率は約12.7%から約4.0%へ下がった。ビフィズス菌の商品で独自の領域を開拓した森永乳業は菓子とは別の市場で伸び、森永製菓は菓子と健康食品だけを残した。乳業を分離した73年後に資本の縁まで解いたことが、2026年3月期に営業利益率9.5%を出す構成を残している。
森永製菓:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 米国仕込みの量産技術を移した創業と、設備拡張が招いた3期無配 (1899年〜)

二坪の職場から芝田町・大阪へ広げた洋菓子の量産

森永製菓の出発は、1899年8月に森永太一郎氏が東京・赤坂溜池の二坪の職場に構えた森永西洋菓子製造所[1]である。太一郎氏は滞米11年で洋菓子製造法を修得して帰国し[2]、創業の8カ月後に溜池表通り、3年後に赤坂田町へ移った[3]。当時の日本の菓子は見た目の形が整っていればよい家内工業の域を出ておらず[4]、太一郎氏は原料の配合に細心の注意を払い、嗜好品にすぎなかった菓子に栄養価を持たせた『子供のための菓子』を安く量産する道[5]を選んだ。創業の年の暮れには日本で最初のキャラメルを作った[6]。1904年には衛生に配慮して業界に先駆けて従業員の制服を採用[7]し、1905年にはエンゼルマークを商標登録[8]した。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [1]1899年8月 森永太一郎が東京・赤坂溜池の二坪の職場で森永西洋菓子製造所を創業
    • [2]森永太一郎 滞米11年で洋菓子製造法を修得して帰国
    • [3]創業8カ月後に溜池表通りへ、3年後に赤坂田町へ移転
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [4]当時の日本の菓子工業は家内工業の域を出ず、見た目の形が整っていればよいとされた
    • [5]菓子の栄養価を高め「子供のための菓子」を安価に量産する方針
    • [6]1899年末 日本で最初のキャラメルを製造
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [7]1904年 衛生に配慮し業界に先駆けて従業員の制服を採用
    • [8]1905年 エンゼルマークを商標登録

1905年1月には松崎半三郎氏が支配人として入店して経営全般を担い[9]、森永・松崎のコンビが生まれた。1907年には芝田町へ新工場を建てて移り、翌1908年には大阪支店を設けた[10]。1910年2月には資本金30万円で株式会社森永商店を設立して森永太一郎氏が社長に就き、同年4月には資本金を50万円へ引き上げた[11]。1912年11月には森永製菓へ改称[12]し、翌1913年にミルクキャラメルを発売した[13]。キャラメルはばら売りが常識の時代だったため、1914年3月に出したポケット用の紙サック入りが人気を呼び[14]、森永の名を一挙に広げた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [9]1905年1月 松崎半三郎が支配人として入店し経営全般を担当
    • [10]1907年 芝田町に新工場を建設して移転、1908年 大阪支店開設
    • [11]1910年2月 資本金30万円で株式会社森永商店を設立、社長 森永太一郎。同年4月 資本金50万円
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1912年11月 森永製菓へ商号変更
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [13]1913年 ミルクキャラメル発売
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [14]1914年3月 ミルクキャラメル・ポケット用を発表、ばら売りが常識の時代に紙サックの新型が人気

1915年にはビスケットを輸出向けに作りはじめ[15]、1918年9月には芝田町工場にチョコレート製造機械を据えて翌10月から国産第1号のミルクチョコレート[16]を売り出した[17]。1919年にはミルクココアを発売し、同じ年に業界へ先駆けて8時間労働制を敷いた[18]。1920年7月には日本煉乳を合併して三島工場を引き継いだ[19]。販路は内地のほか中国・朝鮮・満州・南洋・インドへ伸び、工場設備の拡張が避けられない状態[20]になった。その準備として松崎半三郎氏は1918年と1921年に米国および欧州各国の業界を視察し、各種の新式機械を輸入して帰った[21]

