江崎グリコ末端出荷主義への転換と菓子30品種への絞り込みによる減量経営

得意先へ送り込んで売上を立てるか、売れた分だけ出荷するか——40年不況が迫った選択

時期 1965年3月
意思決定者(推定) 江崎利一 社長
論点 販売体制と生産品種
概要
1965年3月期を境に、江崎グリコが得意先へ新製品を送り込む売り方をやめ、末端で売れた分だけを出荷する体制へ切り替えた経営判断。全国府県に置いた支店を7支店へ整理し、菓子の生産品種を約30種に絞る少品種大量生産へ移った。
背景
1960年3月期から1964年3月期にかけて売上高は2.7倍に伸びた一方、売上債権は5.2倍、借入金は6.2倍に膨らんだ。末端の売れ行きを無視した生産と販売が続き、運転資金の急増を借入金で賄う財務になっていた。
内容
当時社長であった江崎利一氏が陣頭に立ち、新製品を次々に得意先へ送り込む売り方を180度転換した。事業部制をやめ、全国各府県にあった支店を7支店へ整理し、生産は少品種大量生産、人員は少数精鋭、開発と販売は重点集中という三つの方針に統一した。
含意
転換の直後は減益となったが、1968年3月期から1975年3月期までの7年で売上高は3.4倍、税引前利益は7.4倍に伸び、借入金はほぼ横ばいにとどまった。1975年9月中間期の経常利益43億円は明治製菓・森永製菓を上回り、株価はその年最大の値上がりを記録した。
筆者の見解

売上を落とす決定を、好況の入口で下せるか

この判断の難しさは、危機のさなかではなく、まだ伸びているように見える時点で売上を作る仕組みを止めた点にある。売上高が4年で2.7倍という数字だけを見れば、経営が誤っているとは誰も言わない。実際に壊れていたのは回収と在庫の側であり、そこに手を入れれば当期の利益は落ちる。1965年3月期の13%減益は、その代償を先に払った結果とみることができる。創業者が自ら陣頭に立った点も、痛みを伴う転換を短期で通しきるうえで働いたとみられる。

もっとも、少品種大量生産という型は、成熟した市場で新しい需要を作ろうとするとき、制約にもなりうる。品種を絞れば絞るほど、既存の主力商品の寿命に会社の収益が依存する。1970年代半ばの江崎グリコがポッキーやビスコといった定番商品を改良で延命させ続けたことは強みであると同時に、次の柱を生む余地を狭める要素でもあった。売れる分だけ作るという規律をどこまで貫き、どこから需要創造の投資へ資源を割くのか——この配分の問いは、機能性菓子やオフィスグリコを手がけたのちの江崎グリコにも引き継がれている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

4年で2.7倍に伸びた売上高の裏側

1960年代前半の江崎グリコは、数字の表側だけを見れば順調に伸びていた。1960年3月期を基準にすると、売上高は59億円から1964年3月期の157億円へと4年間で2.7倍に増え、税引前利益も3億7000万円から9億3000万円へ2.5倍になった。アイスクリーム、チョコレート、チューインガム、カレーと相次いで手がけた品目が売上に乗り、冷菓と乳業の子会社も各地に設けられていた。拡大の速度そのものは、高度成長期の食品会社として不自然なものではなかった[1]

成長の裏側には、売上高の伸び率を上回る売上債権の膨張が隠れていた。売上債権は4年間で5.2倍にふくらみ、売上高に回収が伴っていなかった。1963年3月期の回収高は売上高134億円より15億円少なく、翌1964年3月期も9億円少ない。無理に利益を出して法人税を先払いしているに近い状態であり、運転資金の急増を借入金で賄う結果、1960年3月期に6億3000万円だった借入金は4年後に38億8000万円と6.2倍になった。末端の売れ行きを無視した生産と販売が、そのまま財務内容の悪化に現れていた[2]

40年不況と、拡大期に築かれた販売組織

財務のひずみが表に出たところへ、1965年前後のいわゆる40年不況が重なった。当時の江崎グリコ株は1月に128円の高値をつけたのち7月には65円と半値近くまで下げており、1964年の高値165円・安値81円と比べてもじり貧の値動きであった。株式市場からの評価は、拡大の速度ではなく資金繰りと収益の質に向いていた。菓子業界そのものは伸びていたため、外部環境の悪化というより自社の経営の型が問われる時期にあたる[3]

押し込み販売を支えていたのは、拡大期に築いた販売組織そのものであった。江崎グリコは事業部制を敷き、全国各府県に支店を置いて、次々に生まれる新製品を得意先へ送り込んでいた。組織を大きく張れば張るほど、末端で売れたかどうかとは関係なく出荷の数字が積み上がる仕組みになる。この問題にいち早く気づいたのが、当時社長であった江崎利一氏であったと、のちに村上茂取締役が振り返っている[4]

