菓子事業の社内分社と「エンゼルの森」構想の見直し
11年ぶりの無配に転落した名門菓子メーカーは、本業をどう五つの「企業内企業」へ割り、理想都市の構想を畳んだのか
更新:
- 概要
- 1996年12月から1997年にかけて、森永製菓が菓子事業本部を5つの独立採算の事業単位「森永ビジネスユニット」へ分け、現場への権限委譲と本業集中で立て直しを図った組織改革。1997年3月期に11年ぶりの無配へ転落した経営責任をとって松崎昭雄社長が会長へ退き、創業者・森永太一郎の孫にあたる森永剛太専務が社長に就いて改革を主導した。バブル期に構想した理想都市「エンゼルの森」は、この過程で新規投資を止め、1999年に開発事業から撤退した。
- 背景
- 森永製菓は1990年前後に、三重県上野市の丘陵地1000ヘクタールへ職・住・遊・学のそろった理想都市「エンゼルの森」を築く総事業費3500億円の構想を立てたが、バブル崩壊で資金計画が崩れ、6年余り着工できずにいた。同時に本業の菓子は新製品のヒットを欠いて4位グループへ後退し、冷菓の慢性赤字も重なって、1997年3月期に11年ぶりの無配へ沈んだ。
- 内容
- 1996年12月、菓子事業本部の傘下にチョコレート・キャラメルキャンディー・ビスケットスナック・ファンシー・市場開発の5つのビジネスユニットを置き、商品分野ごとに独立採算で収益を管理する体制へ組み替えた。各ユニットにゼネラルマネジャーを置いて予算配分の権限を委ね、38歳の課長代理を抜擢するなど年功序列を崩した。森永剛太社長は事業部を企業内企業にして権限を委譲すると述べ、どんぶり勘定を排して現場にコスト意識を通そうとした。
- 含意
- 社内分社は、聖域だった「エンゼルの森」を畳んで本業へ資源を戻す転換と対をなした。改革の実りは一様ではなかったが、現場主導とコスト管理を通す試みは、1994年に生まれたウイダーinゼリーが2000年代に菓子と並ぶ柱へ育つ素地ともなった。名門「森永王国」が自らの拡張の記憶をどう作り替えるかを問う判断であった。
拡張の記憶と、割り直された本業
この改革の核心は、聖域だった「エンゼルの森」を畳み、どんぶり勘定で括ってきた菓子を五つの企業内企業へ割り直した点にある。バブル期の理想都市に象徴される拡張の論理を、現場の採算と権限委譲という集中の論理へ切り替えようとした試みであったとみることができる。好況期の余裕からではなく、11年ぶりの無配という結果に追われての着手であった点に、この判断の切迫がうかがえる。名門が長く抱えてきた大きな夢を、経営の重荷として手放す場面でもあった。
もっとも、森永剛太社長自身が実施の段階で7割は失敗すると語ったように、組織を割り替える設計と、それを根づかせる実行の間には距離がある。ビジネスユニット制が本業の菓子をどこまで蘇らせたかは一様ではなく、むしろ会社の主力は、この時期に芽のあったウイダーinゼリーを軸とする健康食品へと、後年ゆっくり移っていった。理想都市の断念から始まった本業回帰が、菓子への復帰ではなく別の主力への転換の入り口になった点に、この決断の長い射程がうかがえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
聖域だった理想都市「エンゼルの森」
森永製菓の1990年代の経営を重くしていたのは、バブル期に描いた巨大な街づくり構想であった。緑豊かな丘陵地に菓子工場を建て、その周りに従業員の住宅、遊園地や美術館、学校まで配して職・住・遊・学のそろった理想の街をつくる——大正期の創業者たちが夢見た「エンゼルの森」の構想は、二代目社長・松崎半三郎の孫にあたる松崎昭雄社長と、創業者・森永太一郎の孫にあたる森永剛太専務らに受け継がれていた。バブル期の1990年前後に立てた基本計画では、総事業費3500億円、年間600万人を集める規模で、創業100周年の1999年に開業する構えであった[1][2]。
用地は伊賀忍者の里として知られる三重県上野市の郊外に広がる1000ヘクタール、東京ドーム約200個分に及んだ。ところが立地協定から6年余りを経ても着工計画は固まらなかった。森永が自らの出資分として見込んだ700億円は、東京・港区の本社用地をバブル最盛期の評価額で算定したもので、地価の下落とともに資金計画の根拠は崩れていった。社内でこの事業は「AK(エンゼルキングダムの略)」と呼ばれ、推進本部長を長く松崎昭雄社長が兼ねたため、計画への批判は実力社長への批判とみなされ、タブーに近い扱いを受けていた[3]。
無配へ沈んだ本業
聖域化した構想が宙に浮くあいだ、足元の本業も傾いていた。売上の6割を占める菓子は新製品のヒットを欠き、部門売上ではロッテ・山崎製パン・明治製菓に抜かれて、カルビーやブルボンと並ぶ4位グループの900億円台に沈んでいた。40年の歴史をもつ冷菓事業は、記録的な猛暑の1994年を除いて一度も黒字を出せず、1997年3月期には冷菓だけで二十数億円の赤字を抱えた。こうして同社は1997年3月期、11年ぶりの無配へ転落した[4][5]。
無配の責任をとって松崎昭雄社長は1997年6月末に代表権のない会長へ退き、森永剛太専務が社長を継いだ。就任後の森永剛太社長は、当時の苦境を率直に語っている。1999年に創立100周年を控えながら、先行投資の負担が重く、菓子の収益率は下がり、アイスクリームは構造的な不振にあって無配に至ったという認識であった。子どもから若者が主役の菓子にとって少子化も逆風でもあった。名門「森永王国」の看板は、複数の重荷を同時に抱えて曇っていた[6]。