  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [15]1915年 ビスケットを輸出向けに製造開始
    • [16]1918年 国産第1号ミルクチョコレート発売
    • [18]1919年 ミルクココア発売・業界に先駆けて8時間労働制を導入
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [17]1918年9月 芝田町工場にチョコレート製造機械を設置、10月からミルクチョコレート発売
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [19]1920年7月 日本煉乳を合併し三島工場を承継
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [20]販路は内地のほか中国・朝鮮・満州・南洋・インドへ拡大、工場設備の拡張が必要に
    • [21]松崎半三郎が1918年・1921年に米国・欧州の業界を視察し新式機械を輸入
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [1]1899年8月 森永太一郎が東京・赤坂溜池の二坪の職場で森永西洋菓子製造所を創業
    • [2]森永太一郎 滞米11年で洋菓子製造法を修得して帰国
    • [3]創業8カ月後に溜池表通りへ、3年後に赤坂田町へ移転
    • [9]1905年1月 松崎半三郎が支配人として入店し経営全般を担当
    • [10]1907年 芝田町に新工場を建設して移転、1908年 大阪支店開設
    • [11]1910年2月 資本金30万円で株式会社森永商店を設立、社長 森永太一郎。同年4月 資本金50万円
    • [20]販路は内地のほか中国・朝鮮・満州・南洋・インドへ拡大、工場設備の拡張が必要に
    • [21]松崎半三郎が1918年・1921年に米国・欧州の業界を視察し新式機械を輸入
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [4]当時の日本の菓子工業は家内工業の域を出ず、見た目の形が整っていればよいとされた
    • [5]菓子の栄養価を高め「子供のための菓子」を安価に量産する方針
    • [6]1899年末 日本で最初のキャラメルを製造
    • [14]1914年3月 ミルクキャラメル・ポケット用を発表、ばら売りが常識の時代に紙サックの新型が人気
    • [17]1918年9月 芝田町工場にチョコレート製造機械を設置、10月からミルクチョコレート発売
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [7]1904年 衛生に配慮し業界に先駆けて従業員の制服を採用
    • [8]1905年 エンゼルマークを商標登録
    • [13]1913年 ミルクキャラメル発売
    • [15]1915年 ビスケットを輸出向けに製造開始
    • [16]1918年 国産第1号ミルクチョコレート発売
    • [18]1919年 ミルクココア発売・業界に先駆けて8時間労働制を導入
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1912年11月 森永製菓へ商号変更
    • [19]1920年7月 日本煉乳を合併し三島工場を承継

欧米視察で入れた新式機械と、金解禁後の半額減資

輸入した機械により鶴見・塚口の両工場が完成し、1925年6月には塚口に続いて鶴見工場が開かれて最新設備による菓子の量産に入った[22]。設備購入のため資本金は1923年5月に300万円、1924年5月には払込600万円を含む1500万円へ増えた[23]。1923年3月には自社品の販売会社である森永製品販売を設立し、以降は全国各地に同名の販売会社を置いた[24]。同年5月にはビスケットの大量生産を始め、新築の丸ビルへ森永キャンデーストアを開いて森永商事を設立した[25]。同年9月の関東大震災ではミルクと菓子類を大量に放出して罹災者へ提供し[26]、1928年には販売網として森永ベルトラインストアーを整えた[27]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [22]1925年6月 塚口工場に続き鶴見工場を開設、最新設備で菓子の量産を開始
    • [25]1923年5月 ビスケットの大量生産開始、丸ビルに森永キャンデーストア開店、森永商事設立
    • [26]1923年9月 関東大震災でミルク・菓子類を大量放出し罹災者へ提供
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [23]設備購入のため資本金を1923年5月に300万円、1924年5月に1500万円(払込600万円)へ増資
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1923年3月 自社品販売会社 森永製品販売を設立(以降全国各地に設立)
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [27]1928年 森永ベルトラインストアー(販売網)を整備

拡張の代償は1930年の金解禁の後に表れ、財界の不況が深刻となるなかで設備の拡張で増えた生産を消化することができず、経営は難局に直面した[28]。1931年9月期から1932年上期までの3期は無配となり、1933年8月には半額減資して資本金を750万円とし、同じ年の3月期からようやく6分の配当を復活した[29]。減資の後に事業は次第に安定へ向かったが、そこへ戦時体制の強化が続いた[30]。1923年にはマリーを[31]、1931年9月には森永チューインガム・タップガムを発売した[32]。1935年4月には森永太一郎氏と名コンビをうたわれた松崎半三郎氏が二代目社長に就いた[33]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [28]1930年の金解禁以降の財界不況で、設備拡張による生産増加を消化できず経営が難局に直面
    • [29]1931年9月期から1932年上期まで3期無配、1933年8月に半額減資して資本金750万円、同年3月期から6分配当を復活
    • [30]減資後に事業は次第に安定へ向かったが戦時体制が強化された
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [31]1923年 マリー発売
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [32]1931年9月 森永チューインガム・タップガムを発表
    • [33]1935年4月 松崎半三郎が二代目社長に就任
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [22]1925年6月 塚口工場に続き鶴見工場を開設、最新設備で菓子の量産を開始
    • [25]1923年5月 ビスケットの大量生産開始、丸ビルに森永キャンデーストア開店、森永商事設立
    • [26]1923年9月 関東大震災でミルク・菓子類を大量放出し罹災者へ提供
    • [32]1931年9月 森永チューインガム・タップガムを発表
    • [33]1935年4月 松崎半三郎が二代目社長に就任
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [23]設備購入のため資本金を1923年5月に300万円、1924年5月に1500万円(払込600万円)へ増資
    • [28]1930年の金解禁以降の財界不況で、設備拡張による生産増加を消化できず経営が難局に直面
    • [29]1931年9月期から1932年上期まで3期無配、1933年8月に半額減資して資本金750万円、同年3月期から6分配当を復活
    • [30]減資後に事業は次第に安定へ向かったが戦時体制が強化された
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1923年3月 自社品販売会社 森永製品販売を設立(以降全国各地に設立)
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [27]1928年 森永ベルトラインストアー(販売網)を整備
    • [31]1923年 マリー発売