決断

社長自らの決断で売り方を180度変える

1965年3月期、江崎利一氏は自ら陣頭に立って売り方を組み替えた。新製品を次から次へと得意先に送り込んでいたやり方を180度転換し、事業部制をやめ、全国各府県にあった支店を7支店へ整理した。村上茂取締役は、本来の経営に戻すためには体力があるうちにやろうということで徹底的にやった、と当時を語っている。売上高を作る仕組みを自ら壊す決定であり、拡大を続けてきた組織にとっては痛みを伴うものであった[5]

転換の徹底ぶりは、その期の数字に表れた。1965年3月期の売上高は前年とほぼ横ばいだった一方、売上債権は9億円減り、回収高は前年の148億円から163億円へ10%伸びた。売上高が伸びなかったぶん、税引前利益は8億1000万円と13%の減益になった。売上と利益を落としてでも回収を優先するという選択であり、以後の江崎グリコは末端での売れ行きに見合った出荷にかぎる体制を守った。ごまかしの効かない仕組みに変えたことで、末端で売れる製品の開発と、効率のよい売り方を探すこと自体が経営の主題になった[6]

少品種大量生産・少数精鋭・重点集中

新しい体制は、少品種大量生産・少数精鋭・重点集中という三つの方針にまとめられた。生産の側では、売上高の90%以上を占める菓子部門の生産品種を約30種に絞った。100種以上を並べる明治製菓・森永製菓の3分の1から4分の1にあたる。多品種少量生産では全製品の品ぞろえをしておくだけで在庫がかさむため、品種を減らすことは棚卸資産の圧縮に直結する。一次問屋・二次問屋・小売店へひとそろい供給する必要も薄くなり、流通在庫と回収条件の差となって売上債権の効率に跳ね返った[7]

人と広告の使い方も、少ない対象に集めた。1975年3月期の従業員数は1,667人で、森永製菓の5,268人、明治製菓の7,117人と比べて際立って少ない。販売では慎重なテストセールスを重ね、1975年春に本格販売した米菓コメッコの場合もローカルマーケットで2年をかけて試している。本格販売といっても近畿・北陸・北海道と地域を限り、広告宣伝とセールスマンをそこへ重点的に投入した。他社が模倣しても価格で負けないだけの裏付けを、自社開発の製菓機械が支えていた[8][9]

結果

10年をかけて表に出た効率経営の成果

基礎工事からやり直したため、効果が表面に出るまでには時間がかかった。1968年3月期を基準にすると、1975年3月期までの7年間で売上高は3.4倍になったのに対し、売上債権はわずか1.6倍にとどまっている。同じ期間に税引前利益は7.4倍となり、借入金は1.1倍とほとんど増えていない。1960年3月期から1964年3月期までの4年間の動きと比べれば、資金の回り方は逆向きになった。従業員数も2,383人から1,667人へ減り、売上高が3.4倍になる間に人員は7割の水準に下がった[10]

石油危機後の不況下で、その差は順位となって表れた。1975年11月に発表した9月中間決算の経常利益は43億円で前年同期比50.9%増、税引き利益は20億円と前年同期の8億円台の2.4倍になった。1974年度の申告所得は82億円に達し、森永製菓の38億円はもちろん、明治製菓の76億円もすでに上回っていた。1965年3月期にはわずか8億円で、明治の25億円の3分の1、森永の15億円の約半分にすぎなかった水準から、10年で10倍に伸びた計算になる。売上高は明治の約半分にとどまりながら、利益では両社を抜いた[11][12]

株式市場の評価と、10年先取りという評価

利益で最大手を抜いた事実は、株価に反映された。江崎グリコ株は1975年1月9日の安値287円から12月27日の大納会に1,560円をつけ、5.4倍の値上がりを記録した。同じ年の東証ダウ式平均は1月の安値3,627円に対し大納会4,358円と20%の上昇にとどまっており、その年最大の値上がり銘柄と呼ばれた。1976年3月には450万株の公募を実施し、資本調達の効率化も加わった[13]

江崎利一氏自身は、この転換を特別なものとは語っていない。1977年のインタビューで、今回の不況で減量経営がはやったが江崎グリコは10年以上前から実行してきたのではないかと問われ、人を増やさない、少品種大量生産など、昔からその方針でやってきた、と答えている。方針を社員に言い、勉強させ、自分の意思のとおりに研究して社員が一歩進んだことをやってきた、とも述べている。石油危機後に各社が迫られた減量経営を、10年早く自ら選んだ会社という評価は、こうした受け答えの中に置かれている[14]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1976年2月2日号「江崎グリコ」ケーススタディ
  • 日経ビジネス 1977年5月9日号「頭はいくら使っても減らない」江崎利一(江崎グリコ会長)インタビュー
  • 江崎グリコ 有価証券報告書【沿革】

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