決断
社長交代と菓子事業の社内分社
森永剛太社長が本業の立て直しの軸に据えたのは、菓子事業そのものの作り替えであった。前任の松崎昭雄社長は、1984年のグリコ・森永事件を乗り切って14年に及ぶ長期政権を築いた実力者であったが、無配の経営責任を負って会長へ退いた。菓子事業本部を担当していた森永剛太専務は、社長就任に先立つ1996年12月、その本部に独立採算の事業単位「森永ビジネスユニット」を導入した。本来は1997年4月発足の予定を、1日早ければ1日早く成果が出るとして4カ月繰り上げた実施であった[7][8]。
菓子事業本部の傘下には、チョコレート、キャラメル・キャンディー、ビスケット・スナック、キャラクター菓子を扱うファンシー、みやげ物など特定ルート向けの市場開発という5つのユニットが置かれた。年商900億円強の菓子を一括りの「どんぶり勘定」で見るのをやめ、商品分野ごとに採算を管理し、幹部から末端までコスト意識を通すのが狙いであった。各ユニットには社長にあたるゼネラルマネジャーを置き、新規の大型投資を除けば、その場の裁量で商品ごとの予算を割り振る権限を与えた。社内分社に近い形で、菓子を小さな会社の集まりへ組み替えた[9]。
権限委譲と抜擢人事
組み替えは、器だけでなく人事にも及んだ。ファンシーのゼネラルマネジャーには、前年11月時点で38歳の課長代理であった西宮正氏が起用され、肩書は課長のまま部長職相当の待遇が与えられた。キャラメルには取締役の藤巻統一氏を据え、森永剛太社長は両者に同じ権限と責任を負わせ、一方にはやりがいを、一方には負けられないという反発心を期待すると語った。1996年4月からは全従業員へ目標管理制度を導入し、成果に応じて課長級の賞与に年間200万円前後の差をつけた。年功序列の色が濃かった社風に、あえて波風を立てる試みであった[10][11]。
森永剛太社長がめざしたのは、改良でも改善でもなく、思い切った改革であった。長い間にたまった組織疲労を取り除くには、現場への権限委譲と能力主義を徹底するほかない、というのがその立場であった。就任後の同社長は、事業部を企業内企業にして権限を委譲し、各リーダーが思い切って動ける体制が動き出したと述べている。慢性赤字のアイスクリームについても、主力工場と関係会社の二工場のうち最も原価の安い工場で作るという生産集約に踏み込んだ。現場に責任を下ろし、採算で事業を律する方向は一貫していた[12][13]。
結果
畳まれた「エンゼルの森」
本業の作り替えと並んで残された課題が、宙に浮いた「エンゼルの森」の始末であった。1997年の時点では、会社は撤退を明言せず、経理・関連事業担当の奥田専務が撤退はあり得ないと述べ、森永剛太社長も土地の活用を慎重に検討したいと言葉を濁していた。だが構想の資金計画はすでに崩れており、新規投資は前年から止まったままであった。社長就任から2年後の1999年7月27日、森永製菓は取締役会で「エンゼルの森」開発事業からの撤退を決議し、有利子負債を769億円から2000年度中に500億円以下へ圧縮する方針を示した[14][15]。
撤退の決議に続いて、事業主体であった100%子会社の森永エンゼルの森は1999年9月に解散し、翌2000年2月末をめどに清算へ入った。撤退に伴う特別損失はおよそ190億円と見込まれ、本社固定資産の証券化で得た特別利益を充てて処理される見通しとなった。大正期以来の創業者たちの夢を継ぎ、社内で聖域とされてきた理想都市の構想は、無配を機に始まった立て直しの過程で畳まれた。会社の資源は、菓子という本業へ改めて引き戻された[16]。
本業回帰の先にあった主力交代
社内分社による立て直しが本業の菓子をどこまで蘇らせたかは、単純には測りにくい。森永剛太社長自身、経営戦略を立てても実施の段階で7割は失敗する、人は変化を好むようで実際は嫌がる、と改革の難しさを認めていた。現場へ権限を下ろし採算を細かく見る仕組みは根づく一方で、縮小する国内菓子市場のなかで、かつての「森永王国」を取り戻すには至らなかった。立て直しの主眼であった菓子は成熟した国内市場のもとで伸び悩み、体制の刷新は即座の復調にはつながらなかった[17]。
むしろこの時期に語られた発想が、後の同社の進む先を変えた。森永剛太社長は、菓子の定義にこだわらなければ高齢化や健康というキーワードがあり、ゼリー飲料やココアも菓子といえる、と述べていた。菓子の枠を機能性食品へ広げる見方であった。1994年に発売していたウイダーinゼリーは、当初こそ小さな新規領域にすぎなかったが、2000年代に朝食代替や栄養補給の用途を得て、菓子と並ぶ柱へ育っていった。無配を機の本業回帰は、菓子そのものの復権よりも、健康食品という次の主力への入り口になったとみることができる[18][19]。
- 日経ビジネス 1997年5月12日号「森永製菓 『エンゼルの森』で迷走 本業の社内分社に活路」
- 週刊東洋経済 1997年11月22日号「[ひと]森永剛太 森永製菓社長 フロンティア精神で現状打開に真っ向勝負」
- 日本食糧新聞(1999年8月2日)「森永製菓、『エンゼルの森』開発事業から撤退」
- 日本食糧新聞(1999年)「森永製菓が森永エンゼルの森株式会社を解散」
- 森永製菓 有価証券報告書【沿革】