江崎グリコの創業者である江崎利一氏は、1882年12月23日に佐賀県神崎郡蓮池村の薬種業を営む家に生まれた[1]。1901年6月に父清七氏を亡くし、19歳で弟妹を含む6人家族の全責任を負った[2]。家業の薬販売のかたわら1915年からブドウ酒の量り売りを手がけ、大樽で仕入れて小びんに詰め替える商いは翌年に1万3千円の利益を生んだ[3]。1919年春、有明海に近い筑後川堤防沿いの川原で牡蠣を煮る作業を見た[4]江崎利一氏は、煮汁が捨てられているのを知り、牡蠣には多量のグリコーゲンが含まれるという薬業雑誌の記事を思い出した。一升びん2本分の廃液を煮つめて九州帝国大学医学部の早船氏へ分析を依頼したところ、グリコーゲンの含有量は36〜43%あり、鉄分も含まれていた[5]。
事業化の向きを決めたのは、10歳の長男誠一氏がチフスにかかり医師がさじを投げたときの経験[6]だった。江崎利一氏は医師の許可を得て牡蠣のエキスを飲ませ、誠一氏は快方に向かった[7]。製薬業界では三共がグリコナール錠を先に世へ出していた[8]が、江崎利一氏は薬にすれば病人にしか届かないと読み、健康な人が毎日口にする菓子に混ぜる道を選んだ[9]。つくだ煮やびん詰め、ふりかけゴマも試したうえでアメ菓子に決め、1921年4月、41歳で妻エキ氏と3人の子を連れて大阪へ移った[10]。ブドウ酒の商いに使っていた堀江の店をそのままグリコの本拠に充て、資本金6万円で発足した[11]。同じころの資本金は森永が1500万円、明治が750万円[12]で、後発の小資本での船出だった。
商品名と商標は中身より先に決まり、江崎利一氏はペンギンや象の鼻を含む5案を小学校の廊下に張り出して子供に選ばせ[13]、両手を挙げてゴールインする姿を採った。標語は500メートルでは大げさ、100メートルでは弱いと考えて『一粒三百メートル』に定め、実際に一粒には体重40キロの人が300メートル走るだけのカロリーを持たせた[14]。粒はハート型の型抜きに成功し、包装は森永にならった黄色が通り相場だったところを赤箱に変えた[15]。無名の新製品を一流商店から売り出そうと三越へ通い詰め[16]、断られても頼み続けて、1922年2月11日に売り場へ並べ、この日を創立記念日と定めた[17]。
発売してからの2年半は資金が減る一方で、46円の小切手不足を銀行から催促されて日歩15銭の高利貸しに頼った[18]。江崎利一氏は住み込みの店員14人に向こう3年間は下着と下駄以外の新調を禁じると告げた[19]。撤退を進言した販売員には『私は一人になってもやり通す。城を枕に討ち死にする覚悟の者だけついてこい』[引用元]と応じた[20]。打った手は、グリコ2粒を入れた風味袋の試供品、クーポン1枚と4銭で5銭のグリコに引き替える引き札、5銭を入れて1個取る公徳販売機[21]だった。公徳販売機は神社のおみくじから思いつき、16年間も売店を禁じてきた浜寺海水浴場に置かせた[22]。1924年秋、三越へ持ち込んでから2年8か月で収支は黒字に転じた[23]。
1925年1月、江崎グリコは豊崎の世界ゴム工場の中に敷地250坪を借りて移り、従業員150人の工場を構えた[24]。ところがその夏には深追いした出荷の反動で返品が山積し、負債は6万2千円に達した[25]。同じ時期に6万4千円で整理したB製菓との差は2千円しかなく、返品の処理には約1年半を要した[26]。1927年4月の金融恐慌では、取引を集中していた近江銀行が倒産して手持ちの現金が260円まで減った[27]。江崎利一氏は第一銀行の野口支店長を訪ねてその場で取引を開いてもらい[28]、手形を割り引かせて危機を抜けた。この前後に豆玩具の封入を始め、1929年からはオマケとグリコを別々の箱に収めて連結するオマケサックを売り出した[29]。
1929年2月、合名会社江崎を資本金100万円の株式会社江崎へ改組した[30]。翌1930年8月、江崎利一氏はテーラー協会が主催するアメリカ工場視察団に上野陽一氏を団長とする12名の一人として加わり、120か所の工場を見て回った[31]。新工場の立地は、地価の安い神崎大橋付近と大阪・神戸間の鉄道沿線にある御幣島を、広告としての価値で比べて決めた[32]。チラシは配布の経費を入れて1枚5厘かかるのに対し、汽車から工場を眺める人は1人あたり8毛で6分の1の費用にとどまった[33]。1931年12月、御幣島に新工場が完成し、初めて稼働した日は江崎利一氏の48回目の誕生日にあたった[34]。