砂糖の切符制から森永食糧工業への改称、鶴見工場の焼失まで

1937年には日本に母の日を広めた『森永母の日大会』を開いた[34]が、その後は戦時体制の強化で商いの自由が失われた。1940年5月には砂糖の切符制度が始まり、同年10月には会社経理・銀行資金の運用・賃金のすべてが統制下に入った[35]。1941年6月には麦類の販売が国家管理となり、太平洋戦争へ突入すると原材料・動力・労力といった生産上の条件が軒並み制約された[36]。1942年10月には森永乳業・森永食品工業・東海製菓・森永関西牛乳の4社を合併し、中京工場と小山工場を引き継いだ[37]。1943年11月には社名も森永食糧工業へ改めた[38]

  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [34]1937年 日本に母の日を広めた「森永母の日大会」を開催
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [35]1940年5月 砂糖の切符制度開始、同年10月 会社経理・銀行資金運用・賃金が統制下に
    • [36]1941年6月 麦類の販売が国家管理となり、太平洋戦争突入で原材料・動力・労力が制約
    • [38]1943年11月 社名を森永食糧工業へ変更
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1942年10月 森永乳業・森永食品工業・東海製菓・森永関西牛乳を合併(中京工場・小山工場を承継)

戦争末期の1945年4月には鶴見工場が空襲で約6割を焼失した[39]。1946年には森永太平氏が三代目社長に就任し、経済統制の続くなかで、まず乳業部門から再出発した[40]。戦後は統制下の経営から自由経済への転換と戦争被害の復旧、生産力の復元に力を注ぎ、戦災を免れた塚口工場へまず応急の増産設備を入れた[41]。資本金は1948年9月に1520万円から5000万円へ、1949年10月の倍額増資で1億円まで引き上げた[42]。砂糖・水飴・小麦粉などの自由販売と一般消費力の回復もあって、業績は年を追って好転した[43]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [39]1945年4月 鶴見工場が空襲により約6割を焼失
    • [41]戦後は自由経済への転換・戦災復旧・生産力復元に取り組み、戦災を免れた塚口工場に応急増産設備を設置
    • [42]資本金 1948年9月に1520万円から5000万円へ、1949年10月の倍額増資で1億円
    • [43]砂糖・水飴・小麦粉等の自由販売と一般消費力の回復で業績が逐年好転
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [40]1946年 森永太平が三代目社長に就任(企業の歴史は6月、会社銀行八十年史は5月と記載)
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [34]1937年 日本に母の日を広めた「森永母の日大会」を開催
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [35]1940年5月 砂糖の切符制度開始、同年10月 会社経理・銀行資金運用・賃金が統制下に
    • [36]1941年6月 麦類の販売が国家管理となり、太平洋戦争突入で原材料・動力・労力が制約
    • [38]1943年11月 社名を森永食糧工業へ変更
    • [39]1945年4月 鶴見工場が空襲により約6割を焼失
    • [41]戦後は自由経済への転換・戦災復旧・生産力復元に取り組み、戦災を免れた塚口工場に応急増産設備を設置
    • [42]資本金 1948年9月に1520万円から5000万円へ、1949年10月の倍額増資で1億円
    • [43]砂糖・水飴・小麦粉等の自由販売と一般消費力の回復で業績が逐年好転
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [37]1942年10月 森永乳業・森永食品工業・東海製菓・森永関西牛乳を合併(中京工場・小山工場を承継)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [40]1946年 森永太平が三代目社長に就任(企業の歴史は6月、会社銀行八十年史は5月と記載)