新工場ができると気の緩みが出ると考えた江崎利一氏は、次の柱を作る仕事を第二の創業と呼び、1933年2月にビスコを売り出した[35]。当時のビスケット界では10年の歴史を持つカルシウム入りのカルケットが首位にあり、ビスコは酵母入りで対抗した[36]。サンドクリームをビスケットへ付けるのに業界が不可能としていた脂肪の使用を研究し[37]、これに成功した製法はのちに業界へ広がった。1934年1月には商号をグリコへ改め[38]、同じ年には年間50万円の純益を見込めるようになったのを機に財団法人母子健康協会を設立した[39]。鈴木梅太郎氏や嘉納治五郎氏を顧問・理事に迎え、健康優良幼児の審査と表彰を毎年続けた[40]。
ビスコを世に出したころ、江崎利一氏は新聞社の招待で泊まった熱海のホテルで松下幸之助氏と同室になり[41]、無一物から身を起こした境遇が似ていたことから意気投合して、大阪へ戻ってから二人で『文なし会』をつくった。会にはサントリーの鳥井信治郎氏、中山製鋼、寿重工、堀抜帽子の各社長が加わって6人となり、のちに『大阪六人男』と呼ばれた[42]。事業の広がりは海外へも向かい、1933年の大連博覧会で満鉄理事の伊沢道雄氏から奉天進出を勧められた[43]江崎利一氏は、現地を視察してその場で工場建設を決めた。1935年に奉天、1939年に天津へ工場を持ち[44]、1940年には南洋のポナペ島にカカオの栽培加工を担うグリコ南洋産業を設立し、高碕達之助氏が発起人として加わった[45]。
1940年を頂点に統制と原材料の窮乏で生産は抑えられ、配給用のグリコはオマケを外した白い箱に変わった[46]。1943年2月には商号を江崎グリコへ改め[47]、1944年には軍の要請で国内工場の大部分が航空機生産へ転換した。大阪の工場は住友化工機塚本工場としてプロペラを、東京の工場は富士航空の子会社となった江崎航空が航空機部品を作った[48]。1945年4月に東京工場、6月に大阪工場をいずれもほぼ焼失し、海外資産も接収された[49]。江崎利一氏は焼け跡で、焼けなかった最大の資本はグリコの看板だと従業員に語り、戦災を免れた1937年型ビュイックを17万5千円で売って原料の水あめ代に充てた[50]。1945年12月には大阪工場の一部を復旧して農林省と大阪府発注の乾パンを作り始め、1951年3月に東京工場、9月に大阪工場の復旧を終えた[51]。1950年には後継者と定めていた専務の長男誠一氏を39歳で失い、江崎利一氏はふたたび陣頭に立った[52]。
戦後の再建を終えた江崎グリコは資本市場からの調達に踏み出し、1953年2月に大阪の店頭で株式を公開して、同年3月には佐賀市に九州工場を新設した[53]。翌1954年3月には大阪証券取引所へ上場した[54]。資本金は終戦時の250万円から1951年に1000万円、1954年3月には1億2000万円へ増えた[55]。松下幸之助氏は江崎利一氏に『グリコはもうあんた一人のものやない。日本のグリコや』[引用元]と告げている。
公開で資金の道が開けると、江崎グリコは菓子の枠を越えて製造品目を広げ、1957年3月にアイスクリーム、1958年2月にチョコレート[56]の製造販売を始めた。さらに1960年4月にチューインガム、同年9月にカレーへと品目を継いだ[57]。商号は1949年12月にグリコへ戻していたものを1958年1月に江崎グリコへ改め[58]、1961年5月には東京証券取引所へも上場した[59]。資本金は1961年に10億円、1963年には22億5000万円に達している[60]。広げた品目を独創的な商品に仕立てる土台になったのが、菓子メーカーとしては珍しい製菓機械の開発設計部門[61]で、江崎利一氏は『グリコの機械なんかは、機械屋さんに聞いても世界一ですよ』[引用元]と語った。
食品への広がりは乳業にも及び、江崎グリコは動物性たんぱく質の供給と自社製菓部門への原料確保をねらって、農家との共同資本で東京・静岡・岐阜・広島・島根・佐賀・熊本などに10社ほどの乳業会社を設けた[62]。1966年10月にはこれら乳業子会社7社を合併してグリコ協同乳業とし[63]、牛乳・乳製品を菓子・冷菓に並ぶ柱に据えた。乳製品では大阪市立大学教授の福本寿一郎氏が発明した特殊酵素を応用してチーズの製造原価を下げ[64]、フィンランドの乳製品最大手バリオ社とも技術提携を結んだ[65]。海外の評価も届き、1962年のブリュッセルの世界チョコレート・オリンピックでは[66]、戦前に南洋でのカカオ栽培を志した延長にあるアーモンドチョコレートがナッツ部門で1位を得た[67]。
品目を広げた代償は財務に出て、1958年ごろまでグリコ・アーモンドグリコ・ビスコ・アーモンドチョコレートの4品を中心にしていた商品は、コーラやチーズを加えて149品目まで増え[68]、経営を一気に悪くした。1960年3月期から1964年3月期にかけて売上高は59億2000万円から157億1000万円へ2.7倍に伸びた[69]一方、売上債権は5.2倍に膨らみ、借入金は6億3000万円から38億8000万円へ6.2倍になった[70]。税引前利益の伸びは3億7000万円から9億3000万円の2.5倍[71]にとどまった。1963年3月期の回収高は売上高134億円を15億円も下回り[72]、末端の売れ行きを無視した生産と販売が続いていた。
株価も下がり、1965年のグリコ株は1月に128円の高値をつけたのち7月には65円と額面近くまで落ちて、前年の高値165円・安値81円と比べてじり貧に陥っていた[73]。ここで当時社長の江崎利一氏が陣頭に立ち、新製品を次々に得意先へ送り込む売り方を180度転換した[74]。事業部制をやめ、全国各府県にあった支店を7支店へ整理し[75]、商品も一気に28品目へ絞り込んだ[76]。末端で売れた分だけを出荷する体制に改めた1965年3月期は、売上高がほぼ横ばいのまま売上債権が9億円減り、回収高は148億円から163億円へ10%伸びた一方、税引前利益は8億1000万円と13%の減益になった[77]。
転換の柱は少品種大量生産で、売上高の90%以上を占める菓子部門の生産品種を約30種に絞ったのに対し、明治製菓と森永製菓は100種以上を抱え[78]、その差は3分の1から4分の1にあたる。流通在庫はグリコを100とすると森永製菓が210、医薬品を抱える明治製菓は409に達した[79]。従業員は1964年3月期の3028人から1975年3月期の1667人へ45%減り、同期の明治製菓7117人・森永製菓5268人と際立った差がついた[80]。広告と販売も絞り、1975年春に本格発売した米菓コメッコはローカルマーケットで2年テストしたうえ、近畿・北陸・北海道に地域を限って宣伝とセールスマンを重ねて投じた[81]。
絞り込みの成果は10年をかけて数字に出て、1968年3月期から1975年3月期までの7年で売上高は3.4倍になったのに、売上債権は1.6倍にとどまり、税引前利益は7.4倍に伸びて、借入金は1.1倍とほとんど増えなかった[82]。1975年9月中間期の経常利益は43億円と前年同期比50.9%増え、税引利益20億円は前年同期の8億円台の2.4倍にあたる[83]。同じ中間期の経常利益は明治製菓が32億円、森永製菓が16億円で、江崎グリコの売上高388億円は明治製菓715億円の約半分にすぎなかった[84]。
差がもっとも大きく出たのは資本構成で、1975年9月期の借入金は江崎グリコが40億7000万円だったのに対し、明治製菓は468億2000万円、森永製菓は283億4000万円に及び[85]、支払利息割引料も4億6000万円に対して明治製菓42億8000万円、森永製菓25億5000万円と開いた[86]。1974年度の申告所得は江崎グリコ82億円で、明治製菓76億円・森永製菓38億円を上回った[87]。1965年3月期の申告所得は8億円で明治製菓25億円の3分の1でしかなく、10年で申告所得を10倍に伸ばした[88]。株価は1975年1月9日の安値287円から大納会の1560円へ5.4倍に上がり、20%高にとどまった東証ダウ式平均を大きく引き離した[89]。
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|---|---|---|---|---|
| 1921〜1953年牡蠣の煮汁を薬でなく菓子に載せた創業と、全工場焼失からの再建 | 江崎利一氏が合名会社江崎商店を創立 | ★ | ||
| グリコーゲンを成分とする栄養菓子グリコの製造販売を開始 | ★★ | |||
| 大阪三越でグリコを発売。(のちに創立記念日と定める。) | ★ | |||
| 江崎商店に組織変更 | ★ | |||
| ビスコを創製し製造販売を開始 | ★ | |||
| グリコに商号変更 | ★ | |||
| 江崎グリコに商号変更 | ★ | |||
| グリコに商号変更 | ★ | |||
| 株式公開。(大阪店頭で売買) | ★ | |||
| 九州工場を新設 | ★ | |||
| 1954〜1975年総合食品への多角化が招いた財務のひずみと、末端出荷主義への転換 | アイスクリームの製造販売を開始 | ★★ | ||
| 江崎グリコに商号変更 | ★ | |||
| チョコレートの製造販売を開始 | ★★ | |||
| チューインガムの製造販売を開始 | ★ | |||