半年で畳みかけた分離・上場・復称と、戦後の定番づくり

1949年の半年で、同社は4月に森永乳業を設立し、5月に東京・大阪・名古屋の各証券取引所へ上場、8月には販売部門を森永商事として独立させ、10月に乳業部門を森永乳業へ譲渡したうえで社名を森永製菓へ戻した[44]。1943年に強制された社名を6年ぶりに戻したことになる。独立した森永商事は全国主要都市に支店・出張所を80カ所設け、製品一切の販売にあたった[45]。菓子事業へ経営資源を絞り込んだこの判断は、三代目・森永太平社長のもとで実行された[46]。社名の復旧はキャラメルの自由販売の許可と重なり、同社は量産と量販に努めた[47]

  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1949年4月 森永乳業設立、5月 東京・大阪・名古屋証券取引所へ上場、10月 乳業部門を森永乳業へ譲渡し森永製菓へ復称
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [45]1949年8月 販売部門が森永商事として独立、全国主要都市に支店・出張所80カ所
    • [46]乳業分離は三代目社長 森永太平のもとで実行
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [47]社名復旧とキャラメル自由販売の許可が重なり量産量販に努めた

菓子の自由販売が許された1949年9月期の総売上高24億円は、1955年3月期には71億円余へ伸びた[48]。米・英・独・仏・スイスから最新式機械を輸入し、キャラメル・チョコレート・ビスケット・ドロップの4大製品で業界第一位の実力を確立した[49]。この設備拡張に投じた資金は15億円[50]に達した。1952年7月には鶴見工場へキャラメルの一貫製造設備を新設し[51]、1954年7月には売店部門を分離して森永キャンデーストアを設立した[52]。資本金も1952年3月の無償増資で2億円、1953年10月に5億円、1955年10月の無償増資で7億5000万円まで積み増した[53]

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [48]1949年9月期 総売上高24億円 → 1955年3月期 71億円余
    • [49]米・英・独・仏・スイスから最新式機械を輸入し、キャラメル・チョコレート・ビスケット・ドロップの4大製品で業界第一位
    • [50]設備拡張に投下した資金 15億円
    • [53]資本金 1952年3月無償増資で2億円→1953年10月5億円→1955年10月無償増資で7億5000万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [51]1952年7月 鶴見工場にキャラメル一貫製造設備を新設
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [52]1954年7月 売店部門を分離し森永キャンデーストアを設立

売場の定番は1950年代から60年代にかけて出そろい、1953年4月には銀座に地球型のネオン塔を掲げた[54]。1956年には冷菓事業、1957年にはホットケーキミックスへ広げた[55]。1960年4月には三島工場が稼働してインスタント食品部門を拡充し、1963年10月の増資で資本金は30億円となり[56]、翌1964年にはハイクラウン・チョコレートを発売した[57]。1961年12月には台湾製菓股份有限公司と資本提携し、1962年から台湾での製造を始めた[58]。1965年3月には大和食品を、同年8月には米国ゼネラルミルズとの合弁で森永ゼネラルミルズを設立した[59]

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [54]1953年4月 銀座に地球型ネオン塔
    • [56]1960年4月 三島工場が竣工稼働しインスタント食品部門を拡充、1963年10月の増資で資本金30億円
    • [57]1964年 ハイクラウン・チョコレートを発売
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [55]1956年 冷菓事業開始、1957年 ホットケーキミックス発売
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [58]1961年12月 台湾製菓股份有限公司と資本提携、1962年 台湾で製造開始
    • [59]1965年3月 大和食品設立、1965年8月 ゼネラルミルズとの合弁で森永ゼネラルミルズを設立
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1949年4月 森永乳業設立、5月 東京・大阪・名古屋証券取引所へ上場、10月 乳業部門を森永乳業へ譲渡し森永製菓へ復称
    • [52]1954年7月 売店部門を分離し森永キャンデーストアを設立
    • [58]1961年12月 台湾製菓股份有限公司と資本提携、1962年 台湾で製造開始
    • [59]1965年3月 大和食品設立、1965年8月 ゼネラルミルズとの合弁で森永ゼネラルミルズを設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
    • [45]1949年8月 販売部門が森永商事として独立、全国主要都市に支店・出張所80カ所
    • [46]乳業分離は三代目社長 森永太平のもとで実行
    • [48]1949年9月期 総売上高24億円 → 1955年3月期 71億円余
    • [49]米・英・独・仏・スイスから最新式機械を輸入し、キャラメル・チョコレート・ビスケット・ドロップの4大製品で業界第一位
    • [50]設備拡張に投下した資金 15億円
    • [53]資本金 1952年3月無償増資で2億円→1953年10月5億円→1955年10月無償増資で7億5000万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
    • [47]社名復旧とキャラメル自由販売の許可が重なり量産量販に努めた
    • [51]1952年7月 鶴見工場にキャラメル一貫製造設備を新設
    • [54]1953年4月 銀座に地球型ネオン塔
    • [56]1960年4月 三島工場が竣工稼働しインスタント食品部門を拡充、1963年10月の増資で資本金30億円
    • [57]1964年 ハイクラウン・チョコレートを発売
  • 森永製菓 統合報告書2025
    • [55]1956年 冷菓事業開始、1957年 ホットケーキミックス発売