| 栄養菓子の一本足からアイス・チョコ・ガム・カレーへ広げた総合食品化 大阪証券取引所への上場を果たした江崎グリコが、1957年のアイスクリームを皮切りに、チョコレート、チューインガム、カレーへと4年のうちに製造品目を広げ、菓子・冷菓・食品を束ねる総合食品会社の骨格を作った経営判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 末端出荷主義への転換と菓子30品種への絞り込みによる減量経営 1965年3月期を境に、江崎グリコが得意先へ新製品を送り込む売り方をやめ、末端で売れた分だけを出荷する体制へ切り替えた経営判断。全国府県に置いた支店を7支店へ整理し、菓子の生産品種を約30種に絞る少品種大量生産へ移った。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 事業部制を廃して全国の支店を7支店に整理 | ★ | |||
| 乳業子会社7社を合併しグリコ協同乳業が発足 | ★★ | |||
| 合弁会社Thai Glico Co.,Ltd.設立 | ★ | |||
| グリコ仙台アイスクリーム設立 | ★ | |||
| 鳥取グリコ設立 | ★ | |||
| 1976〜2000年タイに築いた海外生産の足場と、脅迫事件が問うた危機管理と商品開発 | 三重グリコ設立 | ★ | ||
| 創業者取締役会長江崎利一逝去 | ★ | |||
| ジェネラルビスケット社とフランスにGenerale Biscuit Glico France S.A.を設立 | ★ | |||
| グリコ栄養食品の株式取得、子会社化 | ★ | |||
| 江崎勝久 | 神戸グリコ設立 | ★ | ||
| 江崎勝久 | グリコ商事設立。(1996年11月江栄商事に商号変更、不動産の管理他) | ★ | ||
| 江崎勝久 | 茨城グリコ設立 | ★ | ||
| 江崎勝久 | 日中 上海格力高日清食品有限公司に経営参加 | ★ | ||
| 江崎勝久 | 子会社にするとともに上海格力高食品有限公司に商号変更 | ★ | ||
| 江崎勝久 | 江崎格力高食品(上海)有限公司を設立 | ★ | ||
| 江崎勝久 | 江栄情報システム設立。(情報システムの保守・開発) | ★ | ||
| 2001〜2025年海外事業の主力化と、創立100年に噴き出した資本市場と基幹システムの問い | 江崎勝久 | グリコ仙台アイスクリームを仙台グリコに商号変更 | ★ | |
| 江崎勝久 | アイクレオの株式取得、子会社化 | ★ | ||
| 江崎勝久 | Ezaki Glico USA Corporation設立 | ★ | ||
| 江崎勝久 | 上海江崎格力高南奉食品有限公司(現・江崎格力高南奉食品(上海)有限公司)を設立 | ★ | ||
| 江崎勝久 | Haitai Confectionery & Foods Co.,Ltd.と韓国にGlico - Haitai Co.,Ltd.を設立 | ★ | ||
| 江崎勝久 | WINGSグループと合弁会社PT.Glico-Wingsを設立 | ★ | ||
| 江崎勝久 | グリコ乳業を吸収合併 | ★★ | ||
| 江崎勝久 | アイクレオの製造部門を除く事業を会社分割により承継 | ★ | ||
| 江崎勝久 | 決算期を3月31日から12月31日に変更 | ★ | ||
| 江崎勝久 | 連結製造子会社14社の事業をグリコマニュファクチュアリングジャパンが承継 | ★★ | ||
| 江崎悦朗 | ダルトンの株主提案を全面拒否し、安定株主の一部が離れた第119回総会 2024年1月、江崎グリコは株主のロンシャン・SICAV(代理人ダルトン・インベストメンツ・インク)から4件の株主提案を受け、取締役会はすべてに反対を決議した。3月26日の第119回定時株主総会で提案は否決されたが、剰余金の配当等の決定機関に関する定款変更には42.9%の賛成が集まった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 江崎悦朗 | Greenspoonを子会社化。(2024年6月完全子会社とする) | ★ | ||
| 江崎悦朗 | 342億円を投じた基幹システムの全面移行と、7カ月に及んだチルド商品の出荷停止 2024年4月3日、江崎グリコが調達・生産・物流・財務の情報を統合する新基幹システムへ全面移行した判断。切り替え直後に障害が起き、4月14日からチルド食品(冷蔵品)の出荷が止まり、全品の出荷再開は11月5日まで7カ月を要した。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(江崎グリコ)