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森永製菓の沿革1910〜2022年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1899〜1936年米国仕込みの量産技術を移した創業と、設備拡張が招いた3期無配「森永商店」設立
「森永製菓」に商号変更
日本煉乳を合併(これにより三島工場を承継)
自社品販売会社森永製品販売設立(以降全国各地に設立)★★
1937〜1965年戦時統制で失った菓子と、乳業を切り離して菓子専業へ戻した1949年森永乳業・森永食品工業・東海製菓・森永関西牛乳を合併
「森永食糧工業」に商号変更
森永太平森永乳業設立★★
森永太平東京・大阪・名古屋証券取引所に上場
森永太平乳業部門の分離による「菓子専業」への絞り込み

1949年、戦時に『森永食糧工業』へ改称していた同社は、4月に乳業部門を森永乳業として新設分離し、5月に東京・大阪・名古屋の3証券取引所へ上場、8月に商事部門を分離、10月に乳業を森永乳業へ譲渡して社名を『森永製菓株式会社』へ復した。半年のうちに会社分割・再上場・社名復元を畳みかけ、経営資源を菓子事業へ絞り込んだ判断であった。三代目・森永太平社長のもとで実行された。

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★★★
森永太平「森永製菓」に復称
森永太平売店部門を分離し森永キャンデーストアを設立
森永太平台湾製菓股份有限公司と資本提携
森永太平大和食品を設立
森永太平ゼネラルミルズとの合弁で森永ゼネラルミルズを設立★★
1966〜1987年400種まで膨らんだ品種と、戦後初の赤字・脅迫事件が迫った作り直し森永太平森永商事(旧)を合併
森永太平森永開発を設立
森永太平森和商事を設立
稲生平八森永デザートを設立
松崎昭雄小山新工場が竣工
1988〜2025年ぬ〜ぼ〜とinゼリーで作り直した稼ぎ方と、持ち合い解消・海外への振り向け森永剛太菓子事業の社内分社と「エンゼルの森」構想の見直し

1996年12月から1997年にかけて、森永製菓が菓子事業本部を5つの独立採算の事業単位『森永ビジネスユニット』へ分け、現場への権限委譲と本業集中で立て直しを図った組織改革。1997年3月期に11年ぶりの無配へ転落した経営責任をとって松崎昭雄社長が会長へ退き、創業者・森永太一郎氏の孫にあたる森永剛太専務が社長に就いて改革を主導した。バブル期に構想した理想都市『エンゼルの森』は、この過程で新規投資を止め、1999年に開発事業から撤退した。

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★★★
森永剛太森永開発を合併
森永剛太レストラン森永より営業権を譲り受け、エンゼルフードシステムズを設立
森永剛太摩利哪呷(上海)食品有限公司を設立
森永剛太エンゼルフードシステムズの株式を譲渡
矢田雅之ディユーアソシエイツを子会社化
矢田雅之米国森永製菓を設立★★
矢田雅之森永食品(浙江)有限公司を設立
新井徹塚口工場閉鎖
新井徹森永キノインドネシアを設立
新井徹森永キノインドネシアの株式を譲渡
新井徹森永アジアパシフィックを設立
太田栄二郎森永スナック食品を合併
太田栄二郎森永乳業株の政策保有縮減と、プライム移行に合わせたガバナンス改革

2022年2月28日、森永製菓が保有する森永乳業の普通株式430万株を売却すると発表し、翌3月1日、森永乳業が立会外買付取引(ToSTNeT-3)で1株5,760円・総額約247億円の自己株式として買い取った経営判断。太田栄二郎社長のもと、2022年4月の東証プライム市場移行を控えて政策保有株を縮減し、資本効率とガバナンスの説明責任を高める資本政策の一環であった。

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★★★
太田栄二郎プライム市場に移行
出典・参考
  • 森永製菓 統合報告書2025
  • 森永製菓 有価証券報告書【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「森永製菓」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)「森永製菓」の項
  • 日本産業史 第3巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-食の多様化・グローバル化」
  • 証券アナリストジャーナル 1967年5巻5号(望月幸吉 森永製菓常務取締役)
  • 日経ビジネス 1980年1月28日号
  • 日経ビジネス 1980年12月15日号
  • 日経ビジネス 1993年11月29日号

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